1965年(昭和40年)に開園し、2015年時点で67もの重要文化財を擁し、敷地は100万平方メートル(100ha)にも及ぶ。村内にはレストラン、カフェ、ギフトショップと一通りの施設があり、一日いても不自由を感じない。むしろ、建築に興味のある人は一日いても時間が足りないぐらいと思う。 個々の建築物を紹介するとキリがないが、それでも特に心に残る名建築を紹介したい。 まずはアメリカの建築家、フランクロイド・ライトによる設計の帝国ホテル中央玄関。玄関だけの移設ではあるが、明治村の中では最大規模。平等院をモチーフに行燈をイメージした柱や、凝灰岩である大谷石を多用した細かい彫刻を施した壁面は西洋建築でありながら、日本美との調和を追及した人類史に残る名建築と言ってよいと思う。 北里研究所は破傷風菌純培養法と破傷風菌抗毒素の発見した北里柴三郎氏により創立されたもので様々な伝染病対策に大きな功績を残している。折しも2015年ノーベル生理学・医学賞を受賞された大村特別栄誉教授の実物大写真が飾られお祝いムードでした。研究所の中にはこれまでの伝染病との戦いの足跡が紹介されている。 次に紹介するのは日本赤十字社中央病院棟。日本が1886年(明治19年)に万国赤十字条約に加盟した時に皇室から賜った御料地に建てられた大規模病院で西洋式の分棟形式が採られている。 設計は赤坂離宮の設計者でもある片山東熊氏で、ハーフティンバースタイルを基調とした洋式となっている。 病室は高床で二重床とし、屋根には換気塔が設けられ、廊下はガラス張りとなっている。防湿、換気、採光に留意した病院建築として細心の注意が払われている。 京都市電は日本で初めての営業用”電車”で、琵琶湖疏水を利用した電力が豊富にあったことで実現した。実際に乗ることもできるが、結構な振動と衝撃があり、お世辞にも乗り心地が良いとは言えない。 明治時代の車体がそのまま動く状態で保存されているのは奇跡とも言え、関係者の努力の賜物である。NHK連続ドラマ小説”花子とアン”のロケ地ともなっており、この市電も登場した。 聖ザビエル天主堂はキリスト教伝来のため、来日したフランシスコザビエルを記念して1890年(明治23年)に造られた。 外壁はレンガ造で屋根は木造のアーチ屋根で作られており、身廊、側廊からなる三廊式のゴシック様式となっており、天井のさも相まって見事な空間を作り出している。 内側から見るステンドグラスからの光はまるで天国に誘われるように深い陰影と幻想的な雰囲気を作りだしている。 その他にも紹介したい建築は山ほどあるが、特集でも写真を掲載しているので、そちらもご覧いただきたい。 それぞれの建築の解説プレートに施設の目的、利用状況が書かれてあり、その建築の奥深さを知る。優れた建築は芸術ではあるが、優れた人物のように有用性、知性、そして品格を感じる。
特に、伊豆、箱根界隈では、富士山を望むところが数多くあり、さまざまな富士山を眺めることができる。 左は、御殿場インターを降りたところから撮ったものであるが、やはり、富士山の頂きは白い方がいい。安政4年(1857年)アメリカから黒船で、来航したタウンゼン・ハリス領事が江戸に向かうため、難所の天城越えで途中の弘道寺に一泊し、その境内から、富士山の眺めを絶賛したと言われる。 天城山近くで撮ったもので、やや雲がかかっているが、ハリスが「周囲に高い山がなくひときわ高く見える富士山は、生涯見た山の中でも最も美しい」と称えたのもうなずける。 天城峠には明治38年に開通したトンネルが残り、川端康成の”伊豆の踊り子”の舞台となったのは、周知のとおり。
