日本の少年合唱


1 日本の児童歌唱の歴史

  明治5年に学制が制定され、学校教育が始まった明治初期、教科として「唱歌」が制定されても、当初は教えるべき教材もなく指導者もいなかったと言ってもよいでしょう。次第に教材が整備されてきた明治中期になっても、歌唱法については、ごく一部の有識者をのぞいては皆無といってもよく、日本音楽独特の地声がほとんどであったと推察されます。日清・日露の戦争を背景にして、学校でも軍歌がよく歌われるようになると、大声で元気よく歌うことのみが強調されたとも考えられます。
  その後大正時代になって、「頭声発声」を唱える草川宣雄や「中声発声」を唱える福井直秋の指導法が一部の音楽教育者の間で注目を集めましたが、それは弱く歌えばよいというふうに見られるところもありました。
  昭和になると、昭和7年から「児童唱歌コンクール」が始まり、美しさだけでなく声量的な面にも目が向けられるようになってきました。また、そのころ童謡歌手というのが登場し、レコード化されるようになったのも、日本の児童歌唱の特色といえましょう。ところが、これも、頭声を使わない地声歌唱でした。第2次世界大戦の開始に伴い、再び音楽は戦意高揚の手段と化し、大声で元気よく歌うに逆戻りしたともいえます。いや、ほとんどの小学校では、明治以後ほとんど変わっていなかったというのが現実かもしれません。そのころの歌唱がどのようなものであったかは、篠田正浩監督の映画「少年時代」の中で歌われる歌を聴くとだいたいわかります。
  戦後になって、昭和22年の学習指導要領では、「自然な発声を重んじ、のどを詰めないようにする」とか、斉唱中心から合唱を取り入れるようにという大きな変化が見られましたが、末端までは行き届きませんでした。昭和26年の学習指導要領の改訂では、頭声発声が強調されましたが、それを理解できる教師は少なかったと考えられます。この時期、文部省は仙台市立南材木町小学校を実験校に指定し、児童発声の研究を行いました。この研究は音楽教育関係者だけでなく医学者までが参画するという大がかりなもので、その成果は、以後の音楽教育に多大の影響を与えました。「頭声発声」が一躍注目を浴びるようになってきました。
  また、同時期、大阪の品川三郎は箕面小学校を中心に児童発声の研究を進めましたが、ここでも「頭声発声」が強調されました。これは、男子の発声を中心にしており、その研究成果は著書「児童発声」に詳しく述べられています。昭和33年、これらの研究成果を受けて文部省は子どもらしいのびのびした声,また,美しく柔らかい自然な発声を目指して,この用語を学習指導要領に採り入れました。
「高音の発声の要領を活用し,中音域,低音域(胸声区)の美しい発声を指導する。頭声が完成するまで音量が小さく、弱々しいという欠点があるので、共鳴を工夫することによって補う。硬口蓋と軟口蓋の中央部に焦点を作り、鼻腔の共鳴も加えた軟らかな発声」(昭和35年小学校指導書) しかし、その当時の小学校の教師でこれらのことを理解して指導していた者が、以前と比べてどれほど増えたでしょうか。まだ、音楽教育の盛んな地域や児童発声に関心のある一部教師に限られていたようです。いずれにせよ、頭声発声は「弱声発声〜美しいが線が弱く、ひ弱な声」と誤解される面があったため、明るい響きのある共鳴を伴うということで「的」をつけて示されました。
 昭和30〜50年頃はウィーン少年合唱団をはじめとする外来の少年(少女)合唱団の来日もあいまって、日本においても児童合唱が盛んとなり、NHKの全国学校音楽コンクールには3000校もの参加校があった時期もあります。また、 「みんなのうた」「歌のメリーゴーランド」「歌はともだち」といった児童合唱をメインにした番組が毎日あるいは毎週全国放送されることによって、児童合唱への関心は急速に高まっていきました。
 その後、外来のいろいろな少年(少女)合唱団の影響を受けながらも、発声法は「頭声的発声」という言葉に代表されるように少しずつ変化してきました。とりわけ、昭和50年代にポップス系の音楽が入ってくると、従来の発声法だけではこれに対応できなくなり、楽曲によってはその曲想にあった発声を取り入れることが望ましいとされるように変化してきています。頭声ばかりでなく胸声も使っていくことが子どもの歌唱表現を生き生きとさせることにつながるという面もあるため、平成元年に発行された小学校指導書には、
「発声指導については,頭声的発声を中心とするが,楽曲によっては,曲想に応じた発声の仕方を工夫するようにすること。」
と変化してきました。これは、平成10年の学習指導要領の改訂でいよいよはっきりしてきました。
   さて、小学校でも音楽については高学年を中心に専科が指導することが多くなり、極端な地声発声は減りましたが、合唱音楽そのものへの関心が全国的に低下し、児童の関心はマスコミに採り上げられるJ−POPをはじめとする流行歌に移り、学校音楽が校門を出て歌われることが少なくなったことの方が大きな問題ではないでしょうか。


2  日本の少年合唱団

  「ウィーン・ショック」という言葉が今でも語り伝えられているそうです。この言葉は、昭和30年(1955年)に、ウィーン少年合唱団が、初来日公演したときの日本人の衝撃の大きさを示しています。このことは、いろいろな意味で、当時の音楽教育関係者に影響を与えました。
  第1は、児童発声に関するもので、それ以来、頭声、あるいは、頭声的発声の大切さが盛んに言われるようになりました。文部省発行の指導書にも「頭声的発声」という用語が使われるようになり、現在まで続いています。これは、子どもの喉に過度な負担をかけず、美しい声で歌わせるという意味で大きな意義があります。それまでの児童発声は、いわゆる童謡歌手のような地声的なものが主流でした。まして、発声に無関心な教師に指導された、ほとんどの教室から流れてきた歌声は、元気がよければよいというようなものでした。
  第2は、少年合唱団や、少年少女合唱団が全国各地に雨後のたけのこのように生まれたことです。ところが、後者はともかく少年合唱団の方は、いくつかの理由で順調に発展しませんでした。まず、キリスト教の基盤のない日本では、ヨーロッパと同じような少年合唱団の運営をすることは難しいということがあげられます。次に、腕白時代とも言える年齢の少年に、厳格な歌唱訓練が好まれないことも挙げられましょう。また、頭声発声がまだ珍しかった時代だけでなく、未だに、ボーイ・ソプラノを女みたいな声だとしてからかうような風潮が日本には残っています。同年代の少年から認められることは、少年にとって重大なことです。多くの小学校でも、コーラス部に男子が集まりにくい理由の一つがそこにあります。さらには、変声期が早くなって、実質的に歌える期間が短くなったことも挙げられましょう。また、男の子はいわゆる「照れ」が強く、人前で歌うことを恥ずかしがる傾向もあります。そのようなこともあって、たくさん誕生した少年合唱団も、解散したり、少年少女合唱団に移行していくことが多かったのです。しかし、厳密にいうと、少年と少女の声は、高さは同じであっても質も違い、同じような訓練を施すのは、適切でないと言われています。
  この少年合唱団減少の問題については、桃太郎少年合唱団の棚田国雄団長が中心となって全国調査した研究(「日本の少年合唱団の現状と課題」)が注目されます。そこでは、さらに、最近著しい少子化の問題、学習塾隆盛の問題、少年のスポーツ志向の問題、設立理念の問題、経済的問題、事務処理の問題など、諸要因が詳述されています。
  私は、それよりもテレビを中心とするマスコミがこの分野を全くといってもよいほど取り上げないことの影響が大きいと考えています。1960〜70年代はNHKに「歌のメリーゴーランド」や「歌はともだち」といった番組があり、そこには少年(少女)合唱団が交替でレギュラー出場していました。番組を見た少年たちがあこがれてそれぞれの地域にある少年合唱団に入団するというケースが多かったのではないでしょうか。今ではそれは期待できない状態です。現在サッカーが盛んなのはJリーグをテレビが盛んに放送することが大きいのと同じです。
  そのような困難の中で比較的長く少年合唱団としての命を保っている団体としては、ビクター少年合唱隊(現在はTOKYO−FM少年合唱団)、フレーベル少年合唱団,、グロリア少年合唱団などが挙げられます。現在、東京少年合唱隊や、西六郷少年合唱団は、少年少女合唱団になって存続し、活躍しています。とりわけ、西六郷少年少女合唱団は平成11年に指導者の鎌田典三郎が逝去され、一時は解散がささやかれましたが、新・西六郷少年少女合唱団として再出発しました。
 また、現存する少年合唱団は私の知る限り全国に11団体しかありません。

