地元の実業家の足立全康氏が1970年に開館した。枯山水庭、白砂青松、苔庭、池庭などの日本の美を集約したかのような庭が広がる。窓が額縁のように配置され、さながら、絵画を見ているような演出がされる。朝10時からは美人で流ちょうなお姉さんが庭の設計意図や造営、管理に関わるエピソードを説明してくれる。借景になっている山で開発が行われると話のが出たときはその山を買ったり、松や岩をはるばる京都や東北地方から集めたたりとか。 毎朝早くに庭師だけでなく受付の人も総出で清掃するらしい。窓ガラスも一点の曇りもなく細部まで手入れが行き届いていて本当に気持ちがよい。横山大観、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画コレクションでも知られる。 一代で財をなし、これだけの美術館を作り、職員のモチベーションも極めて高くその管理も脈々と受け継がれるシステムを構築した創設者の並々ならぬ情熱とマネジメント能力をこの美術館が体現している。
縁結びの神様としても知られるが、管理人はこれまで3回お参りしているか未だよい結果が得られていない。たしかにこれだけ多くの人がお参りしていれば、全ての人の希望に応えることは難しいだろう。最後は本の努力と運だと思う。 松並木の参道を経て、手水舎で手を清め、神域を示す銅の鳥居を潜り本殿に入る。現在の本殿は1744年に造営され、荘厳な大社造りで背景の御神山の八雲山と相まって麗々しくそして神々しい。皇室方も本殿の中まで入るることはできないらしい。太古の出雲大社の本殿の高さは、32丈(約96m)と言う記録もあるが、その後、中古は16丈(約48m)、近古は8丈(約24m)と徐々に低くなっている。 60年毎に遷宮が行われ、その都度大修理が行われているが、伊勢神宮の式年遷宮のように完全に建て替えるというわけではない。平成20年(2008年)の「仮殿遷座祭」によりご神体が御仮殿お遷され、り本殿の屋根等の大改修が行われ、その後、平成25年(2013年)本殿遷座祭によりに本殿にお還りになった。この改修時に友人が厳しい抽選の末、本殿に入ることができたらしい。遷宮時に拝殿が御仮殿殿になった。この拝殿には、年末に大しめ縄が掛けらえれる様子が、ニュースで伝えられ、季節の風物詩となっている。
休日ということもあり、駐車場のいっぱいで観光客もたくさん。 砂丘に上がると人々がありんこのように見え、皆、手前の海側の砂丘を目指し、歩いている、少し離れた砂丘には全く人影はない。 砂漠の中に広がる自然の造形、風紋や刻々と微妙に変化する丘そして、砂に足をとられ、思うように進めない感覚・・さすらい感満点で、シルクロードの旅人のような気分になります。(←大げさ(笑))歩くこと十数分、日本海が見えてきました。砂丘の上から押し寄せる波にしばし見とれて、時間が経つのを忘れそう。砂丘には観光馬車があり、砂漠の中を十分歩くことができない人や子供には便利ですが、せっかくやねんからラクダにしてほしかった! 鳥取砂丘では2010年までは世界砂像フェスティバルをやっていた。世界の著名な砂像アーティストが一同に会し、見事な作品が16もあり、でとても砂で作ったとは思えないほどの精緻な造り。でも雨でちょっと崩れている像もある。 4コマの左上より右上から下へかけて、スダサン・バタナイクさんの「ガネーシャとその家族」、デーモン・ファーマーさん、リチャード・ヴァラノさん、ジョンガウティさんの共同による「中世のお城とガリバー」。左は優勝のマテイン・リガースさんの「さまよえるオランダ船」というラインナップ。 それにしてもこれだけの砂の彫刻家が世界中におられると言うのもビックリ。2012年以降は常設の屋根付きの美術館ができ雨でも安心できるようになった。
伝建地区にもなっている大森銀山地区の町並みへ。 GW中で、人出も多く、お土産物屋さんが立ち並びかなり観光化されていたのはやや残念でしたが、重要文化財の熊谷家、大森代官所跡(現石見銀山資料館)、河島家の武家屋敷など銀山城下町ともいえる往時の繁栄の様子を伺い知るには十分。