このスカイラインを南下すると玄岳では、熱海新道に分かれ、韮山峠では富士見パークウェイに分かれるなど各地の観光地に行くのにも便利。北は、湯河原パークウェイ、箱根ターンバイク、芦ノ湖スカイラインにつながる。適度にアップダウンとコーナーがあり、見晴らしも抜群で走りやすい。相模灘と遠州灘を東西に分けるのが石廊崎。岬からは晴れていれば、遠く大島も望むことができる。 岬の断崖の中腹には、石室(いろう)神社があり、”縁結びの神”の石室権現が祀られている。左に見える屋根の一部がそれ。 床下には、航海の無事を願って寄進され帆柱1本で神社を支えるのが見える。石廊崎灯台までを歩く間、鷲ヶ岬との間に複雑に入り組んだ入江が見える。 豪快な岬からの景色とは対象的なリアス式海岸で、岸壁のすぐ上まで、樹木が生い茂っている。 真中に見えるのは海だが、どこから海につながっているかが、わからないほどに入り組んでいる。 ここから、遊覧船が出ていて大根島、奥石廊崎を巡って戻る。緯度的に、熱帯植物も育つぐらいに暖かい場所で、熱帯植物園、石廊ジャングルパークもある。300万uの広大な敷地にはランやブーゲンビリアをはじめとする3000種以上の熱帯植物が育てられ、ピラニアまで飼われているらしい。この時は時間の都合で、まわることはできなかった。 右のあじさいは、ジャングルパークに行けなかった代わりに石廊崎からの帰りに撮ったものであるが、5月末ですでに満開であった。
修善寺温泉、発祥の地。 室町時代に、地名修善寺、お寺は修禅寺と使い分けられるようになった。初めて行く人は修善寺がないとうろうろするかも。管理人もお寺の前を2往復もした。有名なわりにはお寺自体は小さい。 御前崎灯台は約250年前、徳川時代に建てられた灯明堂が始まり。駿河湾と太平洋の交差し、気象の変動が激しく、又、暗礁も多く海の難所と恐れられてきた。 現在の美しい白亜の灯台は明治7年にイギリス人技術者の監督のもと建造された。光度は130万カンデラでその光は約19.5海里(36km)まで、到達する。 映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台ともなったことでも有名。日本最南端、本州最南端というのはよく聞くが、ここは、静岡県最南端で、ちょっとランクが落ちるかもしれないが、目の前は太平洋がひろがり、最果ての気分は十分味わえる。 北緯34度35分、東経138度13分に位置する。 岬より、約1kmの海岸では毎年、5月から8月にかけて約400頭ものアオウミガメが産卵のため、上陸する。8月下旬には夜になると、子亀が砂の中から顔を出すらしい。 アオウミガメとその産卵場は天然記念物に指定されている。 御前崎灯台の近くにある”地球がまあるくみえるん台”という展望spot。180度太平洋が広がり、ここからの眺めはすばらしい。太平洋から押し寄せる波と風を感じると身も心も洗われるような気がする。 左の富士山はここからのものではないけど、御前崎の港からは晴れた日には富士山が美しく見えるとのこと。御前崎をぐるっとまわる道路はサンロードと呼ばれ、大井川河口から静波海岸、相良海岸、御前崎海岸、白波海岸、白羽海岸、浜岡大砂丘、天竜川河口までの一帯は「御前崎遠州灘県立自然公園」に指定されている。ボードセイリングのワールドカップの開催地でもあり、休日ともなれば、サーファーがくりだす、マリンスポーツのメッカでもある。 御前崎に行ったら、なぶら海鮮市場には、必ず寄りたい。なぶらとはここらへんの言葉でカツオの群れのことを指す。海遊館(大阪にもあったけど、これは見るだけ)と食遊館の二つに分かれている。 前者は御前崎港に水揚げされる海産物をはじめ、全国津々浦々から直送された海産物があふれんばかり。下のように”脂の載ったさんま”がぴちぴちしてる。 後者は新鮮な魚介類を使った寿司、和食、ファーストフード、アイスなどさまざまな美味が楽しめる。 なぶら海鮮市場のすぐ近くにあり昭和63年ぐらいから埋め立てられ、整備が進んでいる海洋公園で、海水浴場や、海の見える丘がある。風車がまわっているのを芝生でねころんで眺めていると時の経つのを忘れる。 