日本の少年合唱


1 日本の児童歌唱の歴史

  明治5年に学制が制定され、学校教育が始まった明治初期、教科として「唱歌」が制定されても、当初は教えるべき教材もなく指導者もいなかったと言ってもよいでしょう。次第に教材が整備されてきた明治中期になっても、歌唱法については、ごく一部の有識者をのぞいては皆無といってもよく、日本音楽独特の地声がほとんどであったと推察されます。日清・日露の戦争を背景にして、学校でも軍歌がよく歌われるようになると、大声で元気よく歌うことのみが強調されたとも考えられます。
  その後大正時代になって、「頭声発声」を唱える草川宣雄や「中声発声」を唱える福井直秋の指導法が一部の音楽教育者の間で注目を集めましたが、それは弱く歌えばよいというふうに見られるところもありました。
  昭和になると、昭和7年から「児童唱歌コンクール」が始まり、美しさだけでなく声量的な面にも目が向けられるようになってきました。また、そのころ童謡歌手というのが登場し、レコード化されるようになったのも、日本の児童歌唱の特色といえましょう。ところが、これも、頭声を使わない地声歌唱でした。第2次世界大戦の開始に伴い、再び音楽は戦意高揚の手段と化し、大声で元気よく歌うに逆戻りしたともいえます。いや、ほとんどの小学校では、明治以後ほとんど変わっていなかったというのが現実かもしれません。そのころの歌唱がどのようなものであったかは、篠田正浩監督の映画「少年時代」の中で歌われる歌を聴くとだいたいわかります。
  戦後になって、昭和22年の学習指導要領では、「自然な発声を重んじ、のどを詰めないようにする」とか、斉唱中心から合唱を取り入れるようにという大きな変化が見られましたが、末端までは行き届きませんでした。昭和26年の学習指導要領の改訂では、頭声発声が強調されましたが、それを理解できる教師は少なかったと考えられます。この時期、文部省は仙台市立南材木町小学校を実験校に指定し、児童発声の研究を行いました。この研究は音楽教育関係者だけでなく医学者までが参画するという大がかりなもので、その成果は、以後の音楽教育に多大の影響を与えました。「頭声発声」が一躍注目を浴びるようになってきました。
  また、同時期、大阪の品川三郎は箕面小学校を中心に児童発声の研究を進めましたが、ここでも「頭声発声」が強調されました。これは、男子の発声を中心にしており、その研究成果は著書「児童発声」に詳しく述べられています。昭和33年、これらの研究成果を受けて文部省は子どもらしいのびのびした声,また,美しく柔らかい自然な発声を目指して,この用語を学習指導要領に採り入れました。
「高音の発声の要領を活用し,中音域,低音域(胸声区)の美しい発声を指導する。頭声が完成するまで音量が小さく、弱々しいという欠点があるので、共鳴を工夫することによって補う。硬口蓋と軟口蓋の中央部に焦点を作り、鼻腔の共鳴も加えた軟らかな発声」(昭和35年小学校指導書) しかし、その当時の小学校の教師でこれらのことを理解して指導していた者が、以前と比べてどれほど増えたでしょうか。まだ、音楽教育の盛んな地域や児童発声に関心のある一部教師に限られていたようです。いずれにせよ、頭声発声は「弱声発声〜美しいが線が弱く、ひ弱な声」と誤解される面があったため、明るい響きのある共鳴を伴うということで「的」をつけて示されました。
 昭和30〜50年頃はウィーン少年合唱団をはじめとする外来の少年(少女)合唱団の来日もあいまって、日本においても児童合唱が盛んとなり、NHKの全国学校音楽コンクールには3000校もの参加校があった時期もあります。また、 「みんなのうた」「歌のメリーゴーランド」「歌はともだち」といった児童合唱をメインにした番組が毎日あるいは毎週全国放送されることによって、児童合唱への関心は急速に高まっていきました。
 その後、外来のいろいろな少年(少女)合唱団の影響を受けながらも、発声法は「頭声的発声」という言葉に代表されるように少しずつ変化してきました。とりわけ、昭和50年代にポップス系の音楽が入ってくると、従来の発声法だけではこれに対応できなくなり、楽曲によってはその曲想にあった発声を取り入れることが望ましいとされるように変化してきています。頭声ばかりでなく胸声も使っていくことが子どもの歌唱表現を生き生きとさせることにつながるという面もあるため、平成元年に発行された小学校学習指導要領指導書には、
「発声指導については,頭声的発声を中心とするが,楽曲によっては,曲想に応じた発声の仕方を工夫するようにすること。」
と変化してきました。これは、平成10年の学習指導要領の改訂でいよいよはっきりしてきました。
   平成29年に告示された学習指導要領解説では、
「自然で無理のない,響きのある歌い方で歌うとは,児童一人一人の声の特徴を生かしつつも,力んで声帯を締め付けることなく,音楽的には曲想に合った自然な歌い方で,歌声を響かせて歌うことである。
 指導に当たっては,児童が歌い方を試す過程を大切にしながら,自分の歌声の持ち味を生かすとともに,曲想に合った歌い方を主体的に探っていけるようにすることが求められる。例えば,合唱の響きをより豊かにするために呼吸や声の響きに留意した歌い方を試したり,民謡を歌う際には,範唱の歌い方に近づけるように歌い方を試したりするなど,声の使い方や言葉の発音を意識しながら歌うように働きかけることが考えられる。
と、記述され、「頭声的発声」から「自然で無理のない声」への方向性がさらに明らかにされました。
   さて、小学校でも音楽については高学年を中心に専科教員が指導することが多くなり、極端な地声発声は減りましたが、合唱音楽そのものへの関心が全国的に低下し、児童の関心はマスコミに採り上げられるアイドルやアイドルグループが歌うJ−POPをはじめとする流行歌に移り、学校音楽が校門を出て歌われることが少なくなったことの方が大きな問題ではないでしょうか。


2  日本の少年合唱団

  「ウィーン・ショック」という言葉が今でも語り伝えられているそうです。この言葉は、昭和30年(1955年)に、ウィーン少年合唱団が、初来日公演したときの日本人の衝撃の大きさを示しています。このことは、いろいろな意味で、当時の音楽教育関係者に影響を与えました。
  第1は、児童発声に関するもので、それ以来、頭声、あるいは、頭声的発声の大切さが盛んに言われるようになりました。文部省発行の指導書にも「頭声的発声」という用語が使われるようになり、現在まで続いています。これは、子どもの喉に過度な負担をかけず、美しい声で歌わせるという意味で大きな意義があります。それまでの児童発声は、いわゆる童謡歌手のような地声的なものが主流でした。まして、発声に無関心な教師に指導された、ほとんどの教室から流れてきた歌声は、元気がよければよいというようなものでした。
  第2は、少年合唱団や、少年少女合唱団が全国各地に雨後のたけのこのように生まれたことです。ところが、後者はともかく少年合唱団の方は、いくつかの理由で順調に発展しませんでした。まず、キリスト教の基盤のない日本では、ヨーロッパと同じような少年合唱団の運営をすることは難しいということがあげられます。次に、腕白時代とも言える年齢の少年に、厳格な歌唱訓練が好まれないことも挙げられましょう。また、頭声発声がまだ珍しかった時代だけでなく、未だに、ボーイ・ソプラノを女みたいな声だとしてからかうような風潮が日本には残っています。同年代の少年から認められることは、少年にとって重大なことです。多くの小学校でも、コーラス部に男子が集まりにくい理由の一つがそこにあります。さらには、変声期が早くなって、実質的に歌える期間が短くなったことも挙げられましょう。また、男の子はいわゆる「照れ」が強く、人前で歌うことを恥ずかしがる傾向もあります。そのようなこともあって、たくさん誕生した少年合唱団も、解散したり、少年少女合唱団に移行していくことが多かったのです。しかし、厳密にいうと、少年と少女の声は、高さは同じであっても質も違い、同じような訓練を施すのは、適切でないと言われています。
  この少年合唱団減少の問題については、桃太郎少年合唱団の棚田国雄団長(当時)が中心となって全国調査した研究(「日本の少年合唱団の現状と課題」(平成10(1998)年6月刊)が注目されます。そこでは、さらに、最近著しい少子化の問題、学習塾隆盛の問題、少年のスポーツ志向の問題、設立理念の問題、経済的問題、事務処理の問題など、諸要因が詳述されています。
  私は、それよりもテレビを中心とするマスコミがこの分野を全くといってもよいほど取り上げないことの影響が大きいと考えています。1960〜70年代はNHKに「歌のメリーゴーランド」や「歌はともだち」といった番組があり、そこには少年(少女)合唱団が交替でレギュラー出場していました。番組を見た少年たちがあこがれてそれぞれの地域にある少年合唱団に入団するというケースが多かったのではないでしょうか。今ではそれは期待できない状態です。現在サッカーが盛んになってきたのはJリーグをはじめ、国際試合をテレビが盛んに放送することが大きいのと同じです。
  そのような困難の中で比較的長く少年合唱団としての命を保っている団体としては、ビクター少年合唱隊(現在はTOKYO−FM少年合唱団)、フレーベル少年合唱団,、グロリア少年合唱団などが挙げられます。現在、東京少年合唱隊や、西六郷少年合唱団は、少年少女合唱団になって存続し、活躍しています。とりわけ、西六郷少年少女合唱団は平成11年に指導者の鎌田典三郎が逝去され、一時は解散がささやかれましたが、新・西六郷少年少女合唱団として再出発しました。
 また、令和元(2019)年時点で現存し、活動している少年合唱団は私の知る限り全国に8団体しかありません。その中でも、ボーイ・ソプラノを基本としているのは、フレーベル少年合唱団(最近変声後もユースクラスとしてOB会と共に混声合唱をしていますが)とTOKYO FM少年合唱団(小学1〜6年で構成)の2団体です。あとの6団体は、変声後男声で歌わせるところ(グロリア少年合唱団・新潟少年合唱団・広島少年合唱隊・北九州少年合唱隊)と変声後はファルセットをもとにして同声合唱にしているところ(桃太郎少年合唱団と呉少年合唱団)とに分かれます。創立当初は、小学生だけのボーイ・ソプラノ合唱団であっても、諸般の事情から中学生・高校生を入れるようになってきたというのが現状です。また、京都市少年合唱団は、「みやこ光」と名付けられた男子部がありますが、定期演奏会は混声で、終了演奏会は変声前のボーイ・ソプラノと、分けています。立教小学校聖歌隊と、暁星小学校聖歌隊は、学校の特別活動の一環として行われていますが、ボーイ・ソプラノを基本としています。なお、ヨーロッパの聖歌隊は、伝統的に混声が主流で、ウィーン少年合唱団のようなボーイ・ソプラノを基本としている団体は少数です。

