半両(はんりょう)(西漢時代)

  <西漢半両銭>

   西漢半両銭は、製作時期により、楡莢半両銭(一銖半両)、呂后半両(八銖半両)、呂后五分半両
  (二銖四るい半両)、文帝四銖半両、武帝四銖半両に分類されます。
   

   秦末からの戦乱により、西漢(前漢)が成立しても混乱した社会は続き、財政も疲弊した状況でした。
   西漢(前漢)王朝は、放鋳政策を採用し、民間での半両銭の鋳工を認めます。最初に鋳工されたのが
  秦朝末期の莢銭を基準にした楡莢半両銭(一銖半両)で、不均一であった事や、徐々に重さを減じて
  鋳工された為、流通に際し問題がありました。
   高后二年(前186年)楡莢半両銭における問題を解決させる為に、呂后半両(八銖半両)銭の鋳工
  を行いますが、重すぎて敬遠されたため、高后六年(前182年)呂后五分半両(二銖四るい半両)銭
  に改鋳させます。その後、呂后五分半両(二銖四るい半両)銭も盛んに小型化される様になります。
   前元五年(前175年)文帝四銖半両銭、建元元年(前140年)三銖銭、建元五年(前136年)
  武帝四銖半両銭に相次いで改鋳され、ついに元狩五年(前118年)五銖銭の鋳工を開始と共に、
  半両銭が廃止となります。

 ○楡莢半両銭(一銖半両)

    西漢(前漢)早期(実際は秦末より西漢(前漢)早期)に鋳工された半両銭で、ほぼ一銖の重さ
   (0.67g)にて鋳工されました。
    民間にも鋳工を認めて流通させましたが、厳しい法制がなかった事から多くは一銖に満たない
   小型の半両銭も多く鋳工されました。

楡莢半両銭(一銖半両)

楡莢半両銭(一銖半両)

 ○呂后半両銭(八銖半両)

    高后二年から高后六年(前186〜182年)に鋳工された半両銭で、八銖の重さ(5.4g)
   にて鋳工されました。
    当時流通していた半両銭(楡莢半両)が小型で軽く扱いにくい為、秦朝に倣い重量を八銖に
   増やして鋳工を開始します。しかし、流通に際し八銖では重すぎて扱いにくかった為、民間では
   重さを減じた物が多く鋳工されました。
    ※秦代の八銖半両と区別がつきにくく、今後も研究項目の一つです。

呂后半両銭(八銖半両)

呂后半両銭(八銖半両)

小型八銖半両(旧六銖)

※六銖半両について
 旧来より八銖半両銭と四銖半両銭の中間の半両銭の一群が多数存在しており、
それを日本では「六銖半両銭(日本独自の分類名)」として分類しています。

 六銖半両銭の分類にあたり、その根拠を「漢書・高后紀」の「五分銭を行う」
を拠り所(「半両の五分=五割(1/2)」と解釈)とし、「六銖半両銭」と
したようです。
 しかし、最近の研究において、六銖半両銭の拠り所とした「五分銭を行う」は、
「半両の五分(1/5)、5分≠5割」と解釈するのが正しく、それを裏付ける
半両銭の出土により、日本独自の分類である「六銖半両銭」は別の半両銭である
事が判明しました。

  旧解釈:[五分銭半両=12銖×5割(1/2)=
6銖
  新解釈:[五分銭半両=12銖×5分(1/5)=
2.4銖

 「六銖半両銭」現品を確認すると、四銖半両銭よりも八銖半両銭に製作が似て
いるという点、徐々に小型化されていった時代背景より考慮すると、
八銖半両の小型」として分類するのが妥当と判断します。
※以上より、当HPでは「小型八銖半両銭」とします。

小型八銖半両銭(旧六銖)

 ○呂后五分半両銭(二銖四るい半両、2.4銖半両)

    高后六年(前182年)に呂后半両(八銖半両)銭を二銖四るいの重さ(1.6g)に改鋳した
   半両銭です。
    呂后五分半両(二銖四るい半両)銭の最大の特徴は、銭径の割りに穿が大きくなっている点です。
    後に、重量を減じたものが多く作られる様になり、楡莢半両銭程度まで小型化されていきます。

呂后五分半両(二銖四るい半両)銭

呂后五分半両(二銖四るい半両)銭

呂后五分半両(二銖四るい半両)銭(右は小型銭)

 ○文帝四銖半両銭

    前元五年(前175年)四銖の重さ(2.7g)の半両銭を鋳工させます。
    文帝四銖半両銭は、民間での鋳工を許可し、申告納税方式を採用した為、各地で鋳工が行われ、
   特に「呉王び」と「ケ通」による大量鋳銭により、短期間で切り替えられていきました。

    ・呉王び(劉び):漢皇族の一人。呉王に封じられていた。
              塩の専売と大量鋳銭により富を蓄え、文帝死後反乱を起す。(呉楚七国の乱)

    ・ケ通     :文帝の寵臣で銅山を賜り、大量鋳銭を行った。文帝死後、全て没収された。

     ※両者の財産は、当時の皇帝よりも莫大であったと伝えらている。

    文帝四銖半両銭は、厳格な製作基準を定めただけではなく、違反した場合の処罰を明記した上で
   民間に許可した事もあり、均一化された半両銭が流通する様になりました。また、それまでに流通
   していた半両銭も、基準に満たない半両銭は流通を禁止されました。

    ※文帝四銖半両銭は、4枚で16銖(10.75g)以上の重量である事と、半両銭の銅質についても
     厳しい条件を課しました。
     当時、密告制度や相互監視制度により違反者を摘発し、違反した場合は、違反した者だけでは
     なく、周辺の人々も罪に問われるなど、厳しいものでした。しかし、違反者は後を絶たず、
     刑罰がより厳しいものに変化させていきます。
     (当初は刺青、強制労働等の罪でしたが、その後死罪に変更されました。)

ケ通半両銭

ケ通半両銭

呉王ビ半両銭

文帝四銖半両銭(ケ通半両)
(俗称:お多福半両)

文帝四銖半両銭(呉王び半両)
(俗称:村雨半両)

 上下に突起物がある。
 1.古くなった銭範の文字を削り、再利用したもの
   →突起部分は四角形
 2.始めから意図的に彫ったもの
   →突起部分は丸形状
 銭面肌に筋状の線がある。

 ○武帝三銖銭

    建元元年(前140年)三銖の重さ(2.0g)の貨幣である三銖銭を鋳工させます。
    この貨幣は、実際の重さと貨幣表記が一致する貨幣です。
    従来の四銖半両銭よりも軽量だった事から盗鋳が盛んに行われた事もあり、鋳工期間は5年間で
   中止し、四銖半両銭(武帝四銖銭)に戻します。

三銖銭

三銖銭

 ○武帝四銖銭

    建元五年(前136年)三銖銭を廃し、再び四銖半両銭の鋳工を再開します。
    内外郭あるいは、内郭、外郭のある半両銭が多く、また面に紀文(記号)を鋳出している半両銭
   も存在します。紀文(記号)は、多種多様で、鋳工者(場所)、鋳工年等を示しているという説が
   ありますが、明確になっていません。
    武帝四銖銭は、元狩五年(前118年)に五銖銭に改鋳され、戦国、秦時代より流通していた
   半両銭は役目を終えます。

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

武帝四銖銭

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