風力発電は県のものと町のものがあり、前者は300kw,後者は660kwで、それぞれ、一般家庭170軒、500軒の電力を年間を通じてまかなうことができる。 夏には御前崎みなと祭りや海と風のフェスティバル(シーサイド・ドリーム)も行われる。 「地球がまるく見えるん台」に対抗しているのが、こちらの「夕日と風が見えるん台」。 海岸一帯は遠州灘からの強い風で、木々が風下側になびいたように枝を伸ばした「風成樹形」となっている。 海からの吹き上げる風によって、木々の最上部が波のようにうねり、風の通る道ができそこを通り抜ける風と音を感じることができる。 ここからの晴れた日のサンセットは、絶景で、ここで、プロポーズをしたら、成功の確率はグンとアップ。でも、ふられる時はやはり、ふられるので、もうちょい、という時に使うのが望ましい。 これらの”見えるん台”は右下に紹介している御前崎ケープパークの一部を構成しており、端から端まで歩くと30分以上はかかる。 御前崎灯台の周辺は「海と大地」をテーマした公園となっており、遊歩道が整備されて、海を眺めながらのんびり過ごすのにはもってこい。 遊歩道周辺にはクロマツの他たくさんの植物が自生しており、御前崎町の木に指定されているツバキも群生し、11月から3月にかけて鮮やかな赤色の花をつける。 遊歩道の通り道には浜松市出身の洋画家、清川泰次芸術館もある。
その後、大正時代には地元の人により、飯盛山中まで植えられた。香嵐渓という名は昭和5年に香積寺の”香”と嵐気の”嵐”ととって名づけられたとのこと。 向こうの方に見える赤い橋は待月橋。春はかたくりの花、夏は新緑と水遊び、鮎釣り、秋は紅葉、冬は、山里の静けさを味わうことができる。今回は9月の中旬に行ったので、紅葉はまだだったが、深緑とダイナミックな清流の美しい風景が、十分楽しめた。ちなみに、紅葉のシーズンは国道153号がめちゃ混むので、下山・新城から国道420号で夕方に足助に入り、一泊して、人の少ない朝から紅葉を楽しむのが、ここの常道。 足助の町は戦国時代から、三河、尾張、甲斐を結ぶ飯山街道として戦略上の要衝であったが、江戸時代以降は、中馬街道(塩の道)の宿場町、商家が集まる交易の町として栄えた。現在も、その面影は残っており、古い町並みが見られる。 ただし、倉敷のようにきちんとした保存活動が行われているわけではなく、部分的なものに留まる。 その中でも比較的保存、修復が行き届いている、上の加東家と右のマリリン小路。 三州足助屋敷は、明治時代の足助地方の豪農家をモデルにつくられた施設で、今は消えてしまった機織、炭焼き、紙すき、鍛冶屋の手仕事を復活・再現して後世に伝えていこうとするもの。 左は母屋で、普段の生活の場となっていた。下のようにほんまもんの”いろり”もあり、実際に炭でやかんを沸かしていた。 それぞれの建物で、昔の手仕事を再現しているのは、足助のおじいさん、おばあさんで、元気に働いておられた。 ここでつくられた品々は買うこともできる。全てが本物志向で、水車を利用して紙の原料となる楮こうぞをついている。 足助の和紙は「三河森下紙」と呼ばれ、丈夫な紙で2枚漉きに特徴がある。 左は、籠をつくるための竹ひごを干しているところ。あまりに、造形的なので写真におさめた。 隣接して、豆腐料理が食べられる薫風亭(くんぷうてい)や自家焙煎のコーヒーが味わえる工人館、山里味の五平餅、鮎の塩焼などが食べられる桧茶屋が隣接している。入場料は500円。 1995年に閉校した椿立小学校を改築し、98年にオープンしたYH。小学校の面影を最大限残したつくりとなっている。ご覧のように、二宮金次郎(尊徳)の像、滑り台、足洗い場、朝礼台なども残してあり、今にも生徒の歓声が聞こえてきそう。 管理人の小学校も木造校舎があったので、感慨ひとしお 。実は、アルバムを見ていてここのペアレントの小川さんは、管理人の大学の恩師と旧友であることを発見。 