・フレーベル少年合唱団(東京都文京区)
TOKYO FM少年合唱団(東京都千代田区
・新潟少年合唱団
グロリア少年合唱団(神奈川県鎌倉市)
・名古屋少年合唱団   (愛知県日進市・・・休団中)
・ボーイズ・エコー・宝塚(兵庫県宝塚市・・・休団中)
桃太郎少年合唱団(岡山県岡山市)
広島少年合唱隊(広島県広島市)
呉少年合唱団(広島県呉市)
・北九州少年合唱隊(福岡県北九州市)

 また、少年少女合唱団でありながら、「少年の部」を独立させているところとしては、
・京都市少年合唱団 みやこ光(京都府京都市)
・和歌山児童合唱団(和歌山県和歌山市)・・・現在は活動を休止している模様

 あとは学校の聖歌隊で
立教小学校聖歌隊(東京都豊島区英国国教会系のエピスコパリアンの学校)
暁星小学校聖歌隊(東京都千代田区カトリック系のマリア会の学校)

があります。

 さらに、平成30(2018)年には、
ソプラノ♪7(セヴン)ボーイズが誕生しましたが、これは、ミュージカル劇団あるいは児童劇団所属の少年を中心に(無所属の歌の得意な少年もいるかもしれません)日本の後世に残すべき童謡・唱歌をミュージカル仕立てに演じる新しい理念のユニットです。

 
3 少年合唱をめぐる社会的背景

   日本における少年合唱団の成立

 日本の少年合唱を考えるときに、どうしてもこの問題に突き当たります。キリスト教という宗教的な背景の薄い日本においては、鎌倉カトリック雪ノ下教会と不可分の関係にあるグロリア少年合唱団のような少年合唱団はむしろ例外的少数派と言えます。上高田少年合唱団や西六郷少年(少女)合唱団のような学校のクラブ活動が発展したものや、桃太郎少年合唱団や広島少年合唱隊のような県や市の教育委員会が所管・後援する社会教育事業の一つとして設立されたものが多数派と言えましょう。その他にはビクター少年合唱隊やキング少年合唱団のようなレコード会社関係の少年合唱団もあります。前述しましたように、昭和30年のウィーン少年合唱団の来日をきっかけとして、児童発声が見直され、全国各地の音楽教育関係者やレコード会社等の情熱によって雨後のたけのこのように少年合唱団が設立されました。当時ウィーン少年合唱団のコンサートの人気はすさまじく、全国どこでも満員札止めであったといいます。また、その後、パリ木の十字架少年合唱団をはじめヨーロッパを中心とする少年(少女)合唱団が来日するたびに、マスコミもこれを積極的にバックアップしました。

   名プロデューサーの存在


 昭和36年(1961年)に開始した「みんなのうた」昭和39年(1964年)に開始した「歌のメリーゴーランド」といった少年(少女)合唱をメインにした番組が毎日あるいは毎週全国放送されることによって、全国の歌の好きな少年たちは各地にある少年(少女)合唱団に入団していきました。毎週交替出演する東京放送児童合唱団や西六郷少年(少女)合唱団などの在京の合唱団は、一躍子どもたちのアイドルとなりました。さて、優れた番組には必ず優れた監督や製作者がいます。これらの番組の場合、プロデューサーであったNHKの後藤田純生こそがその人です。後藤田純生こそは、日本の少年(少女)合唱隆盛の恩人と呼ぶべき人でしょう。後藤田純生の功績は他にもあります。それは、いわゆるジュニアソングといわれるジャンルの子どもの歌を切り拓いたことです。その多くは外国曲に日本語の歌詞をつけるものでしたが、それまでの日本の子どもの歌は、童謡・唱歌か、テレビ・ラジオ番組の主題歌しかなく、非常に新鮮に感じたものです。
 同時期には、大人の合唱グループもこの時期に多く誕生し、男声ではダークダックス、ボニ−ジャックス、デュークエイセス、女声ではスリーグレイセスなどが活躍し、これらの男声合唱グループは紅白歌合戦にも連続出場していました。また、歌声喫茶が全国各地に開店し、若者が集まってロシア民謡等を歌うという姿もみられました。

   高度成長を支えた価値観


 さて、このように少年合唱が盛んになった時期は、ちょうど日本が戦後の復興期から高度成長期に入った頃です。この時期は政治的には冷戦構造の中、安全保障問題に関して国内では大きな思想的対立もありました。経済的にはまだ厳しい状況が続きましたが、子育てについては、正義や努力という価値が尊ばれ、また、食べ物を大切にする躾や子どもにはきちんとした服装をさせたいという親の願いなどはコンセンサスの得られた時期と言えましょう。全員がそれぞれの役割を果たしながら同じ方向に向かって努力するという高度成長を支えた価値観は、各パートが協力して1つの曲を創り上げていくという合唱を支える価値観とも合致していました。公害等の矛盾をはらみながらも高度成長がピークに達した1970年代の調査では、日本の子どもの社会的規範意識は世界の最高水準にありました。また、この1970年という年は日本の思想史にとって分水嶺ともなる年です。安保反対を叫ぶ左翼運動が挫折し始め、また反対に憲法改正を唱える三島由紀夫の割腹事件という衝撃的な事件が起きましたが、それまで有形無形に日本の教育や子育てを支えてきた儒教的倫理観が崩れ始めてきました。経済至上の考えが広がり、そのような日本人の姿をエコノミック・アニマルとさげすむ声も聞こえるようになってきました。
 さて、昭和40年代頃、ヨーロッパから来日した少年合唱団の半ズボンにハイソックスという制服は、そのまま日本の少年合唱団の制服にも取り入れられ、たちまち主流となりました。同時に、こういう服装は当時最もかっこいいよそ行き着(男の子の晴れ着)でもあったのです。子どもにはきちんとした服装をさせたいという親の願いは、このような形で実現していきました。

   「失われた20年」の中で


 それから30数年、日本は経済大国といわれた時から、バブル期を経て「失われた20年」と呼ばれる混迷の中であえいでいました。失われたのは経済的な面だけではありません。価値観の多様化という美名の下、何でもありの風潮が広がり、「悪いことは悪い。」という教育や躾を怠ってきた結果、日本の子どもの社会的規範意識は平成10年ごろの調査では世界の最低ランクにまで落ち込んでしまいました。正義を疎み、努力をあざ笑い、すぐに手に入るものを求め、今楽しかったらよいという社会的風潮が子どもの精神を汚染するようになってきました。「人に迷惑をかけなければ何をやってもかまわない。」という意識と行動は、人に迷惑をかけていても、そのことにさえ全く気付いていないという道徳的退廃をもたらしました。それは、いじめや学級崩壊ともつながっています。規範意識の低い子どもが、規範意識の高い子どもをいじめの標的にしている姿もあります。少年合唱の全盛期であった1970年代初頭、日本の子どもの規範意識は世界最高レベルであったというのに。この問題こそ教育改革の最優先課題にすべきでありましょう。
 服装についても崩壊現象が見られます。きちんとしたものを嫌ってわざと膝を破ったり、ズボンをずらしてわざとパンツを見せるようなだらしない着こなしをする若者文化が子どもにまで降りてきました。ストリートファッションと称し、スケートボードやバスケットボールに起源をもつダボダボのシャツ出し、ハーフパンツという下品極まりない服装が子供服の定番になってしまいました。だらしない着こなしをかっこいいと思うゆがんだ美意識さえ生まれました。これらは、経済的豊かさが生んだ貧困ではないかと思います。「シャツ出し、ハーフパンツ」は少年服の劣化の象徴であるとさえ思います。
 このような社会的風潮は、規律と気品を重んじ協力的態度をもつ少年を育てようとする少年合唱がめざしてきた世界とは根本的に相容れません。しかしながら、そのような社会の大きな流れの中で、少年合唱人口が減ってきたことは否めません。これらは、少年合唱人口減少の直接的な原因ではありませんが、間接的な原因になっていると考えられます。少年合唱を応援することは、ただ個人の音楽趣味にとどまらず、健全な少年文化を育成することにつながっています。

   
時代に媚びない強さを

 こんな時代だからこそ、時代の風潮に媚びてはなりません。美しいものを美しいと感じ、実践する子どもを育てていかなければならないと考えます。近年NHKの「プロジェクトX」という番組が脚光を浴びていました。夜の9時台の番組としては異例の高視聴率をあげていました。これは、日本が戦後立ち直っていく頃、1つの目的のためにみんなが協力してそれを成し遂げるという姿を描いた番組です。混迷の今こそ、こういう価値の尊さを再認識する必要がありましょう。祖国日本再生のためにも。

