記事一覧

はたして…。

下記の永原氏の論なのですが、
憑物落としが効かなかった犯人、について述べています。
はっきり作品名も個人名も出していません。
どの作品について述べているかわかる人にはわかるはずだ、と。

私は絡新婦だと思ったのですが…。
なぜなら彼女が最後に「絡新婦の理」をもって生きると云っているのだから。

あれ、でも鉄鼠はどうだったかな。
あれは落ちたことになるのかな?


ねえ…。


ただ、絡新婦は榎木津の眼が躱された唯一の(かな?)例でもあるのでよけいそう思うわけなのですが…。

その後、中禅寺は真実を榎木津に話しただろうか。
榎さんはすでに興味ないかもしれませんが。

うーん、ただね、榎さんは茜が嘘を吐いていたことは気づいてたんじゃないのかな。
単に視えるだけの人じゃないからね。
それに蜘蛛と名乗られた相手の表情は視えるじゃないですか。
蜘蛛屋敷のお嬢さんというだけの意味か否かで反応絶対違いますよね。
だから、もちろん証拠はないし、当人が言い張ればどうしようもないし
何がどう嘘だったのかまではわからないにしても
とにかく嘘だ、ということだけはきっとわかったと私は思うのです。
榎木津ファンの欲目と云われればそれまでですが。

だからここまでの話を聞いていれば
(聞いてないようで案外聞いてます、この人)
こいつが蜘蛛だと感づくぐらいはしてたんじゃないかなと思うのですが、どうでしょう。

魍魎と榎木津

榎さんは何かに取り憑かれたり自分を見失うというイメージがない。
なので、うっかりすっかり読み過ごしていたのだけれど、某サイト様での記述から
「魍魎の匣」にこんな部分があったのを知った。
中禅寺が美馬坂に言ったんです。
「あんたの所為でここにいる全員が魍魎に当たってしまった。美波絹子さんこと柚木陽子さん。探偵榎木津礼二郎。事件記者鳥口君。柴田財閥顧問弁護団の増岡さん」
以下、福本、青木、木場、関口と続くんですが……。
え?
陽子の次に榎さんですか?
しかもフルネーム。
しかも木場より先。
他のみんなはわかるんですよ。増岡さんでさえなんとなく。

で、こんな疑問を口にするってことは、魍魎が何だかわかってない証拠になるし(わかってないんです)
そうなるとこの作品がわかってないっていう根本的な問題になるわけですが、あえて。

榎さんにとっての魍魎って何だったんですか?

そのサイト様で言っていたような意味でないことは確かなんです(笑)。
(もちろんその方もそれは重々承知承知の上で妄想をかかれていたわけで、本気でそう解釈しているとは私は思いません)

ちゃんと読み直さなきゃいけないかな。
読み直したいんだけどね。
時間はないわ、ほかに読みたい本山積みだわ……。

瑕と榎木津1

姑獲鳥映画の解説本みたいなのを古本で買ったんですよ。
それに原作(邪魅は出版前)の解説も結構ページ取って出ていまして。
陰摩羅鬼に関する記述の中にこんなことが書いてありました。

「長らく鬱を患う関口、失明した榎木津、過去の迷宮入り事件の記憶に苛まれる退職刑事の伊庭――みなさまざまな意味での瑕を負った者たちだ。」

京極先生がどういう意図で書かれたかなど拝察することすら私には無理なのですが……。
私は失明自体を「瑕」とはとらえませんでした。
ただ、この作品の榎さんに関してはかなり引っかかるものがあったのは事実。
なので下に書いた「魍魎」ほどは意外な感じはなかったのです。

シリーズ感想にも書いたとおり、まずこれに榎さんがいる必要を感じない。
いなきゃ一層暗くはなるだろうけれど、だったら益田か鳥ちゃんでも行かせておけば、関くんと漫才みたいな会話を繰り広げていたと思います。
ファンが納得しないとかそういうことはどうでもいいんです。(意外とその辺冷めてます。というか、京極先生にはファンに媚びてほしくないので)

一時的な失明、というのがひっかかるというのも以前書きました。
関口くんが長々と榎さんについて語る必要もないと思うのです。

長すぎたので一旦切ります。

瑕と榎木津2

そして「瑕」と言われて一番ひっかかるのは中禅寺のセリフ。
「『探偵は何もかも知っています。彼は真相を視ているんです。ただ――』ただ意味を知らないのですと京極堂は言った。」

絡新婦では、あれと意見が違うということは、間違っているということだ、と言っていました。邪魅では、彼奴を侮ってはいけないと言いました。
「意味を知らない」と、マイナスの言葉を付け加えたのはここだけだと思うのです。いい加減な読み方してるから読み落としてる可能性大ですが(笑)。

「意味を知らない」……それじゃ伯爵と一緒じゃないか。
最初私はそんなふうに思って、まるでそれが榎さんの瑕と言わんばかりだと思えて、嫌だった。
だってそもそも視えるということが普通にはない+αの部分なのだから、その意味まではわからないからといってそれを瑕とは言えないだろう。

では何が?
視えてしまうということそのものか。
あるいはその発露の仕方か。(しかし視えなくても彼の言動が非常識であるに違いないことは容易に推測されることであり……)
ならば、意味も分からないものが視えてしまうという苦痛か……。

それとも、中禅寺のこの言葉にそんなに深い意味はなく、瑕を負った者の中に榎木津が含まれるという解釈も間違いなのか。
多分、読み直してもわからないと思います。私には。
わからないけれど、とてもひっかかります。

榎さんは法学部だった

なんで彼は帝大卒という学歴だけ覚えてないのだろう。
一高のことは覚えてるんだろうに。

学徒出陣で中断させられた前と後って
国の体制が全然違って、新憲法が何年にできたかちょっと忘れたけど
いずれにしても戦前の法律そのまま教えてもしょうがない部分も多かったろうし
大体知識人とか文化人とか呼ばれる部類に入る教授陣は戦争に対してどういう態度とってたんでしょうね。
復学したとき、戻らない学友たちも多かったろう。

ばかばかしい…くだらない…
とか榎さんだったら思いそう。
どうでもよくなってしまって、どうでもいいことだったらさっさと忘れそうです、あの人は。
そんなことだったのかな…などと妄想してみるが
何の証左もないっす。

そもそもなんで法学部だったのかというのは
多分志なんかなくて(笑)、ほぼ無条件で帝大に入れた一高生だったけど
法学部は人気があって受験が必要だったということだから
何もしないで入るより面白そうとか、そんな理由であったと推測する。