世の中せまいですな。 足助城は戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた鈴木氏の築城による山城。 町制100周年を記念して本格的な発掘調査に基づき再現された。左は本丸、高櫓と長屋、左下は西物見台、下は台所建物。いずれも建物自体の再現性は非常に高い。 西物見台以外には、地元のおじいさんがついていて懇切丁寧に説明してくれる。 そのまま、じいっと聞いていると、2時間ぐらいはここにいることになる。 あすけ里山YH、足助城からもいける小さなお寺、鳳凰山平勝寺。 これと言った伽藍はないが、聖徳太子が自らつくったとされる観音菩薩を本尊とし、弘法大師が一夜のうちにつくったとされる、 不動明王と毘沙門天がまつられていた伝統と格式のある寺院。 現在は、観音菩薩(重要文化財)しかなく、しかも常時公開しているわけでないが、山里のひっそりした雰囲気を味わうことができる。
。四十八滝となっている、大きいもので二十七、小さいものも入れると四十八以上はある。 特に紅葉の季節は清流の流れとバックに映える色づいた木々がなんとも日本的。 入り口にはオオサンショウウオセンターもある。 最終の巌窟滝までは片道1時間半。 シーズンになると歩道が渋滞状態になるので2時間かかるときもある。左上は岩を挟んでふたつに別れて流れ落ちる様子が、荷を担っているように見える荷担滝。 渓谷随一の景観とされる。 二段目は修験者の祖と言われる役の行者(えんのぎょうじゃ)が修行したという行者滝。 下は陰陽滝と呼ばれ、陽が滝を表し、陰が滝つぼを現しているとの事。 上は、竜が壷とよばれ、水の力で岩盤がくり貫かれ、底無しと言われるほど深い壺となっていてる。 女神が出てきて男が騙されるという伝説もあるところで、男性諸氏は要注意。 下は、白蛇が岩をよじ登る趣があり、滝の流れの中に顔を出す岩が竜の爪痕を思わせるので、この名前がついた霊蛇滝。 滝つぼの水の美しさは赤目四十八滝の中でも1、2を争う。 白い滝しぶきが千手観音のように落水することから千手滝と名づけられた。 その昔、千手姫と恋人の本間草之助が敵に追われ身を投げたとの伝説もある。 合掌。
左は、その中でも最も神聖な内宮の正宮で石段の下からしか撮影できない。鳥居をくぐったところには、皇宮警察官が立っていて厳しく見張っており、国直轄の神社であることを改めて感じる。正殿は、神明造りで掘建て柱となっており、20年に1度、建て替えられる式年遷宮が行われ、そのための敷地も隣にある。内宮の入口にある五十鈴川の深い緑に囲まれた清流は、大古の日本に思いを馳せるに十分な演出。 ここにかかる宇治橋を渡り、玉砂利が敷き詰められた参道を進み、右手のゆるやかな斜面を下りていくと、元禄5年(1692年)徳川綱吉の生母、桂昌院が寄進したものといわれる石畳を敷き詰めた五十鈴川岸の御手洗場に出る。 五十鈴川は別名「御裳濯(みもすそ)川」と呼ばれ、倭姫命が御裳のすそのよごれを濯がれたことから名付けられたという伝説がある。 水源を神路山、鳥路山に発する、神聖な川、清浄な川として知られる五十鈴川の水で心身ともに清めてから参宮しましょう。内宮への入口、五十鈴川にかかる宇治橋は、日常の世界から神聖な世界へのかけ橋といわれいる。正殿と同じように、20年に一度毎に、かけ替えられる。 全長101.8m、巾8.421mで、欄干の上に16基の擬宝珠(ぎぼし)を据えた純日本風反(そ)り橋で檜(ひのき)で作られている。五十鈴川の向こうに見えるのは、前山(528m)。 宇治橋の外と内に高さ7.44mの大鳥居が立っているが、内側の鳥居は、内宮の旧正殿の棟持柱が用いられ、外側の鳥居は外宮のものがあてられる。 さらに20年たつと、それぞれ、鈴鹿峠のふもとの「関の追分」、桑名の「七里の渡」の鳥居となり、正殿の棟持柱となって以来、都合60年のお勤めを果たす。