   
4 私は、なぜ、少年合唱が好きなんだろう

 私は、なぜ、少年合唱が好きなんだろう・・・。そんなことを自問自答することがあります。日本の少年合唱団に初めて接したのは、忘れもしません、平成10年12月23日のTOKYO−FM少年合唱団のクリスマスコンサートでした。「アマールと夜の訪問者」とクリスマスキャロルの演奏も素晴らしかったのですが、さらに感動したのは、舞台が終わった後、解散を前に集合した団員の少年たちの整然とした態度でした。山口先生の言葉が続きます。
「表舞台だけでなく、裏方があって成り立っていることを忘れないように。」
ここでは、こういう教育が行われているのか。
 その感動の冷めない翌年の1月、初詣がきっかけでボーイズ・エコー・宝塚に出会いました。そこには、いわゆる「月謝」もとらず、歌によって社会に奉仕することを理念とした中安先生・辻先生の姿がありました。宝塚から1歩も出ることがなかったため、対外的にはあまり知られることのなかった少年合唱団ですが、その理念には尊いものを感じました。また、団員の減少で苦しい運営をしている現状があることを知りました。
 今、日本の少年合唱団はどうなっているんだろう。そんな思いからウィーン少年合唱団と合同合宿・合同公演をしたという桃太郎少年合唱団の定期演奏会に行きました。そこでは、自分の合唱団の発展だけではなく数少なくなった日本の少年合唱団全体の発展を願う棚田団長先生との出会いがありました。さらに、その理念に共感して、熱い想いで指導に打ち込まれる広島少年合唱隊の登副隊長先生の姿が・・・広島少年合唱隊創立40周年を記念して委嘱されたと言う作品「君がいるから」を聴いたとき、身体が震えました。ほんものの歌を聴いた感動がそこにはありました。もう、こうなったら、音楽の素人である恥ずかしさなんか通り越して、ファンサイドから、危機的状況にある日本の少年合唱団を応援しよう。このまま放置したら、日本から少年合唱団が消滅してしまうかもしれない。そこには、今では忘れ去られたようなすばらしい教育が存在します。その活動を紹介することもまた、日本の教育再生にもつながるかもしれないと、想いは広がって行きました。その後、試行錯誤はありましたが、自分のホームページを作ることで、それは可能であるという結論に到達しました。
 さて、最近少年合唱の定番になっている歌に「ビリーブ」があります。この歌では、君がくじけそうになったり、誰かが泣き出しそうになったときは僕が支え、一緒に歩こうと歌われます。友情や共生のすばらしさを歌った名曲です。「このように生きたい」という憧れが清純なボーイ・ソプラノで歌われるとき、そこに美しい世界が現れます。この歌が美しく歌われるとき、歌とそれを歌う少年の人柄は重なって、その少年はそのような生き方をしている、あるいは、そのような生き方に憧れていると思わせます。それは、もしかしたら美しい錯覚なのかもしれませんが、ボーイ・ソプラノを聴く喜びがそこにあります。しかし、もし、舞台で美しい声で歌っている少年の生き方が、歌とは逆に舞台裏やふだんの生活でちゃらんぽらんだったとしたら、これほど興ざめのことはありません。これからも、舞台裏、ふだんの練習で輝く少年を応援していきたいと思います。
 ちょっと辛口発言になってしまいましたが、私のような少年合唱のファンは、ただ美しい声やうまい歌だけを求めているのではないのです。現在の日本では希少価値となってしまった時代に媚びない、だらしなさを毅然と拒否するような凛とした少年を求めているのです。それは、夢物語かもしれませんが、その夢をこれからも少年合唱の中に求め続けたいと思います。

5 芸術として・教育としての少年合唱

 少年合唱を聴く楽しみには、二通りあります。一つは、少年のわずかな時期だけに与えられたボーイ・ソプラノによって表現されるものを楽しむというもので、これを深く追求していくと芸術としての少年合唱を愛でることにつながります。もう一つは、合唱を通して人間として成長していく少年たちの姿を楽しむもので、これを深く追求していくと人間教育につながります。もしも、その両者が満たされた場合は最高の喜びです。
 海外から来日してその歌声を披露してくれる少年合唱団を楽しむ場合は、前者を期待しています。少年たちとの出会いは、文字通り一期一会ですから、素晴らしい歌声やハーモニーを聴くことができれば至福の時を過ごすことができます。しかし、そこでは、彼らの成長は問題にされません。ただ、出会ったそのとき、よい歌を聴かせてくれたかどうかだけが問題にされます。
 しかし、日本の少年合唱団を聴く楽しみは、それとは少し違っています。音楽的に優れているかどうかというだけでなく、少年の成長に寄り添ってその歌を楽しむことができます。ある少年合唱団の定期演奏会に毎年足を運ぶと、低学年の頃元気よさが持ち味だった少年が、高学年になって抒情的な歌を聴かせてくれたりしたときは、その少年の内面的な成長を伺うことができて本当に嬉しくなります。前年の定期演奏会(のどじまん大会)などで失敗した少年が、それをばねにして飛躍したりする場面に出会ったり、変声期という身体の変化と真剣に向き合いながら歌っている姿には感動を覚えます。そういう意味では、少年合唱団の定期演奏会は、芸術と教育が一体となった場なのです。
 ところが、芸術としてのコンサートにおいて、少年合唱やソリストが登場するときは、聴く耳はずっと厳しくなります。そこでは、「子どもだから」「かわいいから」という甘えは許されません。大人の演奏家と同じレベルで評価されます。そういう機会を与えられる少年は希でしょうが、その僥倖を生かして成長してほしいと願っています。
 ただ、日本における少年合唱ファンには、一部ではありますがいびつな側面があります。それは、純粋に芸術として少年合唱を愛好するのでもなく、また、少年の成長を見守るのでもなく、ヨーロッパから来た少年合唱団員を見た目がかわいいといって追いかけるアイドル志向のファンがいることです。こういうファンは概ね熱し易く冷め易いものです。スタートは「かわいい」でもよいと思いますが、そこでとどまらず鑑賞の質を高めてほしいと思います。
 少年合唱は品位を重んじる芸術であることを再認識したいものです。

6 少年合唱団と制服

 このようなところで、個人的な経験や想いを語るのは少しはばかられるのですが、かつて、私は制服が嫌いでした。私服の小学校から詰め襟制服の中学校に入って、そのきゅうくつさがいやでした。入学当時、身長も低く首が短かったから、詰め襟の制服が痛かったというのが最大の理由です。それは辛抱するとしても、制服が学校への誇りを持たせるものならよかったのですが、そうではなくはっきり言って生徒の「非行防止」の取り締まりの手段になっていたから嫌だったのです。戦後すぐの開校以来、生徒指導上の問題を頻繁に起こす経済的に貧しい地域の中学校としてはしかたがなかったのかもしれませんが、やがてそのような生徒の不満は、高校における左翼学生運動の私服化を求める動きとして爆発していきました。思想的に共鳴しない者でさえ、共感する部分はありました。
 ところが、一方、テレビの「歌のメリーゴーランド」に登場する少年(少女)合唱団の制服には、あこがれを感じていました。そのセンスのよさは、清純な歌声や団員の気品のある態度と結びついて違った制服に対するイメージを形成しました。この矛盾した制服に対する心理は、昭和30〜40年代に少年時代を迎えた人には程度の違いはあっても、見られるのではないでしょうか。
 少年合唱団の制服といえば、ウィーン少年合唱団のセーラー服が有名です。もともと海軍の水兵の服であったのが、ヨーロッパの上流階層の間で子供服として流行し、採り入れられたそうです。日本ではセーラー服は女子の制服というイメージが強いため、少年(少女)合唱団の制服になっているところは、ひばり児童合唱団や北九州少年合唱隊など限られています。また、半ズボンにハイソックスという衣装は、パリ木の十字架少年合唱団はじめヨーロッパの少年合唱団の制服としてかなり広く採り入れられていましたが、日本では少年合唱団の制服としてだけではなく、小学校の制服やよそ行きの私服として昭和45年頃から、平成の初めまで日本を席捲します。それは、高度経済成長の日本が経済的に豊かになる象徴のようでした。ところが、バブルが弾けた後の平成5年頃から、ストリートファッションと称し、スケートボードやバスケットボールに起源をもつダボダボのシャツ出し、ハーフパンツという下品極まりない服装が流行し、それが今では子供服の定番のようになってしまいました。また、それしか選択肢がないというひどい状況があります。実は、このころから日本の子どもの規範意識は地に墜ちはじめ、平均レベルにおいて今や世界の最低ランクになりつつあります。この二つの現象の間には相関関係があるのではないかと推測しています。
 しかし、それによって、少年合唱団の制服がよけいに輝きを増すという逆説的な状況が生まれてきました。かつては制服が嫌いだった私も、今では制服賛成に転向しました。だらしない今の少年服の流行が一日も早く衰退することを願っています。
 そこで、日本の少年合唱団の制服について調べてみましょう。なお、最近では平成16年11月の定期演奏会よりフレーベル少年合唱団の制服がリニューアルされました。また、平成19年10月の定期演奏会からは、広島少年合唱隊、平成24年には、TOKYO FM少年合唱団と呉少年合唱団の制服がリニューアルされました。全体的に見ると、半ズボンが衰退していることを感じます。この分野はさらに調べていくと、制服リニューアルの歴史に発展するかもしれません。
(間違っているところもあるかもしれません。ご指摘ください。)

      学年 帽子 上着 ネクタイ ズボン ソックス 聖衣
侍者服
栃木少年合唱団 小・中 赤ベレー帽 オレンジベスト 黒蝶ネクタイ 黒半ズボン
黒長ズボン(中)
白ハイソックス

  
TOKYO FM少年合唱団 なし 緑トレーナー(予科生)
灰色ベスト
(本科生)
なし
臙脂ネクタイ
紺半ズボン
黒半ズボン
白ハイソックス
黒ハイソックス
あり
暁星小学校聖歌隊 小3〜
小6
なし 黒詰襟
グレー半袖
なし
黒半ズボン
グレー半ズボン
黒ソックス
あり
フレーベル少年合唱団(旧) 幼・小・中 紺ベレー帽 青ブレザー なし グレー半ズボン 白ハイソックス    
フレーベル少年合唱団(新) 幼・小・中 紺ベレー帽
なし
紺ダブル

赤ブレザー
紺リボンタイ

黒蝶ネクタイ
紺半ズボン(幼小)
紺長ズボン(中)

黒長ズボン
黒ハイソックス      
立教小学校聖歌隊         グレー・ダブルの上着
白カッターシャツ
赤ネクタイ グレー半ズボン 紺ハイソックス あり
グロリア少年合唱団 幼・小・中・高 紺ベレー帽
(BCクラス)
白カッターシャツ
団Tシャツ(夏期)
グレーセーター(夏期以外)
臙脂ネクタイ 紺半ズボン
紺長ズボン(小4以上可)