・フレーベル少年合唱団(東京都文京区)
TOKYO−FM少年合唱団(東京都千代田区
・新潟少年合唱団
グロリア少年合唱団(神奈川県鎌倉市)
・常滑少年合唱団(ボーイソプラノ合唱団  愛知県常滑市)

・名古屋少年合唱団   (愛知県日進市)
・ボーイズ・エコー・宝塚(兵庫県宝塚市・・・休団中)
桃太郎少年合唱団(岡山県岡山市)
広島少年合唱隊(広島県広島市)
呉少年合唱団(広島県呉市)
・北九州少年合唱隊(福岡県北九州市


 また、少年少女合唱団でありながら、「少年の部」を独立させているところとしては、
・京都市少年合唱団 みやこ光(京都府京都市)
・和歌山児童合唱団(和歌山県和歌山市)・・・現在は休止している模様

 あとは学校の聖歌隊で
立教小学校聖歌隊(東京都豊島区英国国教会系のエピスコパリアンの学校)
暁星小学校聖歌隊(東京都千代田区カトリック系のマリア会の学校)

があります。

 
3 少年合唱をめぐる社会的背景


   日本における少年合唱団の成立


 日本の少年合唱を考えるときに、どうしてもこの問題に突き当たります。キリスト教という宗教的な背景の薄い日本においては、鎌倉カトリック雪ノ下教会と不可分の関係にあるグロリア少年合唱団のような少年合唱団はむしろ例外的少数派と言えます。上高田少年合唱団や西六郷少年(少女)合唱団のような学校のクラブ活動が発展したものや、桃太郎少年合唱団や広島少年合唱隊のような県や市の教育委員会が所管・後援する社会教育事業の一つとして設立されたものが多数派と言えましょう。その他にはビクター少年合唱隊やキング少年合唱団のようなレコード会社関係の少年合唱団もあります。前述しましたように、昭和30年のウィーン少年合唱団の来日をきっかけとして、児童発声が見直され、全国各地の音楽教育関係者やレコード会社等の情熱によって雨後のたけのこのように少年合唱団が設立されました。当時ウィーン少年合唱団のコンサートの人気はすさまじく、全国どこでも満員札止めであったといいます。また、その後、パリ木の十字架少年合唱団をはじめヨーロッパを中心とする少年(少女)合唱団が来日するたびに、マスコミもこれを積極的にバックアップしました。

   名プロデューサーの存在


 昭和36年(1961年)に開始した「みんなのうた」昭和39年(1964年)に開始した「歌のメリーゴーランド」といった少年(少女)合唱をメインにした番組が毎日あるいは毎週全国放送されることによって、全国の歌の好きな少年たちは各地にある少年(少女)合唱団に入団していきました。毎週交替出演する東京放送児童合唱団や西六郷少年(少女)合唱団などの在京の合唱団は、一躍子どもたちのアイドルとなりました。さて、優れた番組には必ず優れた監督や製作者がいます。これらの番組の場合、プロデューサーであったNHKの後藤田純生こそがその人です。後藤田純生こそは、日本の少年(少女)合唱隆盛の恩人と呼ぶべき人でしょう。後藤田純生の功績は他にもあります。それは、いわゆるジュニアソングといわれるジャンルの子どもの歌を切り拓いたことです。その多くは外国曲に日本語の歌詞をつけるものでしたが、それまでの日本の子どもの歌は、童謡・唱歌か、テレビ・ラジオ番組の主題歌しかなく、非常に新鮮に感じたものです。
 同時期には、大人の合唱グループもこの時期に多く誕生し、男声ではダークダックス、ボニ−ジャックス、デュークエイセス、女声ではスリーグレイセスなどが活躍し、これらの男声合唱グループは紅白歌合戦にも連続出場していました。また、歌声喫茶が全国各地に開店し、若者が集まってロシア民謡等を歌うという姿もみられました。

   高度成長を支えた価値観


 さて、このように少年合唱が盛んになった時期は、ちょうど日本が戦後の復興期から高度成長期に入った頃です。この時期は政治的には冷戦構造の中、安全保障問題に関して国内では大きな思想的対立もありました。経済的にはまだ厳しい状況が続きましたが、子育てについては、正義や努力という価値が尊ばれ、また、食べ物を大切にする躾や子どもにはきちんとした服装をさせたいという親の願いなどはコンセンサスの得られた時期と言えましょう。全員がそれぞれの役割を果たしながら同じ方向に向かって努力するという高度成長を支えた価値観は、各パートが協力して1つの曲を創り上げていくという合唱を支える価値観とも合致していました。公害等の矛盾をはらみながらも高度成長がピークに達した1970年代の調査では、日本の子どもの社会的規範意識は世界の最高水準にありました。また、この1970年という年は日本の思想史にとって分水嶺ともなる年です。安保反対を叫ぶ左翼運動が挫折し始め、また反対に憲法改正を唱える三島由紀夫の割腹事件という衝撃的な事件が起きましたが、それまで有形無形に日本の教育や子育てを支えてきた儒教的倫理観が崩れ始めてきました。経済至上の考えが広がり、そのような日本人の姿をエコノミック・アニマルとさげすむ声も聞こえるようになってきました。
 さて、昭和40年代頃、ヨーロッパから来日した少年合唱団の半ズボンにハイソックスという制服は、そのまま日本の少年合唱団の制服にも取り入れられ、たちまち主流となり、今に続いています。同時に、こういう服装は当時最もかっこいいよそ行き着(男の子の晴れ着)でもあったのです。子どもにはきちんとした服装をさせたいという親の願いは、このような形で実現していきました。

