三国時代(概要)
「東漢」末期、時代は再び戦乱の時代を迎えます。
東漢を事実上支配し、後に禅譲という形で受け継いだ華北の「魏」、四川の「蜀漢」、江南の「呉」が相次いで建国、中国を三分割し、各国の激しい勢力争いが繰り広げられました。
この時代は三国時代と呼ばれ、現在で用いられる故事成語もこの頃の出来事よりできた物が多く存在します。
出土された貨幣より、三国時代は旧銭(「西漢」、「東漢」時代の五銖銭の小型銭(セン輪五銖他))と、各国が鋳工した貨幣が混在されて流通していたようです。
魏の貨幣(後日再修正します。)
西暦220年、「魏」は当時名目上の王朝であった「東漢」を滅ぼします。
「東漢」貨幣をそのまま引継いで鋳工していましたが、当時は小型化された貨幣(セン輪銭、減重銭)が主流でした。
「魏」は銅産地及び燃料の不足によって、鋳銭量が多く望めなかった事もあり、小型化された貨幣を基準とした貨幣を鋳工します。
しかし、貨幣鋳工量が充分に確保できなかった事から、「穀帛(穀物や絹等の布)」が多く用いられる様になります。
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面 |
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魏五銖 |
「魏」は「蜀漢」を滅ぼした2年後、家臣(司馬炎)により滅ぼされ、「晋(西晋)」となります。
蜀漢の貨幣
「東漢」末期、混乱に乗じて劉焉が蜀地方を支配し、西暦190年、自ら帝を称する準備として五銖銭を鋳工しました。
西暦194年に劉焉が死去すると、その子供の劉璋が蜀地方を引き継いで支配しましたが、西暦214年に劉備に取って代わられ、西暦221年「蜀漢」が建国されます。
劉備が蜀を攻略した後、財政不足を補う為に、それまでの蜀漢五銖銭100枚に値する貨幣、直百五銖銭の鋳工を行ないました。
直百五銖銭(西暦214年から西暦234年の鋳工)は、額面に見合うだけの重さの貨幣ではなかったのですが、蜀地方は他国に比べて東漢末期の戦乱による破壊を免れていた事や良質な銅原料が産出していた事もあり、短期間で国庫が潤い、三国の中で一番の小国であった蜀漢を魏、呉と対峙できる力を備える事に成功しました。しかし、西暦234年に五丈原にて諸葛亮孔明が陣没した後は、連年の戦争を繰り返した事により疲弊し、西暦263年、ついに「魏」により滅ぼされてしまいます。
蜀漢五銖銭と直百五銖銭は、小型の直一銭と直百銭に改鋳されますが、それらも減重されて行く事になります。
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面(上横文) |
背(陰文) |
面(上横文) |
背 |
蜀漢五銖銭 |
蜀漢五銖銭(小様) |
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背 |
面 |
背(為) |
直百五銖(初期銭、背に陰文がある物が存在する) |
直百五銖(背為、「為」は犍為郡鋳工を示す) |
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面 |
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直百五銖銭(末鋳銭) |
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面 |
背 |
直百銭(左:初期銭→右:末期銭) |
※従来より蜀五銖として分類されている五銖銭は、西晋時代まで下る為、蜀漢貨幣より外しました。
蜀地方の貨幣
蜀地方にて蜀漢とは別に鋳工されたと考えられている貨幣が存在します。
前期の鋳工に、太平百銭、世平百銭、大平百銭、晩期には太平百金、定平一百が存在しますが、史実の記載が見当たらず、詳細はわかっていません。
世平百銭の「世」、大平百銭の「大」、定平一百の「定」は、「太」と相通じた意味がある事から、太平百銭の同一系列銭と考えられます。
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太平百銭 |
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面 |
背 |
定平一百 |
呉の貨幣
江東を統治していた父孫堅の後を若くして受け継いだ孫権は、曹操(魏)、劉備(蜀漢)と、時には同盟を結び、時には戦をしながら三国の均衡を図ります。
「呉」は大銭のみ発行しました。小平銭は、それまでに流通していた旧銭(「西漢」、「東漢」、王莽銭等)や、他国の貨幣(魏、蜀漢)を用いていました。
呉の貨幣としては、大泉五十(王莽銭の大泉五十とは異なります)、大泉五百、大泉當千、大泉二千、大泉五千がありますが、史書に記載がある貨幣は大泉五百、大泉當千の二種類です。
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面 |
背 |
大泉二千 |
<五銖銭関係>