各学校の制服ズボン(中・高)
白ハイソックス




あり
新潟少年合唱団 小・中      白カッターシャツ
白Vネックベスト
水色ネクタイ 黒長ズボン          
名古屋少年合唱団                 
京都市少年合唱団   みやこ光 小4〜中 なし 水色半袖
紺セーター(冬)
臙脂ネクタイ 黒長ズボン(中) 黒ソックス
   
和歌山児童合唱団  少年の部 小1〜
小4
なし 白カッターシャツ 紺蝶ネクタイ 紺半ズボン 白ソックス    
ボーイズ・エコー・宝塚 なし 赤ブレザー
Tシャツ
なし 白半ズボン 白ハイソックス    
桃太郎少年合唱団 小・中・高 なし 青ブレザー
白カッターシャツ
赤蝶ネクタイ 青半ズボン
黒長ズボン(中以上)
グレーハイソックス

   
広島少年合唱隊(旧) 小・中
白ベレー帽 グレーベスト
白カッターシャツ
紺ブレザー
(中以上)
緑ネクタイ
ループタイ

臙脂ネクタイ
(中以上)
グレー半ズボン
紺半ズボン

グレー長ズボン(中以上)
白ハイソックス
白ソックス


あり
広島少年合唱隊(新) 小・中
なし 水色カッターシャツ 緑ネクタイ 黒半ズボン(〜小3)
黒長ズボン
(小4〜)
黒ハイソックス(〜小3) あり
呉少年合唱団 小・中 白ベレー帽
(〜小3)

なし
(小4〜)
空色ベスト 白ブレザー

水色ブレザー
紺蝶ネクタイ

ストライブタイ
グレー半ズボン
(〜小3)
黒長ズボン
(小4〜)
白ハイソックス

黒ソックス


   
北九州少年合唱隊 小・中 セーラー帽 セーラー服 リボンネクタイ 紺長ズボン               

日本の少年合唱団の制服(代表的なもの) 夏服・冬服・聖衣・中学生以上の服などは以後追加して充実させます。


栃木少年合唱団(解散)  TOKYO FM少年合唱団
 
  暁星小学校聖歌隊        フレーベル少年合唱団
立教小学校聖歌隊 グロリア少年合唱団 新潟少年合唱団 京都市少年合唱団  みやこ光
和歌山児童合唱団  少年の部 ボーイズ・エコー・宝塚 桃太郎少年合唱団 広島少年合唱隊
呉少年合唱団 北九州少年合唱隊

制服のリニューアル
 少年合唱団の制服も時代と共に変遷しています。そのリニューアルの歴史もまたその時代を反映しています。それを、簡単に「よい」「悪い」と決めつけることはあえてしません。制服がかっこいいと感じることで入団したいと思う少年もいるでしょうし、その逆もあるでしょう。このホームページは、なによりも日本の少年合唱の振興を目的としています。そこで、ここでは好き嫌いや価値観を抜きにして、最近数年間の間で制服をリニューアルした少年合唱団の制服の変遷を紹介しましょう。どちらが美しいと感じるかは、訪問者の美意識にお任せましょう。

合唱団
 フレーベル少年合唱団
  広島少年合唱隊
   呉少年合唱団
 TOKYO FM 少年合唱団
      (予科・本科) 
   
   京都市少年合唱団
      (小学生)
   


7 メルカンティーニの魂を受け継いで

 ときどきメールで、
「館長さんは、日本のボーイ・ソプラノと少年合唱団だけに関心があって、海外の優れたボーイ・ソプラノや少年合唱団には、関心がないのですか?」
というお便りをいただきます。実は、この分野でもっとも信頼しているお一人のKiyoshiさんからも、常々外国の本格的なものを聴かないと耳が肥えないと助言を受けております。私は、外国の少年合唱団に関心がないのではなく、CDやビデオ・DVDも日本ものの2倍は持っており、日頃より愛聴しております。ただ、外国のソリストや少年合唱団のファンページは、私がやらなくても他にもありますし、今、祖国日本の少年合唱団の危機を知って何もやらないのでは、日本人として「義を見てせざるは、勇なきなり。」であると思って、あえて「日本」にこだわっているのです。「祖国」という美しい言葉さえも、今では死語になりつつあります。こんなことでよいのでしょうか。また、私は、ボーイ・ソプラノや少年合唱団を聞く喜びは、音楽性がすべてとは思っていません。合唱団の教育理念や団員の人間としての育ちを大切にしています。たとえ声がきれいで、歌がうまくても、歌う少年の態度が悪いのでは、真の感動を聴く人に与えることなどできないと思って、むしろ警告を発しています。ですから、私はこのホームページを「趣味」のホームページを超えて、「志」のホームページにしようと思っています。

 私のこのような想いは、少年時代に読んだイタリア統一にかかわる逸話が大きな感化を与えています。私は音楽の素人に過ぎず、合唱の指導はできませんが、メルカンティーニの気高い魂を受け継いで、これからもこのホームページを通して、日本の少年合唱団を支えていきます。

 「メルカンティーニ?」
ガリバルディは小首をかしげた。
「知らぬ。聞いたこともない名だ。」
「は、何でも詩人とかで、ぜひ閣下にお会いしたいと申して。」
「会ってみよう。とにかくこんな隠れ小屋までやって来てくれたのだから。」
ガリバルディは、オーストリア、フランスに敗れて、一日として安き日のないイタリアのために奮起したが利あらず、転々流浪の旅を続けて、カブリラの島にしのんでいた時のことである。召使いに導かれて、やがて一人のたくましい青年が現われた。メルカンティーニである。
「閣下、会っていただけなかったら、私はドアを破って入るつもりでした。」
この言葉は、さすがのガリバルディを驚かせたほど、烈々たる魂に燃えていた。
「用件を言いなさい。」
「私は祖国の堕落が、残念でならないのです。長い歴史に輝くバラタインの丘を、ダイバーの流れを、ふみにじられ、奴隷のように辱しめられても、だれ一人として祖国を救おうとする者はないではありませんか。」
彼は頬を伝わる涙を、ゴシゴシと腕でこすった。
「泣いても泣ききれない気持がしました。そこで、私は閣下のことを開きました。イタリアはよみがえる!はっきりと、そういう気がしました。私はだれよりも先に、閣下のもとにはせ参じようかと思いました。しかし・・・」
メルカンティーニはカなく、目を自分の右足に落としました。
「私は、脚が不自由で、走ることができないのです。」
 この時、ガリバルディは、胸をつらぬくようなものを、青年に感じました。
「それで、閣下、私の血と生命をかけて、一つの詩を書きました。閣下にそれをささげて、それが許されたら、進軍の歌として、すべての人に歌ってもらい、私の心も、ともに従軍させていただきたいのです!」
「聞こう! 読んでくれ給え!」
メルカンティーニは、胸を張り、声も高々と読みあげた。

 進め! 進め!
 墓はゆるぎ、死者は生きぬ
 古き勇者は立ち上がりぬ.
 腕に剣、胸に楯
 イタリアの誉をかがやかせ。
 いそげ! いそげ!
 若き男の児よ!
 征旗を風になびかせつつ
 起てよ起てよいざ進め!
 まもれイタリア、まもれ敵に
 まもれイタリア外敵に・・・

 詩は決して優れているとはいえない。しかし、何とはげしく魂をむちうつ言葉であろう。
「メルカンティーニ君!」
ガリバルディは立ち上がって、痛いほどメルカンティーニの手を握った。
「ありがとう!イタリアのすべての人が、今に歌ってくれるぞ。」
 ガリバルディのこの火のような言葉は、間もなく真実となった。やがて、クロルトの漁村を、ガリバルディを先頭に有名な「千人の志士」たちが船出した。行くことの出来ないメルカンティーニは、ただひとりさびしくなぎさに立って、このイタリアの新しい希望を見送った。その時、沖合の彼らの船から、強く、はげしく、はっきりと、海をひびきわたってくるものは、彼の国土にささげたあの愛国歌ではないか。感激が胸一ばいにせまって、ただ涙の出るにまかせる彼は、いつまでもいつまでも船の去った沖のかなたを見つめて、立ちつくしていた。

                                                       (出典 「例話大全集」 玉川大学出版部 より) 


8 少年少女合唱団における男子団員の減少

   日本に10ぐらいしか少年合唱団がない現状では、たとえ歌が好きでも少年合唱団に入団できる子どもは、地域的に限られています。例えば、北関東以北や大阪・神戸・福岡のような大都市にも、少年合唱団はありません。それでは、少年少女合唱団はどうかというと、桃太郎少年合唱団の調査によると20世紀末現在約1000団体あるそうです。それならば、一つの市に一団体ぐらい、大都市では数団体はあると考えてもよいでしょう。しかし、その実態は、少年少女合唱団とは名ばかりで、少年少女合唱団や少女合唱団がほとんどです。どうして、こんなことになってしまったのでしょうか。あるいは、いつ頃からこのようになってしまったのでしょうか。1990年代末、朝日新聞に次のような記事が掲載されていました。原因については、これまでに述べてきたこととほぼ一致します。取材は大阪が中心ですが、同じような傾向が全国的にあったのではないでしょうか。また、それは、多くの少年合唱団が人数的に苦しくなってきた時期とも重なります。従って、これは、合唱界全体の問題でもあるのです。そして、この問題は解決されないまま今日に至っています。

    男の子の声消え合唱団がピンチ

  「男の子や−い!」・・・各地の少年少女合唱団で、ボーイソプラノを受け持つ男の子の団員がここ数年で激減、団の存続もピンチとなって指導者たちが悲鳴を上げている。「少年」抜きの「少女合唱団」となってしまった所もあり、各合唱団とも市の広報紙やチラシを配って男の子集めに懸命だ。「塾通いなどで余裕がなくなったため」「合唱はサッカーや野球に比べてかっこよくない」などが原因らしいが、指導者らは「ボーイソプラノの美しさは女声では表現できない」と嘆いている。
 大坂府和泉市の「和泉市少年少女合唱団」はこのほど、紺成10周年の記念コンサートを開いたが、ステージには女の子43人だけで男子はゼロ。結成当初は男子が10人いたが、数年前から徐々に減り、2年前ゼロに。「一度ゼロになると、やろうという子はもう出て来ない」と団長の佐藤幸代さん。
 北摂の千里ニュータウン地区で83年に結成した「千里少年少女合唱団」も男子ゼロ。最後までいた2人が昨年、小学4年生で辞めた。
 高槻市少年少女合唱団では95人中、男子1人。国久昌弘団長は「できるだけ話相手になるようにしています」と気を使う。127人中、男の子14人もいる堺市少年少女合唱団では、入団テストの男子の評価基準はどうしても甘くなる、という。
 塾通いなどのほか、「欧州には少年による聖歌隊の伝統があるが、日本では少年合唱は根付かなかったのか」と分析は様々。音楽家によると、ボーイソプラノは音域の広さや透明感、よく通る声の質など、女子とは「異なる楽器にたとえられる」という。しかも声変わりするまでのわずかの期間だけだ。                 (朝日新聞より)