   「失われた20年」の中で


 それから30数年、日本は経済大国といわれた時から、バブル期を経て「失われた20年」と呼ばれる混迷の中であえいでいます。失われたのは経済的な面だけではありません。価値観の多様化という美名の下、何でもありの風潮が広がり、「悪いことは悪い。」という教育や躾を怠ってきた結果、日本の子どもの社会的規範意識は平成10年ごろの調査では世界の最低ランクにまで落ち込んでしまいました。正義を疎み、努力をあざ笑い、すぐに手に入るものを求め、今楽しかったらよいという社会的風潮が子どもの精神を汚染するようになってきました。「人に迷惑をかけなければ何をやってもかまわない。」という意識と行動は、人に迷惑をかけていても、そのことにさえ全く気付いていないという道徳的退廃をもたらしました。それは、いじめや学級崩壊ともつながっています。規範意識の低い子どもが、規範意識の高い子どもをいじめの標的にしている姿もあります。少年合唱の全盛期であった1970年代初頭、日本の子どもの規範意識は世界最高レベルであったというのに。この問題こそ教育改革の最優先課題にすべきでありましょう。
 服装についても崩壊現象が見られます。きちんとしたものを嫌ってわざと膝を破ったり、ズボンをずらしてわざとパンツを見せるようなだらしない着こなしをする若者文化が子どもにまで降りてきました。ストリートファッションと称し、スケートボードやバスケットボールに起源をもつダボダボのシャツ出し、ハーフパンツという下品極まりない服装が子供服の定番になってしまいました。だらしない着こなしをかっこいいと思うゆがんだ美意識さえ生まれました。これらは、経済的豊かさが生んだ貧困ではないかと思います。「シャツ出し、ハーフパンツ」は少年服の劣化の象徴であるとさえ思います。
 このような社会的風潮は、規律と気品を重んじ協力的態度をもつ少年を育てようとする少年合唱がめざしてきた世界とは根本的に相容れません。しかしながら、そのような社会の大きな流れの中で、少年合唱人口が減ってきたことは否めません。これらは、少年合唱人口減少の直接的な原因ではありませんが、間接的な原因になっていると考えられます。少年合唱を応援することは、ただ個人の音楽趣味にとどまらず、健全な少年文化を育成することにつながっています。

   
時代に媚びない強さを

 こんな時代だからこそ、時代の風潮に媚びてはなりません。美しいものを美しいと感じ、実践する子どもを育てていかなければならないと考えます。最近NHKの「プロジェクトX」という番組が脚光を浴びていました。夜の9時台の番組としては異例の高視聴率をあげていました。これは、日本が戦後立ち直っていく頃、1つの目的のためにみんなが協力してそれを成し遂げるという姿を描いた番組です。混迷の今こそ、こういう価値の尊さを再認識する必要がありましょう。祖国日本再生のためにも。

   
4 私は、なぜ、少年合唱が好きなんだろう

 私は、なぜ、少年合唱が好きなんだろう・・・。そんなことを自問自答することがあります。日本の少年合唱団に初めて接したのは、忘れもしません、平成10年12月23日のTOKYO−FM少年合唱団のクリスマスコンサートでした。「アマールと夜の訪問者」とクリスマスキャロルの演奏も素晴らしかったのですが、さらに感動したのは、舞台が終わった後、解散を前に集合した団員の少年たちの整然とした態度でした。山口先生の言葉が続きます。
「表舞台だけでなく、裏方があって成り立っていることを忘れないように。」
ここでは、こういう教育が行われているのか。
 その感動の冷めない翌年の1月、初詣がきっかけでボーイズ・エコー・宝塚に出会いました。そこには、いわゆる「月謝」もとらず、歌によって社会に奉仕することを理念とした中安先生・辻先生の姿がありました。宝塚から1歩も出ることがなかったため、対外的にはあまり知られることのなかった少年合唱団ですが、その理念には尊いものを感じました。また、団員の減少で苦しい運営をしている現状があることを知りました。
 今、日本の少年合唱団はどうなっているんだろう。そんな思いからウィーン少年合唱団と合同合宿・合同公演をしたという桃太郎少年合唱団の定期演奏会に行きました。そこでは、自分の合唱団の発展だけではなく数少なくなった日本の少年合唱団全体の発展を願う棚田団長先生との出会いがありました。さらに、その理念に共感して、熱い想いで指導に打ち込まれる広島少年合唱隊の登副隊長先生の姿が・・・広島少年合唱隊創立40周年を記念して委嘱されたと言う作品「君がいるから」を聴いたとき、身体が震えました。ほんものの歌を聴いた感動がそこにはありました。もう、こうなったら、音楽の素人である恥ずかしさなんか通り越して、ファンサイドから、危機的状況にある日本の少年合唱団を応援しよう。このまま放置したら、日本から少年合唱団が消滅してしまうかもしれない。そこには、今では忘れ去られたようなすばらしい教育が存在します。その活動を紹介することもまた、日本の教育再生にもつながるかもしれないと、想いは広がって行きました。その後、試行錯誤はありましたが、自分のホームページを作ることで、それは可能であるという結論に到達しました。
 さて、最近少年合唱の定番になっている歌に「ビリーブ」があります。この歌では、君がくじけそうになったり、誰かが泣き出しそうになったときは僕が支え、一緒に歩こうと歌われます。友情や共生のすばらしさを歌った名曲です。「このように生きたい」という憧れが清純なボーイ・ソプラノで歌われるとき、そこに美しい世界が現れます。この歌が美しく歌われるとき、歌とそれを歌う少年の人柄は重なって、その少年はそのような生き方をしている、あるいは、そのような生き方に憧れていると思わせます。それは、もしかしたら美しい錯覚なのかもしれませんが、ボーイ・ソプラノを聴く喜びがそこにあります。しかし、もし、舞台で美しい声で歌っている少年の生き方が、歌とは逆に舞台裏やふだんの生活でちゃらんぽらんだったとしたら、これほど興ざめのことはありません。これからも、舞台裏、ふだんの練習で輝く少年を応援していきたいと思います。
 ちょっと辛口発言になってしまいましたが、私のような少年合唱のファンは、ただ美しい声やうまい歌だけを求めているのではないのです。現在の日本では希少価値となってしまった時代に媚びない、だらしなさを毅然と拒否するような凛とした少年を求めているのです。それは、夢物語かもしれませんが、その夢をこれからも少年合唱の中に求め続けたいと思います。

5 芸術として・教育としての少年合唱

 少年合唱を聴く楽しみには、二通りあります。一つは、少年のわずかな時期だけに与えられたボーイ・ソプラノによって表現されるものを楽しむというもので、これを深く追求していくと芸術としての少年合唱を愛でることにつながります。もう一つは、合唱を通して人間として成長していく少年たちの姿を楽しむもので、これを深く追求していくと人間教育につながります。もしも、その両者が満たされた場合は最高の喜びです。
 海外から来日してその歌声を披露してくれる少年合唱団を楽しむ場合は、前者を期待しています。少年たちとの出会いは、文字通り一期一会ですから、素晴らしい歌声やハーモニーを聴くことができれば至福の時を過ごすことができます。しかし、そこでは、彼らの成長は問題にされません。ただ、出会ったそのとき、よい歌を聴かせてくれたかどうかだけが問題にされます。
 しかし、日本の少年合唱団を聴く楽しみは、それとは少し違っています。音楽的に優れているかどうかというだけでなく、少年の成長に寄り添ってその歌を楽しむことができます。ある少年合唱団の定期演奏会に毎年足を運ぶと、低学年の頃元気よさが持ち味だった少年が、高学年になって抒情的な歌を聴かせてくれたりしたときは、その少年の内面的な成長を伺うことができて本当に嬉しくなります。前年の定期演奏会(のどじまん大会)などで失敗した少年が、それをばねにして飛躍したりする場面に出会ったり、変声期という身体の変化と真剣に向き合いながら歌っている姿には感動を覚えます。そういう意味では、少年合唱団の定期演奏会は、芸術と教育が一体となった場なのです。
 ところが、芸術としてのコンサートにおいて、少年合唱やソリストが登場するときは、聴く耳はずっと厳しくなります。そこでは、「子どもだから」「かわいいから」という甘えは許されません。大人の演奏家と同じレベルで評価されます。そういう機会を与えられる少年は希でしょうが、その僥倖を生かして成長してほしいと願っています。
 ただ、日本における少年合唱ファンには、一部ではありますがいびつな側面があります。それは、純粋に芸術として少年合唱を愛好するのでもなく、また、少年の成長を見守るのでもなく、ヨーロッパから来た少年合唱団員を見た目がかわいいといって追いかけるアイドル志向のファンがいることです。こういうファンは概ね熱し易く冷め易いものです。スタートは「かわいい」でもよいと思いますが、そこでとどまらず鑑賞の質を高めてほしいと思います。
 少年合唱は品位を重んじる芸術であることを再認識したいものです。