内宮でみた神馬で、暑さのため、やや元気がなかっが、品のよさは、やはり、神に仕える馬ならではのもの。20歳ぐらいで、人間の年に換算すると、70歳を過ぎる年齢になるということ。内宮にお参りした帰り道に会える。昔、暴れん坊将軍で、徳川吉宗が乗っていた白馬を思い出した。 外宮は、伊勢市の中心高倉山の麓にあり、豊受大神(とようけのおおかみ)を祀る。豊受大神は、内宮創建から500年ほど後に天照大神のお告げにによって天照大神の食事の神様として丹波から迎えられた言われている。一般には、農耕や産業の神様として親しまれている。 外宮では、毎日、日毎朝夕大御饌祭という古式に則った祭祀がおこなれてている。全体的には内宮を少し、小ぶりにした感じで、建物などはほぼ同じで、正殿の式年遷宮も行われる。左は外宮の入口にある火除橋の手前にある大樹。内宮にはない光景なので思わず撮影。20mぐらいはあると思われる。 なお、伊勢まいりは、外宮から内宮へ参るのが、昔からの慣習。江戸時代には、お伊勢まいりの空前の大ブームを迎え、文政13年(1830年)には、半年の間に400万人もの人々がお参りのためにおとづれたという。 当時の日本の人口は3000万人程度と推測されるので、7人に一人、年間に換算すると3人にひとりがお伊勢まいりをしたことになる。その際に宿泊や食事処として発展したのがおはらい町であり、おかげ横丁はこの中ほどにある。江戸時代の電柱を取り払い、建物も、当時の面影を再現し、レトロな雰囲気を醸し出している。ここでの食事は、ごちそうの欄を参照されたし。 熊野灘に面する鬼ヶ城は、隆起と波の侵食でできた奇岩が連なる名勝。延々1kmにもなる遊歩道がつくられている。 強風や大雨、波が高いときは進入禁止となる。かつては、多我丸という海賊が住んでいたこともあり、鬼のすみかとされた説もある。東口から入って西端まで行き、国道42号のトンネルを歩いてもどってくることができる。 鬼ヶ城の近くにあるお土産物屋は仕方がないとしても、鬼ヶ城の中にわけのわからない売店はいただけない。 パールロードの終点、鵜方から約7kmの安乗岬。白い四角い灯台が特徴的。 途中、細い道や堤防の上を走るので若干不安になるが、要所に道しるべがあり、そのとおりにだいじょうぶ。 的矢湾と熊野灘の両湾に面している。右は熊野灘側。周囲は芝生に覆われた公園で、売店や資料館もある。熊野灘側の木陰はキャンプにベストの場所。横山展望台は、パールロード終点の鵜方から5kmぐらい。ツーリングマップにはないが、鵜方から穴川への国道167号を1.5kmぐらい行ったところに横山展望台の標識があるところを左にいく。 2,3百m走った4つ角を右へ。あとは道なりにいけばよい。 安乗岬とセットでいくのがオススメ。リアス式海岸の美しい英虞湾が一望できる。 3つの展望台があり、隣接して様々な花や植物が植えられた創造の森がある。小型の乗用車とバイクは頂上の駐車場まで行けるが、大型車は、下の駐車場から歩くことになる。
また、伊勢湾も一望できる。往復2100円は高いと言う人が多い。山頂にはロープウェイのあとさらにゴンドラに乗り継いでいく。地上に比べ、10℃以上も気温が低く、さすがに寒い。 頂上からは藤原岳(1120m)、竜ヶ岳(1099m)、釈迦ヶ岳(1092m)、雨乞岳(1238m)、鎌ケ岳(1162m)などの鈴鹿山脈の山々が一望できる。冬限定で頂上には人工の氷爆も展示される。 特別天然記念物の日本カモシカの飼育に日本で唯一取り組んでいる日本カモシカセンターは御在所岳の頂上にある。この日は残念ながら、日本カモシカには冬でお目にかかることはできなかったが、代わりにアンデス高原に住むチンチラを発見。寒さには強いはずであるが、−4℃ではさすがに丸くなって寒そう。 |
旅先での色々な出会いや体験を大切にし、楽しく、明るく、有意義な旅を続けていきたいと考えています。