  ここで大切なポイントは、工夫と努力によって男子団員を確保しているという合唱団はないかということです。鎌田典三郎先生が指導されていた頃の西六郷少年少女合唱団では、男女比がほぼ1対1でしたし、京都市少年合唱団では現在約3分の1の70人を確保しています。むしろ、数年前より増えています。その原因を探ることも大切だと思います。

 (朝日新聞は、政治的にはかなり偏っていますが、少年合唱に関しては、好意的な傾向が見られます。これまで参照・引用した新聞記事のかなりの部分は朝日新聞です。)


9 上高田少年合唱団の歌が残したもの

 平成23(2011)年の大津市中学生いじめ自殺事件をきっかけとして、いじめ防止対策推進法が成立しましたが、相変わらず日本の大きな教育問題・社会問題であることは変わりません。ところで、平成6(1994)年にも、愛知県西尾市の中学生がいじめや恐喝を苦に自殺したという事件が大きく報道されました。これらの事件は、いじめを通り越して犯罪だと思いますが、そのいじめの中に、被害生徒の顔を川に突っ込むというものがありました。私はそれを知ったとき、実はテレビが子どもたちにいじめのヒントを与えているのではないかと感じました。その番組「スーパーJOCKEY」は、ビート・たけし主演のバラエティ番組で、ダチョウ倶楽部などのタレントを熱湯に入れて沈め、息をしようとするとまた沈めて、苦しんでいるのを見て楽しむという極めて悪趣味なものでした。こういう悪いモデルを日本中に放映していることこそが、犯罪的だと感じました。これは、決して視聴者が適切に判断すればよいといったものではありません。関係者は、この番組を多くの子どもが見ているということを考えていたでしょうか。

 そんなことを思うとき、上高田少年合唱団が昭和30年代から40年代にかけて歌ってきた子ども向けのテレビドラマやアニメの主題歌は、その対岸にあると感じます。いろんな主題歌の一節を思い出すままに列記してみましょう。

 僕等の知ってるあの人は みんなが苦しいときに来る (「アラーの使者」より)
 つらいときにも勇気を出して 正しいことをやり通す (「赤銅鈴之助」より)
 親に心配かけまいと あっという間の早変わり (「まぼろし探偵」より)
 まわれ矢車 僕等の上に 闇を断ち切る 光のごとく 悪を滅ぼす 正義の翼 (「矢車剣之助}より)
 ぼくらは進むぞ 宇宙の果てまで 強く正しい ぼくらの仲間 (「宇宙パトロール ホッパ」より」

 歌が、よきにつけ悪しきにつけ人の精神に感化を与えるということは、音楽にかかわる人が常に意識していなければならないことです。上高田少年合唱団は、硬質な声と詩を縁取るような力強い歌い方で、その番組を視聴する子どもたちの精神に正義感を育んでいきました。戦後、日本の教育音楽の世界では、歌詞よりも曲が優先される傾向があります。私は、それを否定しません。しかし、昭和30年代から40年代にかけては、テレビやラジオの子ども番組の主題歌が、学校における教育音楽を補完していたと言うこともできるのではないでしょうか。
 上高田少年合唱団の歌が聞こえていたのと同じ頃、もう一つ子どもたちの正義感を育てるものがありました。それは、力道山のプロレスでした。力道山はプロレスを通して「卑怯なことをしてはいけない」ということを子どもたちの心に植え付けてくれました。「卑怯」という言葉が、今の日本では死語になってしまいました。それがけんかやいじめを苛烈なものにしてしてしまったのではないでしょうか。かつてベストセラーになった藤原正彦の「国家の品格」でも、そのことが述べられています。「今、楽しかったらよい」という風潮が、著しく大人だけでなく子どもの精神を犯しています。

  さて、 「少年探偵団」(「怪人二十面相」)は、何度かラジオや映画・テレビでドラマ化されていますが、昭和30年代においてはその主題歌「少年探偵団の歌」や「少年探偵団」を上高田少年合唱団が歌っていました。(なお、後者はひばり児童合唱団も歌っています。)これらをYouTubeで聴き比べてください。上高田少年合唱団の歌には、ヨーロッパの聖歌的な響きはありませんが、戦前より引き継がれた日本の少年らしい凛としたものを感じます。ある意味では、その歌声は戦時歌謡にもつながるものかもしれません。なお、昭和50〜51年に放映された「BD7(Boy Detectives Seven)」となってくると、歌も「少年探偵団のうた 行くぞ!BD7 」(水木一郎、コロムビアゆりかご会、BD7)となり、ドラマも古い洋館づくりの建物の地下牢に閉じ込められる小林団長にドキドキしたオールドファンには、なんだか違うなあという感じがしました。
「少年探偵団の歌」 志村 透 作詞 鏑木 創 作曲  歌い出し  とどろく とどろく あの足音は
https://www.youtube.com/watch?v=Y-ea_gsvxzI
「少年探偵団」 檀上 文雄作詞  白木 義信作曲  歌い出し  ぼ・ぼ・ぼくらは少年探偵団
https://www.youtube.com/watch?v=PeEkNM06nvw
「行くぞ!BD7 」上原 正三 作詞 菊池 俊輔 作・編曲  歌い出し  みんなで みんなで みんなで進めば こわくはないさ
https://www.youtube.com/watch?v=OAeQMi7BS6w

  さて、上高田少年合唱団は、「芸名」でもあり、奥田政夫先生が転勤されてからも、その名前は継続されました。また、その母体となった中野区立上高田小学校は新井小学校と統合して、令和2(2020)年4月より令和小学校として新たに開校しました。上高田少年合唱団が復活することはないでしょうが、その歌が残したものについて、もう一度光を当ててみる必要があるのではないでしょうか。


10 追悼 浦池和彦先生

  高野敦先生からいただいた浦池和彦先生のご逝去を知らせるメールに私は言葉を失いました。まさか、そんなことがあってよいのか。私は、ホームページのトップに浦池先生がステージに復帰されることを書くことで、励まそうとしていたのに。そのとき、私の脳裏には、数年前NHKテレビで放映された西六郷少年少女合唱団の指導者 鎌田典三郎先生の闘病の姿が重ね合わせるように浮かんできました。5月3日の定期演奏会の指揮をすることを夢見ながら、その日を迎えることなく逝去された鎌田先生。12月2日(今日)の定期演奏会の指揮をすることを夢見ながら、その日を迎えることなくご逝去された浦池先生。
 私は、11月15日に浦池先生からメールを受け取っていました。そのメールの最後は、次のような言葉で締めくくられていました。

・・・ほんとうにもうめげてしまいそうですが、こんなことで負けてはいられない、またステージに立つんだという思いそれだけが支えになっています。あきらめず、1日でも長くいきていたいと思っています。定期でお会いしたいですね。

 それに対して、私のお返事ときたら、

・・・行きたいのですが、雨天でない限り、公務とバッティングしますので、行ける可能性はかなり低いと思います。でも、きっと、浦池先生の舞台姿を拝見したいと思っています。どうか、治療に専念されて、舞台に復帰されることを祈念しております。

 その後、21日消印の招待状まで届きました。
 こんなことになるのなら、嘘でもいいから、「行って浦池先生の舞台姿を応援します。」と、書いておけばよかった。きっと、私のメールを読んで元気をなくされたんじゃないかなあ。
 
 高野敦先生のメールによると、浦池先生はご病状が悪いことを知ってせめて最後に,と今週末の桃太郎少年合唱団第45回定期演奏会の愛唱曲ステージで「歌よありがとう」を指揮されたいと熱望され、棚田先生ともその方向で打ち合わせをされ、そのためのスーツも新調されていたということでした。ゲルハルト・ヒュッシュが、引退のステージで「楽に寄す」を歌ったように、浦池先生は、「歌よありがとう」を指揮したかったのですね。浦池先生は、今年私家盤のCDを作られました。「BEST SELECTION」と題された24曲の桃太郎少年合唱団を指揮された曲集です。私は、この文を書き終わったら、CDの浦池先生の指揮に合わせて、「歌よありがとう」を歌います。それが、せめてもの私ができる浦池先生への追悼。

 11 追悼 中安保美先生

 平成27年2月28日、私にとって大きな大きな支えとなって頂いていたボーイズ・エコー・宝塚の指導者 中安保美先生が89歳でお亡くなりになられました。最近体調がすぐれないことは存じておりましたが、再び指導されることを期して療養されておられました。

 音楽の素人にすぎない私が、このホームページを立ち上げたのも、厳しい状況の中で頑張るボーイズ・エコー・宝塚のような日本の少年合唱団を応援しようという志があったからです。ボーイズ・エコー・宝塚は、中安保美先生と辻潤子先生の奉仕によって成り立っていた少年合唱団です。ボーイズ・エコー・宝塚が創立された昭和59(1984)年は、既に日本においては、少年合唱団だけでなく児童合唱そのものが厳しい状況におかれていました。ボーイズ・エコー・宝塚も、人数的には創立数年後の45人をピークに人数的には厳しい時期もありましたが、そのたびにそれを乗り越え、宝塚の地からその歌声が絶えることはありませんでした。ステージで採り上げられる曲も、予習がなければわからないような難解な曲や前衛的な曲ではなく、誰もがすぐに親しめるような曲でステージを構成されていました。また、曲名は団員が紹介し、6年生には卒業独唱の機会を与えるなど、一人ひとりを活かすことを大切にしてこられました。常に客席の声を大切にし、次回のステージにその声を反映するという努力も続けてこられました。そういう意味で、ステージと客席の距離が日本で一番近い少年合唱団と言うこともできたでしょう。ボーイズ・エコー・宝塚においては、団の最高学年の児童が団長であり、中安先生と辻先生は一指導者という位置づけであったことも特筆できます。

