上は、高砂橋付近から、廣栄堂本店の方向を見たものここではきびきび団子を売っている。となりには雄鶏書房があり、ろうけつ染の品々がおいてある。 真中は、地区の中ほどの中橋近くにある倉敷考古館。蔵を改造したもので、倉敷の伝統である正方形の瓦を貼り付け目地部分の漆喰を盛り上げてつくる海鼠壁が美しいコントラストをみせる。 下は倉敷川から左右の建物を見たもので、左は天皇陛下もお泊りなった有隣荘で、右側は旧水沢家で現在は北田証券の所有となっている。倉敷川には柳がかかり、なぜか、白鳥もいるのには笑ってしまった。倉敷の町は江戸時代後期から明治、大正時代にほぼ現在の町並みを形成するに至った。 その後近代工業社会に入って、十分な手入れが行われず、老朽化したり、意匠が改造により失われたものも少なからずあった。 1979年に13.5ha、約260世帯が伝統的建築物群保存地区指定され、本格的な修復が始まった。現在の美しい町並みはこれらの修復の賜物である。修復は主に外観で生活の場である内部には及んでいない。上は倉敷駅側から美観地区の入り口近くの橘香堂、左は高砂橋に近い倉敷川沿いで芹沢模様館、三越倉敷川館、倉敷ぎゃらりいというおみやげもの屋が軒を連ねる。 いずれも建造は江戸時代末期のものと推測されるが、最近になって、修復され、往時の姿を取り戻した。 倉敷の大富豪、大原孫三郎氏が17世紀のエル・グレコ、19世紀のモネなど印象派の作品を展示するために、同氏の死後の翌年の1930年に建設された。ギリシャ建築を彷彿させるが、柱頭はエーゲ海で多用され、東洋的で女性的といわれるイオニア式を採用しており、倉敷の町並みに溶け込むように配慮された意図が伺える。美術品も一級品なので、時間があれば必ず立ち寄りたい。 倉敷川沿いは観光化され、みやげもの屋ばかりで、興ざめという方は一筋、川沿いの筋から東側に入ると、静かな佇まいの町並みにめぐり会うことができる。所々には、まだ、おみやげもの屋などの店もあるが、ご覧のような普通の民家も建ち並び、江戸時代の風情が味わえる。 人通りもぐっと少なくなり、かといって町並みもしっかり残っており、倉敷の町並みは、13.5haの広い範囲に及んでいることを改めて感じさせる。 右は1922年に建てられた中国銀行倉敷支店(旧倉敷銀行)で美しいステンドグラスを持ち、ルネサンス様式である。古い倉敷の町並みの中にも、近代、現代の建物が見事に調和している。 左は、木の陰で見えにくいが、後に出てくる浦辺建築事務所による作品で、蔵をイメージし、白壁と倉敷格子、貼瓦で伝統的な町並みと調和させている。1969年建築。 大原美術館の向かってすぐ左側にあるカフェ・エル・グレコ。 大正時代に建てられた奨農土地(株)の建物を改造したもので、倉敷の多くの建築を手がけた浦辺建築事務所の創始者、浦辺鎮太郎氏の作。なお、以下の3つとも浦辺建築事務所の作品。 内部もレトロで、ウエイトレスのお姉さんの制服も何となく大正時代っぽい。コーヒーは400円で、特筆するほどのものではないが、大正ロマンを雰囲気を味わうのに立ち寄りたいspot。 倉敷には古き良き建築物があり、それをまた活かして新しい時代に合わせて利用していくという言わばヨーロッパ的な思想がある。このことが、単に観光化した町と異なる文化としての厚みを持たせるのだろう。このアイビー・スクエアもそうした一つであるが、管理人が最も好きな建築物の一つでもある。できるだけもとの構造と材料を活かしつつ内部の柱には細かな細工もほどされ独特の雰囲気を醸し出している。倉敷では是非泊りたいホテル。前の赤いバイクは管理人の愛車。