6 少年合唱団と制服

 このようなところで、個人的な経験や想いを語るのは少しはばかられるのですが、かつて、私は制服が嫌いでした。私服の小学校から詰め襟制服の中学校に入って、そのきゅうくつさがいやでした。入学当時、身長も低く首が短かったから、詰め襟の制服が痛かったというのが最大の理由です。それは辛抱するとしても、制服が学校への誇りを持たせるものならよかったのですが、そうではなくはっきり言って生徒の「非行防止」の取り締まりの手段になっていたから嫌だったのです。戦後すぐの開校以来、生徒指導上の問題を頻繁に起こす経済的に貧しい地域の中学校としてはしかたがなかったのかもしれませんが、やがてそのような生徒の不満は、高校における左翼学生運動の私服化を求める動きとして爆発していきました。思想的に共鳴しない者でさえ、共感する部分はありました。
 ところが、一方、テレビの「歌のメリーゴーランド」に登場する少年(少女)合唱団の制服には、あこがれを感じていました。そのセンスのよさは、清純な歌声や団員の気品のある態度と結びついて違った制服に対するイメージを形成しました。この矛盾した制服に対する心理は、昭和30〜40年代に少年時代を迎えた人には程度の違いはあっても、見られるのではないでしょうか。
 少年合唱団の制服といえば、ウィーン少年合唱団のセーラー服が有名です。もともと海軍の水兵の服であったのが、ヨーロッパの上流階層の間で子供服として流行し、採り入れられたそうです。日本ではセーラー服は女子の制服というイメージが強いため、少年(少女)合唱団の制服になっているところは、ひばり児童合唱団や北九州少年合唱隊など限られています。また、半ズボンにハイソックスという衣装は、パリ木の十字架少年合唱団はじめヨーロッパの少年合唱団の制服としてかなり広く採り入れられていましたが、日本では少年合唱団の制服としてだけではなく、小学校の制服やよそ行きの私服として昭和45年頃から、平成の初めまで日本を席捲します。それは、高度経済成長の日本が経済的に豊かになる象徴のようでした。ところが、バブルが弾けた後の平成5年頃から、ストリートファッションと称し、スケートボードやバスケットボールに起源をもつダボダボのシャツ出し、ハーフパンツという下品極まりない服装が流行し、それが今では子供服の定番のようになってしまいました。また、それしか選択肢がないというひどい状況があります。実は、このころから日本の子どもの規範意識は地に墜ちはじめ、平均レベルにおいて今や世界の最低ランクになりつつあります。この二つの現象の間には相関関係があるのではないかと推測しています。
 しかし、それによって、少年合唱団の制服がよけいに輝きを増すという逆説的な状況が生まれてきました。かつては制服が嫌いだった私も、今では制服賛成に転向しました。だらしない今の少年服の流行が一日も早く衰退することを願っています。
 そこで、日本の少年合唱団の制服について調べてみましょう。なお、最近では平成16年11月の定期演奏会よりフレーベル少年合唱団の制服がリニューアルされました。また、平成19年10月の定期演奏会からは、広島少年合唱隊、平成24年には、TOKYO FM少年合唱団と呉少年合唱団の制服がリニューアルされました。全体的に見ると、半ズボンが衰退していることを感じます。この分野はさらに調べていくと、制服リニューアルの歴史に発展するかもしれません。
(間違っているところもあるかもしれません。ご指摘ください。)

      学年 帽子 上着 ネクタイ ズボン ソックス 聖衣
侍者服
栃木少年合唱団 小・中 赤ベレー帽 オレンジベスト 黒蝶ネクタイ 黒半ズボン
黒長ズボン(中)
白ハイソックス

  
TOKYO FM少年合唱団 なし 緑トレーナー(予科生)
灰色ベスト
(本科生)
なし
エンジネクタイ
紺半ズボン
黒半ズボン
白ハイソックス
黒ハイソックス
あり
暁星小学校聖歌隊 小3〜
小6
なし 黒詰襟
グレー半袖
なし
黒半ズボン
グレー半ズボン
黒ソックス
あり
フレーベル少年合唱団(旧) 幼・小・中 紺ベレー帽 青ブレザー なし グレー半ズボン 白ハイソックス    
フレーベル少年合唱団(新) 幼・小・中 紺ベレー帽
なし
紺ダブル
赤ブレザー
紺リボンタイ
黒蝶ネクタイ
紺半ズボン
黒長ズボン
黒または
白ハイソックス
     
立教小学校聖歌隊         グレー・ダブルの上着
白カッターシャツ
赤ネクタイ グレー半ズボン 紺ハイソックス あり
グロリア少年合唱団 幼・小・中・高 紺ベレー帽
(BCクラス)
白カッターシャツ
団Tシャツ(夏期)
グレーセーター(夏期以外)
臙脂ネクタイ 紺半ズボン
紺長ズボン(小4以上可)

各学校の制服ズボン(中・高)
白ハイソックス




あり
新潟少年合唱団 小・中      白カッターシャツ
白Vネックベスト
水色ネクタイ 黒長ズボン          
常滑少年合唱団   なし           あり 
名古屋少年合唱団                 
京都市少年合唱団   みやこ光 小4〜中 なし 水色半袖 臙脂ネクタイ 紺半ズボン
紺長ズボン(中)
白ソックス
   
和歌山児童合唱団  少年の部 小1〜
小4
なし 白カッターシャツ 紺蝶ネクタイ 紺半ズボン 白ソックス    
ボーイズ・エコー・宝塚 なし 赤ブレザー
Tシャツ
なし 白半ズボン 白ハイソックス    
桃太郎少年合唱団 小・中・高 なし 青ブレザー
白カッターシャツ
赤蝶ネクタイ 青半ズボン
黒長ズボン(中以上)
グレーハイソックス

   
広島少年合唱隊(旧) 小・中
白ベレー帽 グレーベスト
白カッターシャツ
紺ブレザー
(中以上)
緑ネクタイ
ループタイ

臙脂ネクタイ
(中以上)
グレー半ズボン
紺半ズボン

グレー長ズボン(中以上)
白ハイソックス
白ソックス


あり
広島少年合唱隊(新) 小・中
なし 水色カッターシャツ 緑ネクタイ 黒半ズボン(〜小3)
黒長ズボン
(小4〜)
黒ハイソックス(〜小3) あり
呉少年合唱団 小・中 白ベレー帽
(〜小3)

