日本三大がっかり名所に数えらるオランダ坂。周辺には、日本で最初の女学校である活水学院・ 洋風住宅7棟がある東山手洋風住宅群など、異国情緒あふれる東山手に位置する外国人居留地一帯の坂道が「オランダ坂」と呼ばれている。 開港前、長崎に居住していた唯一の西洋人はオランダ人であることから、特に親しみを込めて、こうと呼ばれるようになった。 雨の日のオランダ坂は石畳がしっとり、人通りも少なく旅情気分を盛り上げてくれる。時間がなくていけなかったが、正面に雰囲気のある喫茶店があった。 長崎駅から、浦上川を渡って長崎ロープウェイに乗り、稲佐山(標高333m)に登ると長崎の市街地が一望できる。5分ほどで山頂に上がるが、そこから展望台まではまた5分ぐらい歩く。 長崎自体はそんなに大きな町ではないので、夜景もややこじんまりしているが、それでも、100万ドルとは行かないまでも、100万円ぐらい(笑)の夜景の価値はある。 中央右の明るいところが長崎駅。ロープウェイの帰りは午後9時が最終。往復1200円はやや高い。
右はこの教会に尽力したプチジャン司教の墓碑である。昭和8年国宝に指定されている。 浦上天主堂は、長いキリスト教弾圧の歴史を経て、1895年にフレノ神父の手により、建設が開始されたが竣工までに30年の月日を要した。 石とレンガ造りのロマネスク様式で、当時東洋一の大聖堂と謳われた。しかし、原爆により、爆心地から500mに位置する浦上天主堂は、正面に一部を残し、全壊し、2人の神父と8500人の命を失い、この一帯は焼け野原となった。現在の建物は、1959年に再建され、1981年にはヨハネパウロ2世も訪れている。 昭和20年8月9日午前11時2分、人類史上2番目の原子爆弾が長崎に投下された。 当時草1本も生えないといわれていたこの地も今は、緑に包まれた公園として整備されている。原爆犠牲者の慰霊と世界恒久平和の願いをこめて、つくられた平和祈念像は故北村西望氏に上に指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手 は平和を、軽くとじたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っているといわれている。こうした悲惨な歴史は二度と繰り返すまい。
琉璃瓦・青白石製欄干・龍紋様の御道石・孔子像が安置されており、72賢人石像は すべて中国から取り寄せられたもの。色あざやかな中国本廟の伝統美あふれる彩り豊かな極彩色の建物は異国情緒たっぷり。 併設の中国歴代博物館は、北京故宮博物院提供の宮廷文化財や中国歴史博物館提供の出土文化財を一堂に展覧しており、中国4千年の歴史を感じられる。
錦波川の西側に本殿、神楽殿、楼門があり、楼門、参集殿日本庭園を備える。錦波川にかかる橋を渡ると左右に異なるお稲荷さんが出迎えてくれる。 楼門は豪華絢爛の意匠が施され、本殿は高さの20mの高台にあり、総漆塗りで朱色も鮮やかで見応えがある。 本殿には階段で登るのが一般的ルートではあるが、シースルーのエレベーターが設けられている。しかし、300円もかかるので、健常者はともかく車椅子でしか移動できない人や高齢者には無料にするとかの配慮が必要ではないか。 さらに奥の院まで数多くの朱色の鳥居をくぐり頂上からは鹿島市内より有明海へと続く雄大な眺望を拝むことができる。 近年、タイのドラマの舞台となったこともあり、タイ人が多く訪れる。タイでは“ユートクイナリー”と発音され、ほとんどのタイ人が日本の観光名所であることを知っているが、日本人に日本の名所“ユートクイナリー”って知っている?と聞いても、まずわかる日本人はいないとテレビで紹介されていた。 神社の周りにはよくあるお土産物屋さんが軒を連ねているが、その多くは旧態依然とした店構え。閑古鳥が鳴いている店も少なくない。飲食店も気軽に入れそうな店はなく、ちょっと良さそうな店はやたらに混んでいる。 これを見て地方都市の中心市街地によく見かけるシャッター街を思い浮かべた。時代が変わって人々が求めるニーズや品質が大きく変わっているのに昔のままの商売を続け、郊外の大規模店舗に客を奪われたと嘆く。役所も中心市街地の活性化を図るために補助金を突っ込むが一時的な効果しか見られない。中には古い民家を改修し、お洒落なカフェやレストランを営むなどの努力をしているところもあるが、まだ少数派である。 せっかくの国内外からの多くの観光客が訪れる門前町の立地を活かし、エンドユーザーの視点に立った店舗づくりに向け努力を商店主に求めたい。