天守閣は、望楼様式を加えた複合天守閣で、外観5層、内部は6階でとなっており、千鳥城と呼ばれるこの城は、現在国の重要文化財となっている。 周囲の堀には堀川巡りと称した遊覧船が15分ごとに出ていて市内の名所(松江堀川ふれあい広場・大手前広場・カラコロ広場)を結んでいる。 1周50分。都会のライトアップと比べるとかな〜りさびしい感じ。 カラコロ工房は元日銀支店で払い下げを受け、現在はお菓子屋となっている。 松江をこよなく愛した小泉八雲が明治23年、木の松江大橋を渡る「カラコロ」と響く下駄の音から名付けられた。 観光客がいないのは交通機関が午後9時で終わるからだとか。 宍道湖は、中海・日本海と水位の差がわずかなため、潮によっては中海から塩分が入り、淡水と海水が混ざりあう汽水湖となっている。 宍道湖といえばしじみが有名で、お土産の佃煮も種類が多く迷うほど。 しじみに加え、宍道湖で獲れる「スズキ、モロゲエビ、ウナギ、アマサギ、シラウオ、コイ」を宍道湖七珍として郷土料理として珍重されている。 夕陽がきれいなのでも有名。
冬にはスキー場にもなるなだらかな稜線から伯耆富士とも呼ばれる。周囲をスカイラインが巡っており、絶好のツーリングSpot。 大山へは米子から県道24号がメインルート。大山寺へお参りして安全祈願をしましょう。 大山寺の前の疎水は飲めるほどの清水。桝水高原と鍵掛峠からの展望が抜群。 登山口は標高770mの登山口から頂上の弥山(みせん)1710mまで標高差1000m弱なので、そんなにしんどくなく、上ることに景色がどんどん変っていき登っていて楽しい山。 頂上付近には5月だというのに残雪が残り、振り返ると遠くに宍道湖まで見える絶景。なるほど、百名山の3位になるだけのことはある。 麓には大山寺、大神山神社があり古くから信仰の山としても多くの参拝者を集めている。
薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らと薩長同盟を結び、明治維新の立役者となった。 この旧宅は、修復、改修され、孝允誕生の部屋なども再現されている。現在萩市所有で、入場無料で国の史跡に指定されている。 右は天保10年(1839)に生まれ、木戸孝允と同一世代の高杉晋作の生家。松下村塾で、吉田松陰からは「有識の士」として将来を嘱望された。奇兵隊を結成し、倒幕戦争の中核として明治維新に大きな歴史的役割を果たした話は有名。 旧宅内に晋作の写真や書などが展示され、邸内には自作の句碑「西へ行く人をしたひて東行く心の底そ神や知るらん」や産湯に使った井戸がある。 伊藤博文が晋作のことを「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と評している。伊藤博文が11歳の頃、住職恵運に諭され、読み書きを習い、また高杉晋作も子供の頃にはよくここで遊んだ月輪山円政寺。真言宗の寺院で、建長6年(1254)山口に創建された大内氏代々の祈願所。 慶長9年(1604)頃に山口から移転され、毛利氏の祈願所となった。境内には十二支彫刻の欄間で知られる金毘羅社があり、お寺なのに鳥居があるの理由が理解できる。 拝観料は500円と高いが、立派なイラストマップがもれなくついてくるので、地図を買ったと思えば納得。 萩高校の近くの堀内の町並みで緑と土塀が美しいコントラスを見せる、白壁と木塀の多い萩では、めずらしい。 左の高校側の松の上が水平に切れたようになっているが、日本海からの風の影響らしい。 萩は毛利輝元が、慶長9年(1604)に築城・開府し、36万石の城下町として栄え武家屋敷、町家、古刹等の江戸時代のまちなみを現在に残している。明治維新を動かした、 吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文など多くの逸材が青春時代を過ごしたかと思うと感慨深い。 萩藩の御用達を勤めた豪商菊屋家の屋敷は御上使(幕府の使い)の本陣としてしばしば借り上げられた。 敷地内の主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されている。 菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具、古書籍等が常設展示されており、庭園を含め往時の御用商人の暮らしぶりが偲ばれる。 屋敷内には平井堅の”大きな古時計”を超える130年も動き続ける壁掛け時計や明治に作られた電話BOXもあり、郷愁をさそう。 萩城は慶長9年(1604)に関が原の戦いに敗れた毛利輝元に築城したもので、指月山山麓に建てられたことから、別名指月城とも呼ばれている。 明治7年(1874)、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめいるだけで、やや寂しい気はしないわけではない。 右下は旧厚狭毛利家萩屋敷長屋で城周辺に残る数少ない建物。