なし
(小4〜)
空色ベスト 白ブレザー

水色ブレザー
紺蝶ネクタイ

ストライブタイ
グレー半ズボン
(〜小3)
黒長ズボン
(小4〜)
白ハイソックス

黒ソックス


   
北九州少年合唱隊 小・中 セーラー帽 セーラー服 リボンネクタイ 紺長ズボン               

日本の少年合唱団の制服(代表的なもの) 夏服・冬服・聖衣・中学生以上の服などは以後追加して充実させます。


栃木少年合唱団(解散)  TOKYO FM少年合唱団
 
  暁星小学校聖歌隊        フレーベル少年合唱団
立教小学校聖歌隊 グロリア少年合唱団 新潟少年合唱団 京都市少年合唱団  みやこ光
和歌山児童合唱団  少年の部 ボーイズ・エコー・宝塚 桃太郎少年合唱団 広島少年合唱隊
呉少年合唱団 北九州少年合唱隊

制服のリニューアル
 少年合唱団の制服も時代と共に変遷しています。そのリニューアルの歴史もまたその時代を反映しています。それを、簡単に「よい」「悪い」と決めつけることはあえてしません。制服がかっこいいと感じることで入団したいと思う少年もいるでしょうし、その逆もあるでしょう。このホームページは、なによりも日本の少年合唱の振興を目的としています。そこで、ここでは好き嫌いや価値観を抜きにして、最近数年間の間で制服をリニューアルした少年合唱団の制服の変遷を紹介しましょう。どちらが美しいと感じるかは、訪問者の美意識にお任せましょう。

合唱団
フレーベル少年合唱団
広島少年合唱隊
呉少年合唱団
 TOKYO FM 少年合唱団
      (予科・本科) 
   


7 メルカンティーニの魂を受け継いで

 ときどきメールで、
「館長さんは、日本のボーイ・ソプラノと少年合唱団だけに関心があって、海外の優れたボーイ・ソプラノや少年合唱団には、関心がないのですか?」
というお便りをいただきます。実は、この分野でもっとも信頼しているお一人のKiyoshiさんからも、常々外国の本格的なものを聴かないと耳が肥えないと助言を受けております。私は、外国の少年合唱団に関心がないのではなく、CDやビデオ・DVDも日本ものの2倍は持っており、日頃より愛聴しております。ただ、外国のソリストや少年合唱団のファンページは、私がやらなくても他にもありますし、今、祖国日本の少年合唱団の危機を知って何もやらないのでは、日本人として「義を見てせざるは、勇なきなり。」であると思って、あえて「日本」にこだわっているのです。「祖国」という美しい言葉さえも、今では死語になりつつあります。こんなことでよいのでしょうか。また、私は、ボーイ・ソプラノや少年合唱団を聞く喜びは、音楽性がすべてとは思っていません。合唱団の教育理念や団員の人間としての育ちを大切にしています。たとえ声がきれいで、歌がうまくても、歌う少年の態度が悪いのでは、真の感動を聴く人に与えることなどできないと思って、むしろ警告を発しています。ですから、私はこのホームページを「趣味」のホームページを超えて、「志」のホームページにしようと思っています。

 私のこのような想いは、少年時代に読んだイタリア統一にかかわる逸話が大きな感化を与えています。私は音楽の素人に過ぎず、合唱の指導はできませんが、メルカンティーニの気高い魂を受け継いで、これからもこのホームページを通して、日本の少年合唱団を支えていきます。

 「メルカンティーニ?」
ガリバルディは小首をかしげた。
「知らぬ。聞いたこともない名だ。」
「は、何でも詩人とかで、ぜひ閣下にお会いしたいと申して。」
「会ってみよう。とにかくこんな隠れ小屋までやって来てくれたのだから。」
ガリバルディは、オーストリア、フランスに敗れて、一日として安き日のないイタリアのために奮起したが利あらず、転々流浪の旅を続けて、カブリラの島にしのんでいた時のことである。召使いに導かれて、やがて一人のたくましい青年が現われた。メルカンティーニである。
「閣下、会っていただけなかったら、私はドアを破って入るつもりでした。」
この言葉は、さすがのガリバルディを驚かせたほど、烈々たる魂に燃えていた。
「用件を言いなさい。」
「私は祖国の堕落が、残念でならないのです。長い歴史に輝くバラタインの丘を、ダイバーの流れを、ふみにじられ、奴隷のように辱しめられても、だれ一人として祖国を救おうとする者はないではありませんか。」
彼は頬を伝わる涙を、ゴシゴシと腕でこすった。
「泣いても泣ききれない気持がしました。そこで、私は閣下のことを開きました。イタリアはよみがえる!はっきりと、そういう気がしました。私はだれよりも先に、閣下のもとにはせ参じようかと思いました。しかし・・・」
メルカンティーニはカなく、目を自分の右足に落としました。
「私は、脚が不自由で、走ることができないのです。」
 この時、ガリバルディは、胸をつらぬくようなものを、青年に感じました。
「それで、閣下、私の血と生命をかけて、一つの詩を書きました。閣下にそれをささげて、それが許されたら、進軍の歌として、すべての人に歌ってもらい、私の心も、ともに従軍させていただきたいのです!」
「聞こう! 読んでくれ給え!」
メルカンティーニは、胸を張り、声も高々と読みあげた。

 進め! 進め!
 墓はゆるぎ、死者は生きぬ
 古き勇者は立ち上がりぬ.
 腕に剣、胸に楯
 イタリアの誉をかがやかせ。
 いそげ! いそげ!
 若き男の児よ!
 征旗を風になびかせつつ
 起てよ起てよいざ進め!
 まもれイタリア、まもれ敵に
 まもれイタリア外敵に・・・

 詩は決して優れているとはいえない。しかし、何とはげしく魂をむちうつ言葉であろう。
「メルカンティーニ君!」
ガリバルディは立ち上がって、痛いほどメルカンティーニの手を握った。
「ありがとう!イタリアのすべての人が、今に歌ってくれるぞ。」
 ガリバルディのこの火のような言葉は、間もなく真実となった。やがて、クロルトの漁村を、ガリバルディを先頭に有名な「千人の志士」たちが船出した。行くことの出来ないメルカンティーニは、ただひとりさびしくなぎさに立って、このイタリアの新しい希望を見送った。その時、沖合の彼らの船から、強く、はげしく、はっきりと、海をひびきわたってくるものは、彼の国土にささげたあの愛国歌ではないか。感激が胸一ばいにせまって、ただ涙の出るにまかせる彼は、いつまでもいつまでも船の去った沖のかなたを見つめて、立ちつくしていた。

                                                       (出典 「例話大全集」 玉川大学出版部 より) 


8 少年少女合唱団における男子団員の減少

   日本に10しか少年合唱団がない現状では、たとえ歌が好きでも少年合唱団に入団できる子どもは、地域的に限られています。例えば、東北以北や大阪や名古屋のような大都市にも、少年合唱団はありません。それでは、少年少女合唱団はどうかというと、桃太郎少年合唱団の調査によると現在約1000団体あるそうです。それなら、一つの市に一団体ぐらい、大都市では数団体はあると考えてもよいでしょう。しかし、その実態は、少年少女合唱団とは名ばかりで、少年少女合唱団や少女合唱団がほとんどです。どうして、こんなことになってしまったのでしょうか。あるいは、いつ頃からこのようになってしまったのでしょうか。今から15年ほど前、朝日新聞に次のような記事が掲載されていました。原因については、これまでに述べてきたこととほぼ一致します。取材は大阪が中心ですが、同じような傾向が全国的にあったのではないでしょうか。また、それは、多くの少年合唱団が人数的に苦しくなってきた時期とも重なります。従って、これは、合唱界全体の問題でもあるのです。そして、この問題は解決されないまま今日に至っています。