1974年に改築され、日本建築学会賞受賞。 倉敷市市民会館は倉敷の瓦と白壁と町並みに調和するように黒と白のコントラストを基調にし、鶴をイメージした他に類を見ないデザインの多目的ホール。 倉敷の町並みとはかけ離れたスケールの建築物であるが、複雑な形状の屋根、海鼠壁をモチーフにした外壁など町並みに調和させるべく、随所にその工夫がみられる。 1972年にオーマンディのタクトの一仄(いちそく)で倉敷の文化に新しい1ページを開いた市民会館であるが、30年を経過しようとしている現在、もはや倉敷の文化の一部を形成している。
奈良や京都は市街化されもはやこうした風景は少なくなったが、田園風景の中に忽然と五重塔が目に飛び込む。 五重の塔は江戸時代の再建のものだが、備中国分寺は奈良時代741年に建立されたもで、当時の人もほぼ同じ風景を見ていたのかと思うと郷愁に駆られる。 奈良も京都も周辺に高い建物が経ってしまい創建当時の環境と随分変ってしまったが、ここでは往時の風景がそのままでタイムスリップしたかのようで、帰り何度も振り返ってしまうほど、印象的な風景。 お寺の周りにはれんげ畑があり、ノンビリと心安らぐ風景です。時間があれば一日中でもいることができる心地よさがある。 閑谷学校は山陽道備前IC下車15分ぐらいのところにあります。寛文10年(1670年)に岡山藩主、池田光政により建てられた世界最古の庶民の学校。孔子の儒学を教えていて日々論語を朗誦する声が校内に響いていたそうです。聖廟には金箔の孔子像が祀られている。 周りを山々の緑に囲まれ、文字通り閑静な谷にあり、本当にすばらしい教育環境の地にある。 とりわけ、国宝の講堂は、赤銅色の優美な屋根のラインが絶妙な入母屋造りでの破風形式の窓が印象的な建築後300年も経過したと思えない立派な建物。 こんな学校で勉強するとさぞかし勉学に熱が入ったことでしょう。学校のとなりには、なぜかトトロの森がある。(笑)
それでも、大山に囲まれた三木ヶ原牧場は心を和ませてくれる。有名な観光地だけに人が多い時はできるだけ避け、キャンプをしながら、ゆっくりと白樺の丘などを巡りたいところ。米子自動車道を蒜山で降り、大山・蒜山スカイラインを登ると最初のPAの鬼女台(きめんだい)展望台。 名前は恐そうだが、奥大山や蒜山高原も望めるほぼ360度の絶好のビューポイント。標高869mに位置し、地元の特産の野菜などお土産が売っている小さな物産店がある。ジャージー牛乳も売っている。
国の伝統的建築物群保存地区の指定を受けている。赤い赤銅色の屋根と妻入り入母屋のベンガラ格子が印象的な町並みが並ぶ。 結構観光地化されており、お土産物屋や飲食店がたくさんあり、不自由しない。 小高い丘には2012年まで利用されていた最古の木造校舎の吹屋小学校は立っており、古きよき時代の象徴。夜にはライトアップされる。 吹屋地区より車で10分ぐらいのところにベンガラの製造で巨大な富を築いた広兼邸がある。 敷地は2581uで城壁のような石垣の上に築かれた主屋(323u)離れ座敷(117u)長屋(103u)、土蔵(153u)、楼門は往時の繁栄を今に伝えるに十分なものである。映画「八つ墓村」のロケに使われた。
