階段の両側にはたくさんのお土産物屋さんが軒を連ねており、飽きることはない。 そしてこの本宮に行かないと有名な”幸せの黄色いお守り”を手に入れることはできない。独特の金文字が入ったのお守りはどのような願い事にもご利益があるとのこと。たしかにオーラが出ている。 途中にお守り授け所があるが、ここでは黄色いお守りは手にはいらないので要注意。 本宮の回りはちょっとした広場となっており、ここから讃岐富士と、眼下に市街地を望める絶景スポットとなっている。 奥ノ院までいくと合計1,368段もの階段を登る必要がある。毎年、10月の例大祭に併せ、マラソン大会が開催される。
内部の浴室は近代的に改造されてあるが、その他は創建当時そのまま。 広々とした神の湯とこじんまりした霊の湯の2つの浴場がある。休憩所も完備しており入浴後ものんびりできる。 天皇陛下が入られた浴室もあるとのこと、 その昔、八百万(やおよろず)の神々が疲れを癒しにきたように現在の企業戦士もここで命の洗濯をしていく。 入浴のみ300円。
慶長7年(1602年)から25年かけて賤ヶ岳の七本槍で有名な加藤嘉明が築造したもの。 三層の天守閣、戸無門、乾櫓などによる連立式平山城を構成している。 麓からは城の東側からロープウェイかリフトで上る。 「春や昔十五万石の城下町かな」とは正岡子規の句。松山は、夏目漱石の「ぼっちゃん」、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の舞台ともなった。ぼっちゃん姿のモデルさんと写真を撮ってもらった。
神亀5年(728年)聖武天皇の勅願により、創建された。若い白装束のお遍路さんも参拝している。穴に耳を当てると道後温泉の湯音が聞こえるという湯音石がある。 お遍路は今から約1200年前弘法大師が厄年の42歳に自分自身と人々の災厄を除くためにまわった道場を札所にしたのがはじまり。 一般庶民には広まった起源としては松山の長者衛門三郎が托鉢に訪れた弘法大師を無慈悲に扱い、8人の子供を失い、その罪滅ぼしに霊場をまわったという伝説が残されている。!
蝋商、本芳家の分家の一つで、当時の豪商の暮らしぶりや木蝋の生産の様子が展示されている。 左は本芳邸で本家。なお、この町並みに入るまでにやたらに”酢たまご”が売っているが、気にしないこと。 内子座はその中でも中核となる建物で大正5年(1916年)に大正天皇の御大典を記念し、町の有志により建てられた歌舞伎劇場。 昭和60年に修復事業が完成し、往時の姿をとりもどす。 太鼓櫓、桝席、回り舞台、花道など当時の姿が復元され、現在も芝居など様々な催しに使われている。 明治からの薬商「佐野薬局」を町が買い取り、江戸後期から明治期の商家の暮らしぶりを人形と小道具で再現している。 人形に近づくと動きだし、しゃべり出すので要注意。 家族は床の上で、食事をとるが、丁稚は土間で食事をとり、この時代でも身分の厳しさを伺わせる。内子座と上芳邸と共通のチケットがあり、個々に買うより安い。 個々に買うと900円だが共通券だと700円。。
ほとんど信号がないため、走りやすく道の駅や展望台も整備されている。 できれば、ここに入るまで伊予から国道378号を通り、双海、長浜を経由して行きたい。右手に広がる伊予灘を眺めながら走れる。 途中から霧がひどく5m先も見えない状態で灯台は諦めたが、いつも道を譲らない車がこんな時だけ、左にウィンカーを出して道を譲るのはやめましょう! 途中の三崎港からは国道九四フェリーと呼ばれる九州行きのフェリーが出ている。 1時間に一本の割合で出ており、予約がなくてもよっぽどのことがないない限り乗ることができる。
豊後水道に突出するこの岬は、リアス式海岸特有の百メートルを越える男性的な断崖を有し、磯に打ち寄せる激しい荒波に心洗われる思いがする。 途中まで有料道路で、後は一般道だが、断崖絶壁の上を走るので、高所恐怖症の人にはかなりつらい。 佐多岬や足摺岬に比べ知名度が低くあまり観光化されておらず、自然がそのまま残されている。 所々に漁村があり、のどかな雰囲気が漂う。穴場的spot。
ロープウェイは4人乗りの小さなもので、ゴンドラみたいに客が来たら、動かす仕組みなので、待つ必要はなし。海の上を渡るのでなかなかスリル満点。風が強かったので、かなり揺れる。 往復で900円は高いが、山頂には久良湾で、墜落した第2次大戦時の戦闘機、紫電改が展示されており、これを含めて考えるとまあまあ、かも。 上に登ると、宇和海展望タワーがあり、これはぐるぐる、360°回りながら、上下をし、御庄湾と黒潮の太平洋を一望できる。およそ、6分間の空中遊泳。ロープウェイとセットなら、全部で1,250円と割引がある。最初は高所恐怖症の管理人としては、怖かったけれど、そのうち慣れきて快適! 紫電改とは、日本海軍最後の陸上戦闘機で、ゼロ戦の後継機とも言われるぐらいの高性能を誇った。2000馬力エンジンと搭載し、最高時速は600kmを超えたと言われる。 最強の防空戦闘機となるはずだったが、終戦間際、人も物資も不足している状態では、満足に活躍できなかった。 415機が生産され、約170機の敵機を撃墜した。昭和53年11月に愛媛県南宇和郡城辺町の久良湾にほぼ原型をとどめ、海底に沈んでいるのを発見、引き上げされたものが、修復され、展示された。
広い道もあるが、こちらの方が情緒がある。海抜約80mに三重三層の天守閣を頂く宇和島城は、その均整のとれた美しさから別名鶴島城と呼ばれている。藤堂高虎が築城し、後、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が元和元年(1615)に入城した。 築城以来、約400年の歳月を経ており、現存する天守閣のうちでも、江戸時代の様式を留める貴重なものとされ、国の重要文化財に指定されている。長門丸と隣接する藤兵衛丸には、入場無料の「城山郷土館」がある。 古い民具や祭りの用具、お殿様が使った籠、昭和初期の絵地図や吉田初三郎のパノラマ地図などもある。ここの管理人のおじさんが、お客さんがくると、丁寧に説明してくれる。 近くに井戸丸とよばれる井戸があり、近くに井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあり、いざというときに備え厳重に管理された。 |
旅先での色々な出会いや体験を大切にし、楽しく、明るく、有意義な旅を続けていきたいと考えています。