    男の子の声消え合唱団がピンチ

  「男の子や−い!」・・・各地の少年少女合唱団で、ボーイソプラノを受け持つ男の子の団員がここ数年で激減、団の存続もピンチとなって指導者たちが悲鳴を上げている。「少年」抜きの「少女合唱団」となってしまった所もあり、各合唱団とも市の広報紙やチラシを配って男の子集めに懸命だ。「塾通いなどで余裕がなくなったため」「合唱はサッカーや野球に比べてかっこよくない」などが原因らしいが、指導者らは「ボーイソプラノの美しさは女声では表現できない」と嘆いている。
 大坂府和泉市の「和泉市少年少女合唱団」はこのほど、紺成10周年の記念コンサートを開いたが、ステージには女の子43人だけで男子はゼロ。結成当初は男子が10人いたが、数年前から徐々に減り、2年前ゼロに。「一度ゼロになると、やろうという子はもう出て来ない」と団長の佐藤幸代さん。
 北摂の千里ニュータウン地区で83年に結成した「千里少年少女合唱団」も男子ゼロ。最後までいた2人が昨年、小学4年生で辞めた。
 高槻市少年少女合唱団では95人中、男子1人。国久昌弘団長は「できるだけ話相手になるようにしています」と気を使う。127人中、男の子14人もいる堺市少年少女合唱団では、入団テストの男子の評価基準はどうしても甘くなる、という。
 塾通いなどのほか、「欧州には少年による聖歌隊の伝統があるが、日本では少年合唱は根付かなかったのか」と分析は様々。音楽家によると、ボーイソプラノは音域の広さや透明感、よく通る声の質など、女子とは「異なる楽器にたとえられる」という。しかも声変わりするまでのわずかの期間だけだ。                 (朝日新聞より)

  ここで大切なポイントは、工夫と努力によって男子団員を確保しているという合唱団はないかということです。鎌田典三郎先生が指導されていた頃の西六郷少年少女合唱団では、男女比がほぼ1対1でしたし、京都市少年合唱団では現在約3分の1の70人を確保しています。むしろ、数年前より増えています。その原因を探ることも大切だと思います。

 (朝日新聞は、政治的にはかなり偏っていますが、少年合唱に関しては、好意的な傾向が見られます。これまで参照・引用した新聞記事のかなりの部分は朝日新聞です。)



9 上高田少年合唱団の歌が残したもの

 一時下火になっていると思われていた「いじめ」が、また大きな教育問題・社会問題になってきました。特に、福岡県筑前町のいじめ自殺事件では、教員(こういう奴を「教師」と呼びたくない)がいじめをしていたという許し難い事実が明るみに出ました。この教員の、
「一生かけて償いをします。」
という言葉が白々しく聞こえました。教師は学校を正義が行われる場所にするために先頭に立つべきです。
 ところで、10年ほど前にも、愛知県西尾市の中学生がいじめや恐喝を苦に自殺したという事件が大きく報道されました。ここまでいくといじめを通り越して犯罪だと思いますが、そのいじめの中に、被害生徒の顔を川に突っ込むというものがありました。私はそれを知ったとき、実はテレビが子どもたちにいじめのヒントを与えているのではないかと感じました。その番組は、題名は忘れましたが、ビート・たけし主演のバラエティ番組で、ダチョウ倶楽部などのタレントを水や湯に入れて沈め、息をしようとするとまた沈めて、苦しんでいるのを見て楽しむという極めて悪趣味なものでした。こういう悪いモデルを日本中に放映していることこそが、犯罪的だと感じました。これは、決して視聴者が適切に判断すればよいといったものではありません。関係者は、この番組を多くの子どもが見ているということを考えていたでしょうか。
 そんなことを思うとき、上高田少年合唱団が昭和30年代から40年代にかけて歌ってきた子ども向けのテレビドラマやアニメの主題歌は、その対岸にあると感じます。いろんな主題歌の一節を思い出すままに列記してみましょう。

 僕等の知ってるあの人は みんなが苦しいときに来る (「アラーの使者」より)
 つらいときにも勇気を出して 正しいことをやり通す (「赤銅鈴之助」より)
 親に心配かけまいと あっという間の早変わり (「まぼろし探偵」より)
 まわれ矢車 僕等の上に 闇を断ち切る 光のごとく 悪を滅ぼす 正義の翼 (「矢車剣之助}より)
 ぼくらは進むぞ 宇宙の果てまで 強く正しい ぼくらの仲間 (「宇宙パトロール ホッパ」より」

 歌が、よきにつけ悪しきにつけ人の精神に感化を与えるということは、音楽にかかわる人が常に意識していなければならないことです。上高田少年合唱団は、硬質な声と詩を縁取るような力強い歌い方で、その番組を視聴する子どもたちの精神に正義感を育んでいきました。戦後、日本の教育音楽の世界では、歌詞よりも曲が優先される傾向があります。私は、それを否定しません。しかし、昭和30年代から40年代にかけては、テレビやラジオの子ども番組の主題歌が、学校における教育音楽を補完していたと言うこともできます。
 上高田少年合唱団の歌が聞こえていたのと同じ頃、もう一つ子どもたちの正義感を育てるものがありました。それは、力道山のプロレスでした。力道山はプロレスを通して「卑怯なことをしてはいけない」ということを子どもたちの心に植え付けてくれました。「卑怯」という言葉が、今の日本では死語になってしまいました。それがけんかやいじめを苛烈なものにしてしてしまったのではないでしょうか。今、ベストセラーになっている藤原正彦の「国家の品格」でも、そのことが述べられています。 
「今、楽しかったらよい」という風潮が、著しく子どもの精神を犯しています。上高田少年合唱団が復活することはないでしょうが、その歌が残したものについて、もう一度光を当ててみる必要があるのではないでしょうか。


10 追悼 浦池和彦先生

  高野敦先生からいただいた浦池和彦先生のご逝去を知らせるメールに私は言葉を失いました。まさか、そんなことがあってよいのか。私は、ホームページのトップに浦池先生がステージに復帰されることを書くことで、励まそうとしていたのに。そのとき、私の脳裏には、数年前NHKテレビで放映された西六郷少年少女合唱団の指導者 鎌田典三郎先生の闘病の姿が重ね合わせるように浮かんできました。5月3日の定期演奏会の指揮をすることを夢見ながら、その日を迎えることなく逝去された鎌田先生。12月2日(今日)の定期演奏会の指揮をすることを夢見ながら、その日を迎えることなくご逝去された浦池先生。
 私は、11月15日に浦池先生からメールを受け取っていました。そのメールの最後は、次のような言葉で締めくくられていました。

・・・ほんとうにもうめげてしまいそうですが、こんなことで負けてはいられない、またステージに立つんだという思いそれだけが支えになっています。あきらめず、1日でも長くいきていたいと思っています。定期でお会いしたいですね。

 それに対して、私のお返事ときたら、

・・・行きたいのですが、雨天でない限り、公務とバッティングしますので、行ける可能性はかなり低いと思います。でも、きっと、浦池先生の舞台姿を拝見したいと思っています。どうか、治療に専念されて、舞台に復帰されることを祈念しております。

