五銖銭(2、三国時代)


  「東漢」末期、時代は再び戦乱の時代を迎えます。

  華北の「魏」、四川の「蜀漢」、江南の「呉」が相次いで建国され、中国は三分割されます。

  この時代を三国時代と呼ばれ、多くの人々を魅了する時代となります。

  三国時代の基本的な貨幣は「西漢」、「東漢」時代の五銖銭でしたが、そのほとんどは末期の小型
 五銖銭だった様です。そんな中、各国共に自国の経済を安定化させる目的で貨幣を鋳造します。

  魏の貨幣

   西暦220年、「魏」は当時名目上の王朝であった「東漢」を滅ぼします。
   「魏」では「東漢」末期の小型化された貨幣を廃止し、「東漢」の五銖銭に戻そうとします。しかし、
  良質の五銖銭は退蔵や鋳潰されたりしており、充分な量が確保できませんでした。
   不足分を補う為に新たに鋳造しようとしますが、「魏」の領地においては、良質な銅産地が少ない事や
  戦国時代から続く森林の開発により燃料の不足により、大規模に鋳造できなかった様です。

   その様な状況にあった「魏」では、「西漢」以降続いていた税徴収方式を「銭」から「穀物」や「布帛
  (ふはく、絹等の布)」に変更します。また、一般的にも五銖銭の代わりに「穀物」や「布帛」が取引の
  中心となっていった事もあり、五銖銭を廃止します。

   しかしその後、粗悪な「布帛」や、穀物を湿らせ重くしたりする事が頻繁に起こった事もあり、再び
  五銖銭を復活させます。ただし、高額な取引については「布帛」、それ以外は「穀物」や五銖銭が使われ
  る形態になります。

   「魏」は「蜀漢」を滅ぼした2年後、家臣(司馬炎)により滅ぼされ、「晋(西晋)」となります。

黄初五銖(面)

黄初五銖(背)

黄初五銖(魏)

  蜀の貨幣

   「蜀漢」は成都を都とします。「東漢」末期から「蜀漢」が建国される前に、その地を支配していた
  政権(張魯)により独自の貨幣(太平百銭)を作っていました。また、「蜀漢」を建国した「劉備」も
  西暦214年、独自の貨幣を鋳造します。その後、西暦221年、「蜀漢」が正式に建国されます。
   (この頃の蜀地方で作られたと見られる貨幣(定平一百)も存在しています。)

   「蜀漢」は他の国に比べ国力が低かった事もあり、積極的な貨幣鋳造を実施し国力を増強します。
   当時の「蜀漢」領地には良質な銅産地が多く、良質の貨幣を多く鋳造しました。
   「蜀漢」では、当時の通常の小型五銖100枚に相当する五銖銭(直百五銖)を発行し、物価を安定化
   させる事に成功し国力が充実する様になりますが、度重なる「魏」討伐の失敗等により疲弊し、
   西暦263年、「魏」により滅ぼされます。

太平百銭(面)

太平百銭(背)

太平百銭(面)

太平百銭(背)

太平百銭

太平百銭

太平百銭(面)

太平百銭(背)

太平百銭

定平一百(面)

定平一百(背)

定平一百
(鋳地不詳、蜀方面と見られる)


蜀五銖(面)

蜀五銖(背)

蜀五銖(蜀漢)

直百(面)

直百(背)

直百(蜀漢)

直百五銖(面)

直百五銖(背)

直百五銖(背為)(蜀漢)

  呉の貨幣

   西暦222年、「呉」が建国されます。「呉」は隣国「蜀漢」での貨幣鋳造政策の成功を受け、自国の
  貨幣鋳造に乗り出します。「呉」の領地にも、良質な銅産地が多く貨幣鋳造は容易に行なわれました。

   西暦236年に大泉五百、西暦238年に大泉当千を発行します。大泉五百、大泉当千共に、「蜀漢」
  の直百五銖を意識して作られ、大泉五百は直百五銖五枚、大泉当千は十枚と決められていた様です。
   しかし現実的には、額面が高額となり、流通には不便という理由で少量しか作られなかった様です。

   「呉」は「魏」から替わった「晋(西晋)」によって西暦280年滅ぼされます。

大泉五百(面)

大泉五百(背)

大泉五百(面)

大泉五百(背)

大泉五百(呉)

大泉當千(面)

大泉當千(背)

大泉當千(面)

大泉當千(背)

大泉當千(呉)

大泉二千(面)

大泉二千(背)

大泉二千(呉)

<五銖銭関係>

1.「漢」時代 3.混乱期 4.混乱期の終焉

貝貨 秤量貨幣 銅貝 原始布、空首布 平首布 刀幣

圜銭、古圓法 半両銭