 中安保美先生は、教職に就かれた頃は、日本における「児童発声」研究と実践の先駆者 品川三郎先生のもとで研鑽を積まれました。また、教職をご退職後、ボーイズ・エコー・宝塚の指導者としてその成果を発揮されただけではなく、宝塚ニューイヤーコンサートの代表として、あるいは、郷土芸能である千吉音頭子供会の指導者としても活躍されました。平成25年の第30回宝塚ニューイヤーコンサートでは、永年にわたり市民に対して音楽に親しむ機会を提供し、宝塚市の芸術文化の振興に大きく貢献されたことに対して宝塚市長より感謝状が贈られましたが、奉仕を通り越してそれこそ持ち出しで、ボーイズ・エコー・宝塚をここまで育て上げてこられ、千吉音頭を復興され、「音楽のまち 宝塚」の名を高められました。

 日本の少年合唱が盛んになる兆しが見えない中で、中安先生の想いを、しっかりと引き継ぎ、これからもホームページを続けていきたいと思います。
 安らかにお眠りくださいませ。本当にありがとうございました。

12 常滑少年合唱団の推移

 最近は、日本の少年合唱団解散や休団のニュースばかりで、それがこのホームページの更新意欲の低下にもつながっていたところ、愛知県常滑市で平成27(2015)年のクリスマスコンサート開催に向けた期間限定の少年合唱団員募集のニュースが入ってきました。募集人数は小学3〜6年生の30人で、最低開講人数は9人となっております。どれだけの希望者があるかはわかりませんが、多くの参加者があってして、クリスマスコンサートが成功すれば、将来、常滑に新たな少年合唱団が誕生する契機になるかもしれません。
 日本の少年合唱団の誕生は、このホームページ開設以来のことです。その後、団員は5名から10名へと増え、名称もボーイソプラノ合唱団となりましたが、指導者の転勤等により、令和元年女子も入れた児童合唱団となりました。

 13 名古屋少年合唱団の推移

 キンゴジュさんより、「愛知に新たな少年合唱団が誕生!」として、日進市の日進キリスト教会を練習会場に平成28(2016)年に誕生した「名古屋少年合唱団(Nagoya Boys Choir)」です。キンゴジュさんは、指導者のウィルソン先生に連絡をとり、練習を参加するだけでなく、平成29(2017)年7月2日に行われた、サマーコンサートに行って来られたようです。詳細は、キンゴジュさんのブログをご覧ください。なお、ウィルソン先生の帰国により、現在は休団中です。

http://ameblo.jp/gojurasu50/entry-12289557606.html


14 日本の児童合唱(少年合唱)の指導者たち

       @ 品川 三郎

  日本の児童合唱、とりわけ、少年の発声に関する指導の先駆者としては、品川三郎を挙げることができます。従来、歌は女の子の方が男の子よりうまいと考えられてきましたし、今でもそう思われている傾向がありますが、品川三郎は、昭和20年代から30年代にかけて、箕面町(市)立箕面小学校において、男子合唱クラブ「みのお少年合唱隊」を指導する中で、正しい発声法を指導すれば、、男の子の歌声(ボーイ・ソプラノ)は、女の子の歌声をしのぎ、芸術的にも高いものになることを証明していきました。
 それでは、品川三郎の少年の発声に関する基本理念とはどのようなものでしょうか。品川三郎の著書「児童発声」(1955)によると、次のようなものが大きな特色です。

 ・児童の発声は「頭声発声」でなければならない。
 ・量よりも質の美を第一義に考えて指導しなければならない。

 「みのお少年合唱隊」は現在は解散してありませんし、録音もほとんど残っていませんが、その指導の理念と方法は、品川三郎のもとでピアノ伴奏をしていた高弟の中安保美に伝えられ、中安保美が指導する「ボーイズ・エコー・宝塚」の歌声の中に聴くことができます。

   A 鎌田 典三郎

 
鎌田 典三郎は、「みんなのうた」や「「歌のメリーゴーランド」「歌はともだち」等のテレビ番組で「西六郷少年少女合唱団」を全国的に有名にした指導者ですが、何よりも東京都大田区立西六郷小学校に昭和26年以来36年間奉職し、その小学校を母体として日本有数の合唱団を育て上げたところにその偉業を感じます。鎌田典三郎が奉職した頃の西六郷小学校は、戦災の焼け跡が残る東京の町工場が多い下町で、音楽的文化がある地域とは言えないところでした。鎌田典三郎は、ウィーン少年合唱団の演奏に接して、独学で発声や指揮を研究し、少年たちに伝授するという今から考えれば驚くべき指導法でこの合唱団を育てていきました。最初にめざしていたのはボーイ・ソプラノによる少年合唱で、昭和30年に西六郷少年合唱団が誕生しています。その後、昭和33年からTBS全国子ども音楽コンクール合唱の部で6年連続日本一に輝くなど、常に日本の児童合唱の先頭を走ってきました。昭和36年には女子も加え、西六郷少年少女合唱団となりましたが、男子と女子の比率は常にほぼ1対1ということも特筆されます。平成11年鎌田典三郎の逝去後、西六郷少年少女合唱団は解散しましたが、すぐに後継者によって再結成され、今日に至っています。
 
鎌田 典三郎の人と教育は、尾見敦子著の「西六郷に歌声ひびけ 鎌田典三郎の合唱教育」(1987)に詳しく述べられています。ところで、鎌田典三郎の「子どもたちに求めたい声」は、次のようです。

  ・澄んでいて明るい声
  ・素直で柔らかい声
  ・生き生きとしてつやのある声
  ・ひびきのある声
  ・低音域を,どならない声
  ・高音域が楽に出せる声
  ・曲の感じを,充分に表現できる声


 また、鎌田典三郎の逝去後二つの映像作品が公開されました。一つは「ぼくらの町は川っぷち 鎌田典三郎先生と西六郷少年少女合唱団」というビデオ記録映画で、文化映画を制作している東京シネ・ビデオから発売されています。もう一つは、NHKで放映されたドキュメントにっぽん「最後の演奏会」末期がんの恩師に贈る日本一の歌声 西六郷少年少女合唱団」。児童合唱ファンはかなり見られたのではないかと思います。この作品は、病床の鎌田先生と教え子達の心の交流を中心に、最後の演奏会までの記録が克明に記録されていました。鎌田先生がウィーン少年合唱団に憧れて独学で音楽を学ばれ、決して音楽環境に恵まれているとは言えない一つの小学校を母体にした合唱団をここまでの水準に引き上げた功績もさることながら、厳しいスパルタ教育をしたにもかかわらず、子ども達の心に永久に消えない美しいものを残した精神的遺産はさらに大きいと思います。
追悼演奏会になった最後の定期演奏会での「ぼくらの町は川っぷち」は感動的でした。
 さて、番組の中で、高野政次さんという名前を聞いたとき、「白馬童子」の主題歌を歌った人だという記憶がよみがえりました。高野さんも西六郷少年少女合唱団で鎌田先生に育てられた人です。その後20年間クラブなどで歌う歌手をしていたとか、人の出会いの大きさを感じます。お見舞いに行った高野さんと鎌田先生の会話を聞いて、義務教育の先生と教え子の関係は、信頼で結ばれている限り、いくつになっても変わらないのではないかなどと思いました。高野さん、泣きながら「ぼくらの町は川っぷち」を歌っていました。

 鎌田典三郎の追悼としては、指導ビデオも発売されています。そのビデオを入手したときのことを私は、某ホームページの掲示板に次のように書き込んでいます。そのときの熱気を再現するために、やや異質ですが原文を掲載します。

 ついに、手に入れました。ビデオ「鎌田典三郎と西六郷の歌声」ー永遠に美しい響きを求めてー 鎌田先生追悼のビデオで限定1200本ということだそうです。音楽の友社発行で番号はOV−8390です。ほしい方は早い目にご注文を。
 1988年第3回小学校合唱指導セミナーにおける演奏からと言うことで、鎌田先生がお元気だった頃の姿に会えます。子ども達もおなじみの上品な制服姿で・・・
 曲目は「赤とんぼ」「夕やけこやけ」「森の夜明け」「魔法の笛」「ほたるこい」「谷茶前ぬ浜」「森の冬」「祭りと花と娘」「清らに星澄む今宵」「美しく青きドナウ」「モルゲンレーテ」「ジプシーがチーズを食べる」となかなかいい選曲です。これで「僕らの町は川っぷち」があれば、なんて贅沢ですね。「赤とんぼ」「夕やけこやけ」はVBCと「ほたるこい」「清らに星澄む今宵」はTFBCと聴き比べできます。こういう楽しみも発見しました。VBCやTFBCなら、ソロも楽しめそうだとか・・・
 でも、西六郷は「みんなの歌」「歌のメリーゴーランド」以来の長いお付き合いですからね。鎌田先生に教えていただいたら、もっと歌がうまくなったんじゃないかと言う想いは今でもあります。全国の少年達の憧れを育てた鎌田先生は素晴らしい方です。
 今、合唱そのものが以前と比べて低調なのは、はっきり言ってテレビをはじめとするマスコミが取り上げないからです。せめてNHKは、もっといいものを子どもに与えてください。また過激な発言になってきたので、今日はここまで。

        
B 川上 彌榮子

  川上彌榮子は、東京都の各地の小学校で優れた音楽教育の指導を行ってきましたが、NHK全国学校音楽コンクール小学校の部で台東区立金竜小学校を昭和58・59年度の2年連続金賞に導いたことで、全国的に名を知られるようになりました。自然で伸びやかであると同時に、ドラマを感じさせる表情のある歌声が特色です。また、歌う児童の表情が大変美しいので、鑑賞して幸せな気持ちになってきます。その理想の歌声は、次の12項目にまとめることができます。