 その後、21日消印の招待状まで届きました。
 こんなことになるのなら、嘘でもいいから、「行って浦池先生の舞台姿を応援します。」と、書いておけばよかった。きっと、私のメールを読んで元気をなくされたんじゃないかなあ。
 
 高野敦先生のメールによると、浦池先生はご病状が悪いことを知ってせめて最後に,と今週末の桃太郎少年合唱団第45回定期演奏会の愛唱曲ステージで「歌よありがとう」を指揮されたいと熱望され、棚田先生ともその方向で打ち合わせをされ、そのためのスーツも新調されていたということでした。ゲルハルト・ヒュッシュが、引退のステージで「楽に寄す」を歌ったように、浦池先生は、「歌よありがとう」を指揮したかったのですね。浦池先生は、今年私家盤のCDを作られました。「BEST SELECTION」と題された24曲の桃太郎少年合唱団を指揮された曲集です。私は、この文を書き終わったら、CDの浦池先生の指揮に合わせて、「歌よありがとう」を歌います。それが、せめてもの私ができる浦池先生への追悼。

 11 追悼 中安保美先生

 平成27年2月28日、私にとって大きな大きな支えとなって頂いていたボーイズ・エコー・宝塚の指導者 中安保美先生が89歳でお亡くなりになられました。最近体調がすぐれないことは存じておりましたが、再び指導されることを期して療養されておられました。

 音楽の素人にすぎない私が、このホームページを立ち上げたのも、厳しい状況の中で頑張るボーイズ・エコー・宝塚のような日本の少年合唱団を応援しようという志があったからです。ボーイズ・エコー・宝塚は、中安保美先生と辻潤子先生の奉仕によって成り立っていた少年合唱団です。ボーイズ・エコー・宝塚が創立された昭和59(1984)年は、既に日本においては、少年合唱団だけでなく児童合唱そのものが厳しい状況におかれていました。ボーイズ・エコー・宝塚も、人数的には創立数年後の45人をピークに人数的には厳しい時期もありましたが、そのたびにそれを乗り越え、宝塚の地からその歌声が絶えることはありませんでした。ステージで採り上げられる曲も、予習がなければわからないような難解な曲や前衛的な曲ではなく、誰もがすぐに親しめるような曲でステージを構成されていました。また、曲名は団員が紹介し、6年生には卒業独唱の機会を与えるなど、一人ひとりを活かすことを大切にしてこられました。常に客席の声を大切にし、次回のステージにその声を反映するという努力も続けてこられました。そういう意味で、ステージと客席の距離が日本で一番近い少年合唱団と言うこともできたでしょう。ボーイズ・エコー・宝塚においては、団の最高学年の児童が団長であり、中安先生と辻先生は一指導者という位置づけであったことも特筆できます。

 中安保美先生は、教職に就かれた頃は、日本における「児童発声」研究と実践の先駆者 品川三郎先生のもとで研鑽を積まれました。また、教職をご退職後、ボーイズ・エコー・宝塚の指導者としてその成果を発揮されただけではなく、宝塚ニューイヤーコンサートの代表として、あるいは、郷土芸能である千吉音頭子供会の指導者としても活躍されました。平成25年の第30回宝塚ニューイヤーコンサートでは、永年にわたり市民に対して音楽に親しむ機会を提供し、宝塚市の芸術文化の振興に大きく貢献されたことに対して宝塚市長より感謝状が贈られましたが、奉仕を通り越してそれこそ持ち出しで、ボーイズ・エコー・宝塚をここまで育て上げてこられ、千吉音頭を復興され、「音楽のまち 宝塚」の名を高められました。

 日本の少年合唱が盛んになる兆しが見えない中で、中安先生の想いを、しっかりと引き継ぎ、これからもホームページを続けていきたいと思います。
 安らかにお眠りくださいませ。本当にありがとうございました。

12 常滑少年合唱団結成

 最近は、日本の少年合唱団解散や休団のニュースばかりで、それがこのホームページの更新意欲の低下にもつながっていたところ、愛知県常滑市で平成27(2015)年のクリスマスコンサート開催に向けた期間限定の少年合唱団員募集のニュースが入ってきました。募集人数は小学3〜6年生の30人で、最低開講人数は9人となっております。どれだけの希望者があるかはわかりませんが、多くの参加者があってして、クリスマスコンサートが成功すれば、将来、常滑に新たな少年合唱団が誕生する契機になるかもしれません。
 ぬか喜びになる情報かもしれませんが、日本の少年合唱団の誕生は、このホームページ開設以来のことです。その動向を見守りましょう。
 その後、団員は5名から10名へと増え、名称もボーイソプラノ合唱団となりましたが、詳細は、INDEXページのコーナーをご覧ください。

 13 名古屋市少年合唱団誕生


キンゴジュさんより、「愛知に新たな少年合唱団が誕生!」として、日進市の日進キリスト教会を練習会場に平成28(2016)年に誕生した「名古屋少年合唱団(Nagoya Boys Choir)」です。キンゴジュさんは、指導者のウィルソン先生に連絡をとり、練習を参加するだけでなく、平成29(2017)年7月2日に行われた、サマーコンサートに行って来られたようです。詳細は、キンゴジュさんのブログをご覧ください。

http://ameblo.jp/gojurasu50/entry-12289557606.html


13 日本の児童合唱(少年合唱)の指導者たち

       @ 品川 三郎

  日本の児童合唱、とりわけ、少年の発声に関する指導の先駆者としては、品川三郎を挙げることができます。従来、歌は女の子の方が男の子よりうまいと考えられてきましたし、今でもそう思われている傾向がありますが、品川三郎は、昭和20年代から30年代にかけて、箕面町(市)立箕面小学校において、男子合唱クラブ「みのお少年合唱隊」を指導する中で、正しい発声法を指導すれば、、男の子の歌声(ボーイ・ソプラノ)は、女の子の歌声をしのぎ、芸術的にも高いものになることを証明していきました。
 それでは、品川三郎の少年の発声に関する基本理念とはどのようなものでしょうか。品川三郎の著書「児童発声」(1955)によると、次のようなものが大きな特色です。

 ・児童の発声は「頭声発声」でなければならない。
 ・量よりも質の美を第一義に考えて指導しなければならない。

 「みのお少年合唱隊」は現在は解散してありませんし、録音もほとんど残っていませんが、その指導の理念と方法は、品川三郎のもとでピアノ伴奏をしていた高弟の中安保美に伝えられ、中安保美が指導する「ボーイズ・エコー・宝塚」の歌声の中に聴くことができます。

   A 鎌田 典三郎

 
鎌田 典三郎は、「みんなのうた」や「「歌のメリーゴーランド」「歌はともだち」等のテレビ番組で「西六郷少年少女合唱団」を全国的に有名にした指導者ですが、何よりも東京都大田区立西六郷小学校に昭和26年以来36年間奉職し、その小学校を母体として日本有数の合唱団を育て上げたところにその偉業を感じます。鎌田典三郎が奉職した頃の西六郷小学校は、戦災の焼け跡が残る東京の町工場が多い下町で、音楽的文化がある地域とは言えないところでした。鎌田典三郎は、ウィーン少年合唱団の演奏に接して、独学で発声や指揮を研究し、少年たちに伝授するという今から考えれば驚くべき指導法でこの合唱団を育てていきました。最初にめざしていたのはボーイ・ソプラノによる少年合唱で、昭和30年に西六郷少年合唱団が誕生しています。その後、昭和33年からTBS全国子ども音楽コンクール合唱の部で6年連続日本一に輝くなど、常に日本の児童合唱の先頭を走ってきました。昭和36年には女子も加え、西六郷少年少女合唱団となりましたが、男子と女子の比率は常にほぼ1対1ということも特筆されます。平成11年鎌田典三郎の逝去後、西六郷少年少女合唱団は解散しましたが、すぐに後継者によって再結成され、今日に至っています。
 