遺跡の中に入ると、鳥のオブジェの載った門が迎えてくれる。集落の回りには逆茂木という木の杭によりバリケードが築かれている。 南のムラはいわゆる集落で竪穴式住居と高床式の倉庫が並ぶ。南ムラのやや北にはさらに環濠と城柵で囲まれ物見櫓まである南内郭につく。 ここは、この集落の支配者が居住していたエリアとのこと。竪穴式住居も一般のものに比べ、門と塀に囲まれ、屋根には鴟尾のような装飾が施され、王としての権威を現している。内部も祭壇があるなど一般のものと比べるとゴージャスなつくりとなっている。 北内郭は政治の中心で、主祭殿という16本の柱で構成された高さ16.5mにも及ぶ建物をはじめ、物見櫓、祭殿、斎堂、高床式建物などの建造物が堀と逆茂木という塀で守られ、ている。 物見櫓からは周囲の状況を監視し、敵から強襲に備えている。 当時の柱跡から推測し、復元されたものであるが、二層構成の母屋には当時、既にこのような高度な建築技術があったことに驚かされる。 まるで要塞都市の様相を呈している。 内部は当時の様子が再現され、主祭殿の下層神では有力者による会議、上層階では豊作を祈り、神のお告げを受ける神官の儀式が模されている。 大陸との交易もこの頃から行われ、魏志倭人伝に登場する邪馬台国といわれており、祭壇で五穀豊穣を祈る姿は卑弥呼を模したものであろうか。 日本の国家のさきがけとなる遠く弥生時代のロマンを心を馳せてしまう。 南郭の王の住居と同様に北郭の建物の屋根には鴟尾のようなものがつけられおり、これらの建物が特別であることを物語っている。 下の切妻の高床式の建物は神官の住まいとのこと。
1592年の文禄の役ではここを拠点に韓国、朝鮮を攻めたものの、水軍の反攻に会い多くの犠牲を出した。今日でも中国大陸や朝鮮半島との交易の跡が各所に残り、異国情緒を感じさせる。市役所近くにある赤い煉瓦と白い御影石のコントラストが印象的な洋風建築物は1912年に完成した旧唐津銀行の本店。唐津出身の建築家、田中実の作によるものである。 入り口はギリシャ様式のコリント式を模した列柱が盛られ、角にはドーム型尖塔が配置され、唐津でも最も印象深い建築物の一つとなっている。現在は市の施設として整備されつつある。 また、市内の中心部を流れる町田川には江戸時代の雰囲気のする千鳥橋という太鼓橋がかかり、異文化が共存している。唐津城からが相当離れているのだが、市内中止部には柳堀という堀があり丸辰巳櫓が残っている。ここにかかる眼鏡橋の様は後方の櫓とあいまって皇居にかかる二重橋と似ているとも言えなくはない。 このほか、部分的に古い建物が残ったりはしているが、面的に残っていたり、積極的な手入れがされている訳ではないのが残念。 他にも曳山展示場や唐津神社、杵島炭鉱で財をなした高取伊好(これよし)の旧邸があるが時間の関係で断念せざるを得なかった。 唐津は16〜17世紀にかけて渡来しら朝鮮の陶工により陶器の技が伝えられた。「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれるほど茶人に好まれた唐津焼。その正統継承者が中里家であり、13代当主の中里太郎右衛門は、伝統的な唐津焼のみならず、東南アジアの技法も加えた新たな分野にも挑戦されている。伝統的な唐津焼は渋めの色合いだが、中里太郎右衛門の作品は明るい中にも趣がある。年末のため、中里太郎右衛門館は、閉館中であり中に入ることは出来なかった。 唐津城は慶長13年(1608年に豊臣秀吉の側近寺沢志摩広高によって築かれた城で名古屋城の解体資材を使ったと言われている。城は本丸、二の丸、三の丸、外曲輪に分かれている本格的なものとなっている。海に面した唐津城は石垣が43mまで積み上げられ、遠く日本海からの外敵に備えたものと考えられる。松浦潟が一望できる唐津城は白浜の砂が東西に羽を広げているように見えることから舞鶴城とも呼ばれている。櫓門にはお正月の準備か紋付の幕としめ縄がかかっているが、年も押し迫った大晦日に訪れたため、天守閣に入ることもできず、ほとんど人影をみることは出来なかったが、このような地方都市にりっぱなお城が残っているのには敬服する。現在の天守閣は昭和41年に再建されたもの。 例年、11月2日から3日にかけて開催される唐津くんちは博多、長崎とならんで日本三大くんちの一つに数えられるほど、有名なお祭りである。祭り期間中は50万人もの人が繰り出すと言われている。 1台2億円とも言われる漆を施したりっぱな曳山14基が町内を練り歩くらしい。唐津城へ渡る地下道にこの唐津くんちを紹介したタイルが飾られている。曳山は鯛や獅子、龍がモチーフにされており、是非お祭りに訪れたいところ。 |
旅先での色々な出会いや体験を大切にし、楽しく、明るく、有意義な旅を続けていきたいと考えています。