「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツにもつといわれ、山紫水明のこの地に、群生する「つわぶき」の可憐な花に目をとどめ、「つわぶきの野」・・・「つわの」と呼ぶようになったという。 その歴史は縄文時代に遡るが、津和野城は弘安5(1282〉年元寇警備のため石見に入部した地頭職吉見頼行により築城にされた。 津和野川から、城山の中腹に築かれた太皷谷稲成神社望む風景は、津和野ならではの、のんびりひと時を過ごすことができる。津和野が産んだ先哲、作家であり、翻訳家、評論家そして医者であった森鴎外の生家。 「半日」「ヰタ・セクスアリス」「雁」「青年」等を発表し、漱石とともに明治文壇に確固たる地位を築き、その誉は枚挙にいとまがないところ。木造平屋建ての質素な造りで、裏には近代的な森鴎外記念館があり、未来をじっと見据えるような鴎外の胸像が佇む。津和野の中心部、津和野川にかかる大橋からほのかに紅葉が進む青野山を望む。 青野山は海抜908mの休火山で、その姿は谷文晁の「名山絵図」に描かれるほど、古来より、その美しさを謳われてきた。 津和野川には彩豊かな錦鯉が放たれている。毎年、ここで7月に行われる鷺舞は国の重要無形民俗文化財に指定され、一見の価値あり。 かつての津和野藩の藩校、養老館前のあたりは殿町と呼ばれ、家老屋敷が立ち並び、なまこ塀と掘割りに泳ぐ鯉など、津和野のシンボル的スポット。通り沿いの太岡家の門をくぐるといかにも”役場”といった古いたたずまいが印象的な津和野町役場が現役で活躍している。 また、昭和6年、ドイツ人ヴェケレーによって建てられた津和野カトリック教会も不思議と、城下町の古い町並みに溶け込んでいる。 杜塾美術館は、観光客の多い津和野では穴場的存在。藩の筆頭庄屋屋敷を復元し、中尾彰、吉浦摩耶などの心和む絵画を展示している。 また、版画 「闘牛技」はゴヤの作品で、原盤はマドリッドの聖フェルナンド国立アカデミー美術館にあり、今後新たに増刷されることのない貴重なもの。入場料は500円と高いが、静かで、端正な佇まいで津和野らしさを堪能できる。 2階には襖に庭が写るピンホールカメラの間がある。 実は、今回時間の関係で入ることができなかった津和野出身の絵本画家、安野光雄氏の美術館。 大正15年3月20日、生まれで、昭和43年、絵本「ふしぎなえ」で絵本界にデビュー。淡い色調の水彩画で、やさしい雰囲気漂う作品を数多く発表。 また、美術の世界だけでなく科学・数学・文学などにも造詣が深く、次々と独創性に富んだ作品を発表し、その業績に対し、国際アンデルセン賞をなど数々の賞が贈られている。 プラネタリウムもあり、時間があれば是非覗いて見たい。
あいにく、稲刈りが先週ぐらいから進んでいて少し残念でしたが、古い民家と急斜面に段々に刻まれた田んぼを見ていると昭和30年〜40代の”となりのトトロ”の時代を彷彿させる。 倉吉は、酒蔵や土蔵が軒を連ねる静かな古い町並みの中にも人々の生活が息づいているのが感じられる。 江戸時代から続く高田酒造の前には狸の木像。お酒を買いに入るとしっかりとした女将さんが出迎えてくれ、色々とお酒や町並みのことを教えてくれる。屋敷の裏側には鯉の泳いでいる玉川が流れていて、石橋、しっくいの白壁、黒い瓦屋根の数々・・・これまた日本の原風景と言うべき風景と言える。ランコロン、ゲタを鳴らした粋な若旦那が出てきそうな風情です。 丹波の出石。辰鼓楼は火の見櫓形の時計台で江戸時代に作られ出石のシンボルになっている。 ともかく二度目に昼ごはんと言うことで近くの湖月堂というそば屋に入り、出石そばをGET。全部で5つそばが出てきてタねぎなどの薬味とタマゴとととろでいただきます。 目の前は辰鼓楼。ええ風情。 これぞ、日本。これぞ日本の原風景。
その後、登山バスで成相寺へ。紅葉がとってもきれいでおまけに人も少なく、五重塔とのバランスも見事で満員の京都の紅葉見に行っている人に見せたいぐらい。 伊根の舟屋は国の伝統的建築物群保存地区に指定されていて、海から船が直接家屋入ることのできる独特の町並みが保存され修復されている。 舞鶴ではレンガ館やレンガの倉庫群を見て回った。北海道に行くときはここからフェリーに乗るですが、観光地としてもなかなかレトロ感があっていい感じです。さすが自衛隊の基地のある町。イージス艦が鎮座しておりました。写真を撮っていたら連行されるのではとちょっとドキドキ。 自衛隊の基地内の放浪亭さんのご紹介いただいた海軍記念館にも入ることができる。海軍大将の胸像が鎮座していてちょっと古びた感じでしたが、自衛隊の基地に入れたのは貴重な体験だった。 |
旅先での色々な出会いや体験を大切にし、楽しく、明るく、有意義な旅を続けていきたいと考えています。