しかし、現代アートというのは解説聞かないと作品の意味がわかりませんなぁ〜。 たとえば、柳幸典氏の「バンザイコーナー」、たくさんのウルトラマンとウルトラセブンの人形が90°のコーナーに張られた鏡に向かってバンザイしている作品。 人形はそれぞれの鏡に映り4倍に見えます。 解説をしている方の話によるとちょうど、バブル経済がはじけた頃に作られた作品で皆がバンザイ、バンザイ、景気がいいぞ、株価や土地もドンドンあがるとはしゃいでいたら、それは全て虚像だったと言う話。 解説聞いて初めて納得。 船に乗って直島を後にするとき、もう一つの直島の顔が。高い煙突と北側の岸壁に横付けられた専用船。ここでは、豊島に不法投棄された産業廃棄物の溶融処理が行われています。 その結果、レアメタルが抽出されてリサイクルに役立っているエコな島でもあります。
左は城山展望台から岡山の方を見たもので、左下は真鍋島の西の方の景色でなかなか豪快。 下は真鍋島の集落と向こうに北木島が見える。ただ、ここの案内板に島の名前が書いてあるのだが、実際の景色とあまりに違うのは何とかしてほしいけど、真鍋島だし、まあいいかという気になる。YHの目前はすぐ海でいつでも泳ぐことができる。 朝日が海に反射して目を開けられないほどで、なんとなく、地中海っぽい感じがする。 古い船を改造した貝の展示室や天文台もある。 夜には10月頃までだと海蛍や、夜光虫も近くの桟橋から見ることができる。 この日はここの残念ながら、ここのおじいさんとは会えなかったが、じっくりとお話を聞いていると朝8時からの朝食が10時ごろまでかかるとのこと。 近くの北木島からカヤックで来られるツワモノの方もいた。 天神鼻は真鍋島にあるもう一つの展望台で、島の西北側にある。城山に比べると低く、豪快さはないが、のんびりと屋根付きの展望台はお昼ご飯を食べるのにはちょうどいい。真鍋島港からは15分ぐらいで道も整備されていて交通?っていうのかこちらの方が便利。 左上は本州側、左は北木島を見たもの。ここら辺では北木島が一番大きい島で、大きな旅館や、車の乗れるフェリーも着くが、やはり、こじんまりした真鍋島の方がいい。 真鍋島小・中学校のレトロな木造の校舎は泣かせる。この日は日曜日で中まで入りひさびさにブランコや鉄棒をした。 生徒は机からして1,2年生で4人ぐらいで全校で10人ぐらい。ちゃんと理科室もある。例によって二宮尊徳も撮ってしまった。 真鍋島の西側の山への入り口にある円福寺。本堂だけの小さなお寺で、周りにはお墓もある。山にはこのお寺の奥の坂道を登っていくが、やや分りにくかった。近くにおばさんに教えてもらい助かった。 山に登る途中で、小さな耕運機を持ち上げるのに難儀していたおじいさんを手伝ってあげたら、えらい喜んでもらえて、うれしかった。 このくらいやったら、なんぼでも手伝いまっせ。円福寺から山に入り、四つ辻を真っ直ぐしばらく行くと、野鳥の森に入る。 その少し手前で夕陽で金色に映えるススキが一面にたなびいて、とてもきれい。 ちなみに札幌のススキノはここに住んでいた人が札幌を開拓したときに故郷を思い出し名づけたとか(なんちゃって!、うそPです。) ちなみに、野鳥の森らしいところに入っても時間的な関係からか、小鳥のさえずりはなかった。野鳥の森を過ぎると熱帯植物園跡がある。 地図ではここからの夕陽がすばらしいとあるが、現在はご夫婦が住んでいて追い出されたので、やむを得ず、少し、森の手前のサツマイモ畑までもどる。 しかし、ここから、夕陽の方がよかった。ちょっと雲がかかっていたが、島に沈む夕陽は本当にきれいだった。 雲のお陰で、夕陽をじっと見ることができ、太陽がちょっとずつ動いているのかわかる。 世界って本当にきれい。どっかで聞いたセリフだ。