鎌田 典三郎の人と教育は、尾見敦子著の「西六郷に歌声ひびけ 鎌田典三郎の合唱教育」(1987)に詳しく述べられています。ところで、鎌田典三郎の「子どもたちに求めたい声」は、次のようです。

  ・澄んでいて明るい声
  ・素直で柔らかい声
  ・生き生きとしてつやのある声
  ・ひびきのある声
  ・低音域を,どならない声
  ・高音域が楽に出せる声
  ・曲の感じを,充分に表現できる声


 また、鎌田典三郎の逝去後二つの映像作品が公開されました。一つは「ぼくらの町は川っぷち 鎌田典三郎先生と西六郷少年少女合唱団」というビデオ記録映画で、文化映画を制作している東京シネ・ビデオから発売されています。もう一つは、NHKで放映されたドキュメントにっぽん「最後の演奏会」末期がんの恩師に贈る日本一の歌声 西六郷少年少女合唱団」。児童合唱ファンはかなり見られたのではないかと思います。この作品は、病床の鎌田先生と教え子達の心の交流を中心に、最後の演奏会までの記録が克明に記録されていました。鎌田先生がウィーン少年合唱団に憧れて独学で音楽を学ばれ、決して音楽環境に恵まれているとは言えない一つの小学校を母体にした合唱団をここまでの水準に引き上げた功績もさることながら、厳しいスパルタ教育をしたにもかかわらず、子ども達の心に永久に消えない美しいものを残した精神的遺産はさらに大きいと思います。
追悼演奏会になった最後の定期演奏会での「ぼくらの町は川っぷち」は感動的でした。
 さて、番組の中で、高野政次さんという名前を聞いたとき、「白馬童子」の主題歌を歌った人だという記憶がよみがえりました。高野さんも西六郷少年少女合唱団で鎌田先生に育てられた人です。その後20年間クラブなどで歌う歌手をしていたとか、人の出会いの大きさを感じます。お見舞いに行った高野さんと鎌田先生の会話を聞いて、義務教育の先生と教え子の関係は、信頼で結ばれている限り、いくつになっても変わらないのではないかなどと思いました。高野さん、泣きながら「ぼくらの町は川っぷち」を歌っていました。

 鎌田典三郎の追悼としては、指導ビデオも発売されています。そのビデオを入手したときのことを私は、某ホームページの掲示板に次のように書き込んでいます。そのときの熱気を再現するために、やや異質ですが原文を掲載します。

 ついに、手に入れました。ビデオ「鎌田典三郎と西六郷の歌声」ー永遠に美しい響きを求めてー 鎌田先生追悼のビデオで限定1200本ということだそうです。音楽の友社発行で番号はOV−8390です。ほしい方は早い目にご注文を。
 1988年第3回小学校合唱指導セミナーにおける演奏からと言うことで、鎌田先生がお元気だった頃の姿に会えます。子ども達もおなじみの上品な制服姿で・・・
 曲目は「赤とんぼ」「夕やけこやけ」「森の夜明け」「魔法の笛」「ほたるこい」「谷茶前ぬ浜」「森の冬」「祭りと花と娘」「清らに星澄む今宵」「美しく青きドナウ」「モルゲンレーテ」「ジプシーがチーズを食べる」となかなかいい選曲です。これで「僕らの町は川っぷち」があれば、なんて贅沢ですね。「赤とんぼ」「夕やけこやけ」はVBCと「ほたるこい」「清らに星澄む今宵」はTFBCと聴き比べできます。こういう楽しみも発見しました。VBCやTFBCなら、ソロも楽しめそうだとか・・・
 でも、西六郷は「みんなの歌」「歌のメリーゴーランド」以来の長いお付き合いですからね。鎌田先生に教えていただいたら、もっと歌がうまくなったんじゃないかと言う想いは今でもあります。全国の少年達の憧れを育てた鎌田先生は素晴らしい方です。
 今、合唱そのものが以前と比べて低調なのは、はっきり言ってテレビをはじめとするマスコミが取り上げないからです。せめてNHKは、もっといいものを子どもに与えてください。また過激な発言になってきたので、今日はここまで。

        
B 川上彌榮子

  川上彌榮子は、東京都の各地の小学校で優れた音楽教育の指導を行ってきましたが、NHK全国学校音楽コンクール小学校の部で台東区立金竜小学校を昭和58・59年度の2年連続金賞に導いたことで、全国的に名を知られるようになりました。自然で伸びやかであると同時に、ドラマを感じさせる表情のある歌声が特色です。また、歌う児童の表情が大変美しいので、鑑賞して幸せな気持ちになってきます。その理想の歌声は、次の12項目にまとめることができます。

1 歌いやすい声 話し声もいい声にして
2 高い音も低い音も出しやすい声 響きを変えないで
3 共鳴した声 からだに響く声
4 ハーモニーする声
5 曲にふさわしい声 遊び歌とは異なる
6 子供らしく明るい声,軽い声
7 からだで歌う声 正しい姿勢からでる声 全身を使った声
8 声帯や胸などが疲れない歌い方の声
9 歌って満足感を覚える声 わめいてでなく
10 聴く人を疲れさせない声
11 聴く人に心地よい響き,心や耳に残る歌声 音楽性を求めて
12 みんなの声に溶け合う声 伴奏と合っている声

      
 C 小川 俊彦

 小川俊彦は、長年愛媛大学教育学部附属小学校で教鞭を執っていましたが、その間何度もNHK全国学校音楽コンクール小学校の部で同校合唱部を全国優勝(金賞)に導いています。また、最近まで松山少年少女合唱団の指導者として活躍しています。小川俊彦の指導理念は、「いい顔、いい声、いい心」  という言葉によって現されるように、歌声を通しての人づくりにまで高められています。愛媛大学教育学部附属小学校の合唱部が全盛期を迎えた昭和の終わりから平成の初め頃、この言葉は、かなり全国的に広がりました。
      

 
D 蓮沼 勇一

  平成29(2017)年3月まで40年の長きにわたって暁星小学校の音楽教師として、また、暁星小学校聖歌隊の指導者として、活躍された蓮沼勇一の業績は、NHK全国音楽コンクールにおいて全国大会に出場した5年間で金賞回銀賞1回という輝かしい成績にも表れていますが、実際の指導法としては、ビデオやDVDを通して、全国の音楽教育、とりわけ合唱指導者に多くの指導上の示唆を与えてきました。その歌声は、イギリスの聖歌隊の音色に近い透明度の高いものです。また、音楽教師としての集大成としての著書「白ひげ先生の心に響く歌唱指導の言葉がけ」は、蓮沼の歌唱指導の在り方を文章化しただけにとどまらず、一冊全体が人間形成・人間教育のための本に感じられました。この著は、大きく、気持ちづくりの章、声づくりの章、曲づくりの章からなっていますが、どの章でも日頃の児童への言葉掛けや、その指導を支える理念のようなものが、強く感じられ、何によって人は育つのかということを考えさせます。また、終章は合唱や音楽を通して学べることや教師の在り方にまでふれられています。
                               



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