本物の建物を移築したもので、造りもしっかりしており、平均の延床90坪(約300u)の豪農の家である。 左は、川前別家で、江戸末期(安政年間)に建てられたもの。 左下は、肝煎りの家と呼ばれる集落の中では最も大きな曲家で、結婚式やえらい人が来たときにもてなすのに使われた。 同じく江戸末期の建築。 肝煎りとは庄屋さんのことで、重要なことの意味で使われる肝入りはここからきている。回りはのどかな田園風景が広がる。 入場料520円はやや高い。肝煎りの家で飼われていたヤギ。”メーメー”とかわいらしい声で鳴く。 ヤギのほかにも大人の馬?と子馬がいて、大切にされている様子。右中は当時使った農機具、右下は、肝煎りの家の玄関。 37歳の若さで世を去った宮沢賢治の記念館。 賢治は岩手県をイートハートヴといい、この田園の風と光に溢れた遠野を銀河の空間に重ねあわせたのかもしれない。 右は、賢治の童話「よだかの星」の彫刻碑」。 ”よだか”は雀や鷹の仲間でありながら、容姿が醜く嫌われていた。 太陽に向かって死のうと思ったら太陽からお前は夜の鳥だから、星に頼むように言われ、夜空を飛んでいるうちに「よだかの星」となり今でも夜空に燃える存在となっている。
小岩井という名前は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1字ずつ取って作られたもの。 資料館にはイギリスから最新型のトラクターを導入するなど、近代農業を押し進め、日本の酪農の発展に寄与したとある。 園内はまきば園と呼ばれる芝生広場や馬車広場や子供用の遊具のおいてある観光エリアと上丸牛舎と呼ばれる畜産エリアがある。 観光エリアではお土産の売店やバーべキューなどの食事ができるレストランもあり、一日過ごすことができる。 畜産エリアでは昭和10年に建てられ、国の登録文化財となっている牛舎が今でも使われている。 地元の作家、宮澤賢治の碑もある。 匂いはそれなりにするので気をつけていってください。
藤原清衡により、天治元年(1124年)建立された中尊寺の金色堂は、極金色の阿弥陀仏堂。 初代、清衡、二代基衡、三代秀衡が祭られている。金色堂は左の鉄筋コンクリートの中にあり、本当は写真はいけないのだけど、ちょっと、手が滑ってしまった。 その昔、とても、美しい辰子という美しい娘がいて、その美しさを永遠に保ちたいと願掛けをしていたら、 満願の夜に、「北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがあった。辰子が夜中に、深い森の岩の間に清い泉を見つけ、口飲むと、何故かますます喉が乾き、泉も枯れるほど飲み続けてしまい、そのうち、龍になってしまった伝説がある。 周囲20kmの円形の湖で、水深423.4mと日本一を誇る。湖岸を一周できる。 十和田湖は、周囲44Km、水深327mで、本州最大の二重式カルデラ湖。周囲の道はアップダウンがはげしくみ晴らしの良いのは発荷峠と、御鼻部山の両展望台。 休屋湖畔から御前ヶ浜という砂浜を歩くと十和田湖のシンボルとも言える乙女の像がある。 彫刻家、詩人の高村光太郎の作品で昭和28年に建立されたが、プロポーションで年代がわかるのはやや悲しい。
天から漏れる光が見事なコントラストを見せ、思わず、バイクのエンジンを止め、見入ってしまう。子の口から、焼山を結ぶ全長14kmの遊歩道も整備されている。 特に、新緑と紅葉時が見事であるが、道は広いとは言えず、紅葉時は大渋滞が予想される。 睡蓮沼の展望台から八甲田山を望む。 八甲田山といえば、やはりこの映画。露戦争開戦を目前にした明治34年末。 厳冬の八甲田山を南北から踏破する雪中行軍を行う二連隊、二百三十七名の姿を描くオールスター巨編。死を賭けて行軍する男たちの姿が熱い感動を呼んだ。原作は新田次郎の「八甲田山死の彷徨」。 北大路欣也の「天は我々を見放した・・・か」のセリフは有名。