うだつや虫篭窓のある旧郷宿跡、江戸時代の両替商で造り酒屋にも利用された旧田辺邸、明治時代の財閥角倉家の蔵だった上下キリスト教会など、今も江戸、明治、大正時代の面影を色濃く漂わせる貴重な建物が多く残っている。 町の中央に位置する翁山全体をクリスマスツリーに見立てた「世界一の夢のツリー」でも全国的に有名。 前日は雨で、朝から雪が降っていたとは思えない、まぶしいばかりの青空と陽の光に輝く紅葉。 自然の森MGYHは文字通り、森の中にあり、マイナスイオンとフラボノイドいっぱいの新鮮な空気で生き返る思い。 自然公園の中にあり、ハイキングにも適している。近くに矢野温泉もあり、YHのお風呂も温泉。 90歳を超えても全国を講演会で飛び回っておられたビッグママこと森岡まさ子さんがオーナーだったが、2008年98歳で天寿を全うされ、YHの建物は上下町に寄付されたとのこと。 長いあいだお疲れさまでした。
は昭和30〜40年代頃を中心(時々平安時代にタイムスリップしますが)に描いたもので、今でも当時を姿を残している名所がそこかしこにある。左は勝間神社跡で新子と東京から転校生、貴伊子がここで悩みを相談した場所。平安時代には海岸線がせまり船着場があったとのこと。 右は佐波神社。タツヨシ、ミツル、シゲルなどの遊び友達と、この神社の階段をかけっこした場所。平安時代に周防国中の神社を一箇所に集めた神社。 左の碑は国庁の碑と言って江戸時代に建てられたもので、ここに周防の国府があったと記されている。 映画ではこの前でお米に圧力をかけて膨らませるポン菓子が作られたり、貴伊子が飼っていた近所のお墓が近くにつくられたりとメインの舞台の一つとなりました。 右は天神町銀座商店街です。 防府の中心商店街で十字状に店舗が広がっている。今でも当時の名残を残すお店もある。この地を訪れる前には前述の「マイマイ新子と千年の魔法」を見ることを強くおススメする。
大和ミュージアムの正式名称は呉市海事歴史博物館。入り口前には戦艦長門の砲身やスクリュー、碇が展示してあり雰囲気を盛り上げています。館内に入ると、いきなり大和の巨大模型。 大和は263mなので、1/10でも26mもある大迫力。とにかく写真をとりまくり。(館内はビデオ以外はフラッシュを焚かなければ撮り放題!) 小さい頃から幾度となくプラモデルでつくった大和。それが圧倒的なスケールで蘇るうれしさにしばらく、浸ってしまいました。そして落ち着いてみることができるようになったのなってから、戦時中、物資もない中、こんなもんよう作ったなぁと・・・ 大和のスペックはご存知の諸賢もおられようが、改めて紹介すると、基準排水量6万5千トン、46センチ主砲が9門(射程距離42キロ)、出力15万馬力、最大速力27.46knot、航続距離13,334km(16knot時)。大和模型の右舷には大和建造までの日本が辿った道をビデオやパネルで詳しく解説。もちろん、大和など戦艦の構造や大和の潜水調査なども詳しくわかりやすく解説されている。(左の写真は戦艦金剛のボイラー) 国際連盟の脱退、ABCD包囲網による経済封鎖。(昔、中学校か高校で習ったなあ・・・)そして、どんどん孤立感を深めて行き遂に真珠湾攻撃で開戦してしまうことになる。そして、ミッドウェイ海戦での敗北。 沖縄の米軍上陸、大和出撃、沈没・・・。本当に歴史の勉強になります。しかし、この時の日本と今の北朝鮮が似ているので怖かったりします。戦艦のコーナーの最後は大和の遺品と沈没の写真そして戦死された方の名簿が掲げられている。 泣かされたのは人間魚雷回天の特攻隊員の遺書。 ”母ノ言葉 櫻ハ咲クモ咲ケヌ身ヲ 頼ムゾ 宮崎 俺ハ無念ダ”さぞかし生きたかったろう。今でも涙が出てくる。 |
旅先での色々な出会いや体験を大切にし、楽しく、明るく、有意義な旅を続けていきたいと考えています。