1 歌いやすい声 話し声もいい声にして
2 高い音も低い音も出しやすい声 響きを変えないで
3 共鳴した声 からだに響く声
4 ハーモニーする声
5 曲にふさわしい声 遊び歌とは異なる
6 子供らしく明るい声,軽い声
7 からだで歌う声 正しい姿勢からでる声 全身を使った声
8 声帯や胸などが疲れない歌い方の声
9 歌って満足感を覚える声 わめいてでなく
10 聴く人を疲れさせない声
11 聴く人に心地よい響き,心や耳に残る歌声 音楽性を求めて
12 みんなの声に溶け合う声 伴奏と合っている声

      C 渡辺 陸雄


  渡辺陸雄は、品川区立第三日野小学校・大田区立田園調布小学校・豊島区立目白小学校・豊島区立仰高小学校で、音楽教師として、日々の音楽授業を充実させるだけでなく、合唱部を育成し、昭和30年代は各種の合唱コンクールで何度も優勝をもたらしたという成果をあげました。その後は、「授業にすぐ使えるやさしい指揮法「『声権』を尊重した歌唱指導」「CDブック 低学年からの歌唱指導等の著書あるいは指導した録画・録音を通して、児童合唱のメソッドの普及させたという点で大きな功績があります。自伝「型破りの履歴書―山猿が賭けたコーラス人生」は、その人生遍歴が描かれています。その指導方法を一言で述べると、「子供それぞれの音域に合った、もっとも出しやすい声を共鳴点に当てて、美しい声を発見して歌う。」ことに尽きるでしょう。

      
 D 小川 俊彦

 小川俊彦は、長年愛媛大学教育学部附属小学校で教鞭を執っていましたが、その間何度もNHK全国学校音楽コンクール小学校の部で同校合唱部を全国優勝(金賞)に導いています。また、最近まで松山少年少女合唱団の指導者として活躍していました。小川俊彦の指導理念は、「いい顔、いい声、いい心」  という言葉によって現されるように、歌声を通しての人づくりにまで高められています。愛媛大学教育学部附属小学校の合唱部が全盛期を迎えた昭和の終わりから平成の初め頃、この言葉は、かなり全国的に広がりました。
      

        
E 蓮沼 勇一

  平成29(2017)年3月まで40年の長きにわたって暁星小学校の音楽教師として、また、暁星小学校聖歌隊の指導者として、活躍された蓮沼勇一の業績は、NHK全国音楽コンクールにおいて全国大会に出場した5年間で金賞4回銀賞1回という輝かしい成績にも表れていますが、実際の指導法としては、ビデオやDVDを通して、全国の音楽教育、とりわけ合唱指導者に多くの指導上の示唆を与えてきました。その歌声は、イギリスの聖歌隊の音色に近い透明度の高いものです。また、音楽教師としての集大成としての著書「白ひげ先生の心に響く歌唱指導の言葉がけ」は、蓮沼の歌唱指導の在り方を文章化しただけにとどまらず、一冊全体が人間形成・人間教育のための本に感じられました。この著は、大きく、気持ちづくりの章、声づくりの章、曲づくりの章からなっていますが、どの章でも日頃の児童への言葉掛けや、その指導を支える理念のようなものが、強く感じられ、何によって人は育つのかということを考えさせます。また、終章は合唱や音楽を通して学べることや教師の在り方にまでふれられています。
   

 15 ソプラノ♪7ボーイズの誕生に想う

  ソプラノ♪7(セヴン)ボーイズは、平成30(2018 )年 10 月に結成。ミュージカル劇団あるいは児童劇団所属の少年を中心に、すずかけ児童合唱団や(無所属の歌の得意な少年もいるかもしれません)「ボーイソプラノ男子たちが発信する、美しく元気な日本。」という国民的な理念を前面に立てているところがかえって斬新です。平成31(2019)年4月より本格的に活動を開始しましたが、これまでの少年合唱団にはない要素をもっています。
 ステージの同じ位置に同じ児童がいて、直立不動の姿勢で声をそろえて歌うのは、「みんなのうた」が始まった頃は、それ自体が新鮮であり、それでよかったでしょうが、物心ついたころからテレビ等を通して多くのエンターテインメントに接してきた現代の子どもがそのような姿に魅力を感じるでしょうか。
 どのような分野にも言えることですが、音楽においても不易なものを大切にすると同時に、時代が求めるものをアレンジしていくことこともまた大切です。ソプラノ♪7ボーイズは、まだマスコミにはあまり採り上げられてはいないようですが、動きのある童謡・唱歌は、独唱と共に、日本の少年合唱の新しい道を拓く可能性は大いにあると思っています。なお、ソプラノ♪7ボーイズは、いったんステージに上がれば、きちんとしたステージマナーで演奏しています。


 16 日本の少年合唱復興のために

      
カラオケの発達と合唱の衰退
   最近、カラオケの発達と合唱(少年合唱に限らず)の衰退・高齢化は、密接な関係があるのではないかと考えるようになってきました。それは、少年合唱団の衰退並びに観客の高齢化とも関連しています。日本において、合唱が盛んだった戦後から1960年代にかけて、少年少女や若者がみんなで歌って楽しむためには、通学している学校や地域の合唱部(団)に入るか、思想的に偏りはあっても、歌声喫茶に通うのが一番身近な方法でした。ところが、1970年代以降カラオケが発達して、自分が好きな歌を一人で歌い、あるいは気の合った数人の仲間とカラオケに行くことでそれは満たされるようになってきました。このような社会的変化が合唱という文化の衰退にも大きな影響をもたらすようになったのではないかと考えています。合唱の楽しさをよく知っている現在「高齢者」と呼ばれるようになってきた世代が、親世代になった頃は、自分の子どもにその楽しさを伝えるために、自分の子どもが地域の児童(少年)合唱団に入ることを勧めてきました。ところが、核家族化の進行で、三世代同居が少なくなり、孫の教育にまで口出ししにくくなってきた祖父母が孫に地域の児童(少年)合唱団に入ることを勧めることは、次第に「越権行為」のようになってきました。テレビを中心としたマスコミも、視聴率を稼げないそのような児童合唱番組を放映しなくなりました。少年合唱の衰退は、喜ばしくないのですが、そのような社会学的な見地からも考察する必要がありそうです。一方、楽器も手に入れやすくなったことで、各種軽音楽のバンドを組む若者も増えてきました。
 また、テレビの音楽番組で合唱(コーラスグループ)を観る機会も少なくなってきました。合唱が盛んだった時期には、男声合唱団では、大学のグリークラブ出身のダーク・ダックスやボニー・ジャックス、ジャズ系も加わっていたデューク・エイセスが大活躍していました。また、女声合唱団でもスリー・グレイセスがあり、これらの団体は、紅白歌合戦にも出演するほどの人気がありました。これらのグループも、主たるメンバー80代となり、ボニー・ジャックスのように亡くなったメンバーの代わりに新たなメンバーを入れて活動しているところもありますが、デューク・エイセスのように解散したところもあります。ダーク・ダックスは、4名のうち3名のメンバーが亡くなり、ダークダックスのゾウさん&しゅうさえこにより年1回コンサートを再開したところです。現在では、FORESTA(フォレスタ)のような混声合唱団(男声だけで活動することもあり)や、ザ・レジェンド(THE LEGEND) のような男声合唱団があり、このような団体は、大学で本格的に声楽を学んだメンバーによるグループなのですが、コンサート活動はしていますが、マスコミへの登場は、BS番組など限られています。


   合唱コンクールから見た日本の児童合唱
 
それでは日本の合唱、とりわけ児童合唱のレベルは、どのようでしょうか。はっきり言って、現在の日本の児童合唱のレベルは決して低いわけではありません。むしろ、一部の学校の合唱部は非常に高い水準にあります。それは、毎年10月に行われているNHK全国学校音楽コンクールの全国代表校の演奏を視聴してみればわかることです。しかし、全国の出場校数を見ても、少子化の影響だけでなく、多くの地域において児童(特に男子)が合唱に興味を示すことが少なく、いわゆる児童の合唱人口そのものが次第に減っていることを感じます。また、コンクールの出場校は、地域差はあるものの、最近では日本全体からすれば、わずか5%未満の小学校です。また、指導力のある音楽専科の先生がある一つの小学校にいる間は出場しても、その先生が転勤したり退職したりすれば、その学校名を全く聞かなくなることはよくあることです。
 
さて、私立の小学校には生涯をその一校に捧げるケースもあるかもしれません。暁星小学校の蓮沼勇一先生は、40年間にわたって同校に勤務され、暁星小学校聖歌隊を育て上げられました。しかし、公立小学校において、大田区立西六郷小学校の鎌田典三郎先生のように、一校に勤め続けることは、現代においては、まずありえないことです。また、NHK全国学校音楽コンクールの近畿地区代表を見ると、よく出場する神戸市立○○小学校という学校名は変わっても、指導者は、常に室屋尚子先生であることを知ったとき、合唱の優秀校は指導者によって決まるのではないかと思えます。最近、小学校の部においては、東京都日野市立七生緑小学校が現在7年連続金賞を受賞していますが、これは、同校の後藤朋子先生が非常に高い意識と指導力をもって指導されているからであって、異動された後どうなるかはわかりません。結局、指導力のある先生の異動と共に、その学校の合唱部は盛衰するのが現状です。七生緑小学校の前は、目黒区立大岡山小学校が5年連続金賞でしたが、その指導者は、丸山久代先生でした。当時の大岡山小学校は、男子率が2割以上と高く、響きも金属的な輝きがありすばらしかったです。丸山先生はその後、目黒区立油面小学校、今は港区立白金小学校で全国大会に出場し、一昨年も去年も惜しくも銀賞でした。一方、極端な例ですが、学級経営がうまく機能しないような学級では、日々の音楽授業さえ成り立ちにくいところもあるというのが実態です。このような学級においては、他の教科・領域においても同じです。
 