管理人もよく使わせてもらう。(ペコリ)二百十名の大人数で行くことを命ぜられた神田大尉(北大路欣也)率いる青森第五連隊と、二十七名の少数精鋭舞台で自然に逆らわずに行軍する徳島大尉(高倉健)率いる弘前第三十一連隊。二隊は青森と弘前からそれぞれ出発し、八甲田山中ですれちがうことになっていたが、結局、自然を甘く見ていた青森第五連隊が道に迷い、大半が遭難。高倉健が案内の秋吉久美子に敬礼するシーンが印象的。 冬の厳しい八甲田も、夏には草木が生い茂り、こんなにやさしい表情を見せる。 八甲田山第一の人気の湯で、酸ヶ湯は”すかゆ”と読む。人気の秘密はやはり、混浴の千人風呂。でも、女性はおあばちゃんばっかり。男性はよからぬ期待はしないように。硫黄泉で神経痛、リューマチ、神経炎、胃腸病、糖尿病に効能があるとされる。 温泉はその名のとおり、酸っぱい。男女別の小浴場「玉の湯」は人は少なくのんびり入れる。 千人風呂は朝8時からと午後9時からの1時間は女性専用で、女性はこのときなら、堂々と入れる。 八幡平は、岩手・秋田両県にまたがる、高原状のアスピーテ型火山台地。 火山帯独特の神秘的な自然の風景が広がり、数多くの温泉がある。 数々の美しい景観を結んでいるのは、アスピーテラインと樹海ラインの2つの道路で、見返峠で交わる。 見返峠からは岩手山が一望できる。 右は樹海ラインの途中にある涼風の滝。樹海ラインの途中にある藤七温泉。海抜1400mと東北最高地にあり、雄大な岩手山と八幡平の景勝が広がる。近くでは、高山植物の咲く中、温泉の蒸気が勢いよく噴出す壮大な自然の風景が眺められる。 硫黄泉で、高血圧や神経痛、糖尿病などの慢性疾患に効くとされている。温泉宿が2軒ある。
青森は”ねぶた”、黒石と弘前は”ぶ”ではなく、ね“ぷ”たという。 色鮮やかな扇形のねぷたが特徴で、優雅な雰囲気がただよう。表には武者絵が描かれ、裏には見返り美人が描かれる。 目のところにはひときわ明るい電球が配され、表情もいきいき。ねぷたに併せ、下のように一列に並んだ太鼓部隊と笛吹き部隊が掛け声とあわせ、町中を練り歩く様子は見もの。 弘前ねぷたの起源は文禄2年(1593年)に藩祖為信のお国自慢説、坂之上田村麻呂の蝦夷征伐説、農民行事説がある。いくさ、戦争など幾度と途絶え、昭和21年に復活。 平成14年は8月1日〜8月7日に開催。本のエレクトリカル・パレード。公称68台と呼ばれるねぷたが参加しているとされるが、実際はガイドブックに載っていないものもあり、100台を超えるのではないかと思う。 金太郎組ねぷたもその一つ。みんな、ねぷたが近づくと仕事そっちのけで、ねぷた製作に取り組んでいるらしい。 基本的に地元人参加となるが、観光客も受け入れているところもある。ねぷたに参加するのを”ハネル”といい、正式な衣装がないと参加できない。雲谷高原YHでハネトツアーもやっているが、すぐ満員となってしまう。弘前のねぷたは扇形のものが基本だが、最近は手の込んだ組ねぷたも増えてきた。組ねぷたは人形ねぷたともいい、動くものもある。 もともと、青森のねぶたは、躍動的で、組みねぶたが基本、弘前は扇形、黒石は両者が共存していた。 左上は富田清水町会青年部、右上は下新町ねぷた愛好会、右中は津軽衆のもので、さながら、壮大な時代絵巻を眺めているよう。 ちなみに、地域に愛される自衛隊も出演していた。 竜宮城を形どったねぶたの浦島太郎が振りかざしている釣竿にはなぜか、河豚が掛っていた。
古くから景勝地として知られ、松尾芭蕉の奥の細道の目的地の一つで芭蕉は「松島は笑うが如く、象潟はうらやむがことし」と描写している。 所々に森のようになっているのはかつて島だったところ。道の駅象潟(ねむの丘)の展望台より良く見えるので是非訪れたい。 |
旅先での色々な出会いや体験を大切にし、楽しく、明るく、有意義な旅を続けていきたいと考えています。