なお、今後、教員の働き方改革が進めば、朝練習や放課後練習や長期休業中の練習も削られていく方向に進むことでしょう。

   「合唱衰退」の原因を探る
  
合唱、とりわけ少年合唱の魅力については、これまでにいろいろな角度から書き続けてきました。しかし、この節ではあえて、日本において合唱という文化が衰退してきた原因とその対応について述べていきたいと思います。私のかつての職場の同僚で、定年退職後の現在も合唱を続けている人もいますが、合唱文化がが衰退していることや、合唱人口が高齢化していることを憂いていました。そこで、その原因を探るため、「合唱 衰退」というキーワードで、インターネットを検索すると、いろいろな意見が書かれており、その中には共通しているものや、なるほどその通りだと思う意見も多くあります。それらをまとめてみると次のようになります。
@ 音楽を表現する媒体として、合唱以外のものが増えたこと(バンドがやりやすくなった。簡単にカラオケに行ける。一緒に音楽をやるよりも、一人で出て目立ったほうが嬉しいという子どもが多いのではないか。)
A 合唱は、指揮者が立つ位置だと、そのグルーブの響きや成長がダイレクトに伝わるが、歌っている本人には、そのバランスもニュアンスもわかりにくいし、少しぐらいサボっていても、全力で頑張っても、個人で評価してもらえることはめったにない。
B 合唱として周囲と声を合わせたり、良い声を獲得するまでには時間がかかるうえに、その成長を自分で実感しにくい。
C 合唱は、それが好きな一部の人だけのものと思われていて、それ以外の一般の人たちにはハードルが高い。(この背景には、クラシック音楽そのものが、日本において絶滅危惧種化していることがある。)
D 外国語の曲はもちろん、日本語の合唱曲であっても、日本語が聞き取れないことがよくあり、何を歌っているのかわからない。
 これらの意見は、主として高校生・大学生のクラブや大人の合唱団について述べられていますが、児童合唱、少年合唱についても当てはまることもあるでしょう。日本においては、伝統的に教会による聖歌隊の文化がありません。児童合唱団は、生涯教育の一環として放課後あるい休日の有効活用や、いわゆる“ ならいごと”の一つとして行われているケースがほとんどです。また、日本の児童合唱団の場合、名前は少年少女合唱団であっても、男子率は1割が平均的な数値で、2割以上いるところはむしろ少数派です。それどころか、男子ゼロのところもあるのが実態です。かつて男子がいたことのある少年少女合唱団でも、いったん男子ゼロになると、男子が一人だけでは入団しにくい雰囲気も出てくるでしょう。ところで、少年合唱団の場合は、どうでしょうか。ウィーン少年合唱団の来日を契機に昭和35〜45(1960〜1970)年前後に誕生した少年合唱団は、選抜試験をしなければならないほど入団希望者が多かったところもあったそうですが、男子は変声期を迎えると卒団・退団するため、在団期間が短いことや、一過性の「少年合唱ブーム」が去った後は、解散したり、少女を入れて、少年少女合唱団になったところが多くあります。従って、昭和の終わり頃以後に誕生した少年合唱団は、そのほとんどが、人数的には誕生以来苦しいことの連続であったことでしょう。また、日本において、ウィーン少年合唱団が青少年にクラシック音楽への門戸を開いたのは、約半世紀前あるいはそれ以前のことで、最近では、そのコンサートの観客の高齢化が気になるところです。
 これは、小学生の好きな教科・嫌いな教科の研究から類推することができます。古くは、神戸大学の富本佳郎(1970)の「興味態度における性差」(津留宏編 性差心理学)において、音楽科の好き嫌いに男女差(女子の方が好意度が高い)があることが述べられていますが、大阪大学人間科学部の柏原惠龍が、昭和60(1985)に調査した「小学生の各教科への好意度とその性差」では、大阪市近郊都市部における公立小学校6校から、各々2年から6年までの各1学級(約200人台前半)を対象に教科の好き嫌い調査したところ、もっとも顕著な性差がみられたのは音楽であり、2年生から6年生まで一貫して女子の好意度が男子の好意度に比べて高い傾向が見られました。柏原は、この男女差の拡大の原因として、本調査の対象児が地域的にみて近郊都市部の児童であったこと、この10年間の経済文化的な水準の上昇等によって音楽的環境が豊かになったことなどを考察しています。しかし、これも女子に特異的に働いていること、男子と比べて女子の優位な傾向は2年生から他の学年と同じ水準でみられていることから、音楽に対する好意度の男女差の起源は就学前にさかのぼるものと考えられます。楽器等音楽に関する“ ならいごと”の機会は幼児期から女子に多く,音楽への関心は女子の方が高まりやすい文化的な背景がありますが、それを受け入れやすい行動的,感覚的特性の分析も必要ではないかと思われる。と述べています。最近では、学研が令和元(2019)年8月に全国の小学1〜6年生の各学年で男子100人と女子100人の計200人、6学年の総合計1200人に好きな教科を尋ねたところ、学年差はあるもの平均すれば男子2.7%(0%〜5.0%)女子14.0%(9.0%〜19.0%)、嫌いな教科では男子3.5%(0%〜7.0%)女子1.3%(0%〜2.0%)と大きな性差が見られます。この調査は毎年行われていますが、この傾向は、継続的に見られます。この小学校における教科における好き嫌いの性差が、児童合唱団・少年合唱団の男女比の大きな差にも反映していると考えられます。

      
日本の少年合唱復興のために今すぐ取り組めること
  それならば、現代において、日本の少年合唱の復興をさせるために試みるべきことは何でしょうか。それは、団(隊)員(以後「団員」と表記)獲得と観客獲得の両面から考える必要があります。先ず、団員確保のためは、その団の練習会場に通うことができる地域の子どもを集める必要がありますので、指導者がその地域の小学校の教員とよい人間関係をつくることや、団員の保護者の人間関係による口コミの力が大きいと考えられます。かつてある少年合唱団員になるために新幹線に乗って練習会場に通う団員もいましたが、それは結局長続きしませんでした。また、団員獲得と観客獲得には、重なりもあって、企業においてマーケット・リサーチをするのと同様に、主として、小・中学生が歌いたい曲、あるいは視聴したい歌は何かを探るところから始めるべきではないでしょうか。よくコンサート会場でもプログラムの中にアンケート用紙と簡易鉛筆を入れて、アンケートをとっていますが、回答する時間も特に設けられているわけではないので、回答する人は観客のうち限られた少数者でありましょう。演奏終了後、
「これは、団員の励みにもなり、次回のコンサートをよりよいものにするためのヒントにもなりますので、どうぞ、アンケートにご協力ください。」
というアナウンスぐらいあってもよいと思います。また、質問項目は、その日の演奏の感想を問うだけでなく、その合唱団に「歌ってほしい曲」を問う必要もありそうです。それを通して、観客のニーズを吸収することが大切です。また、団員にも、参考的に「歌いたい歌」を尋ねる必要もあるかもしれません。(たとえ尋ねても、今流行している歌しか出てこない可能性もありますが)また、指導者は、常にボーイ・ソプラノの声質を生かす曲を探すことはもちろんですが、少なくとも、音楽のレベルが高いからという理由で、観客はもちろん、団員にとっても耳慣れない難解な音楽を実験的に演奏させることや、指導者の好みだけによってプログラムの選曲をしたのでは、団員には、歌わされ感だけが残り、いわゆる関係者以外の幅広い観客を獲得できないと思います。(ただし、グロリア少年合唱団のように創立以来長年にわたって宗教音楽をメインにして積み上げてきた合唱団においては、固定した観客もそれを期待していますから、それは必ず残すべきだと思います。)また、演奏時間が長く、声の重なりのために何を歌っているのかよくわからない合唱組曲のように、一部の合唱ファンにしか評価されない曲を演奏することは、観客を飽きさせる一因になっています。児童合唱の場合、演奏時間が20分程度の合唱組曲が適切な長さで、30分を超えるような曲は、抜粋のほうがよいかもしれません。(なお、合唱組曲の中の有名な最終曲「ぼくらの町は川っぷち」や「一千億の夢」や「ひろい世界へ」を単独で歌うことには賛成します。)むしろ、プログラムに観客にも耳慣れた誰もが知っている曲(愛唱歌)、あるいは初めて聴いても親しめる曲、言い換えれば「予習のいらない曲」の比率を高め、それらを清純な響きで美しく、あるいは楽しそうに歌うことで少年合唱の魅力を再認識させることこそが基本だと思います。一例を挙げれば、昨年の紅白歌合戦で創唱者の竹内まりあによって歌われ、再ヒットした「いのちの歌」のような歌も、少年の清純な声によって歌われることによって、音楽の素養があるなしにかかわらず、あらゆる世代の人に共感的に受け止められるのではないでしょうか。そのような意味で選曲は大きな要素です。以前、ある少年合唱団のコンサートレポートに書いたことを再度繰り返します。私は、少年合唱団だからこそできる愛唱歌のステージがほしいのです。例えば、「赤いやねの家」「小さな木の実」「グリーングリーン」「遥かな友に」「海のマーチ」「わんぱくマーチ」「ストドラ・パンパ」「北風小僧の寒太郎」といわゆる少年が主人公の歌ばかりを並べて1ステージやってみたらどうでしょう。前半の4曲は抒情的な歌、後半の4曲は活力のある歌です。そこには少年らしい清冽さと元気さが共存するのではないでしょうか。
  日本には、現在活動している少年合唱団は8団体(学校の聖歌隊は、学校の教育活動の一環としておこなっているので、あえて少年合唱団としては数えない)しかないので、その地域に住んでいない人にとっては、なかなか鑑賞する機会もないというのが実態です。たとえ一部であっても定期演奏会等のYouTube公開という広報活動は、その地域だけでなく、広く日本中あるいは世界にも知らせ、次回の観客につなげるという意味では、意義のあることです。さらに、ピアノの位置については、練習においては真ん中において団員がそれを囲む方が、音を採りやすいでしょうが、コンサートでは、団員をメインにして、観客目線に立って鑑賞できるようにし、ピアノはステージ下手に置くべきです。
 さらに、2パート以上に分かれてハーモニーをつくることが「合唱団」の基礎・基本ではありますが、ソリストを育てることや、ステージにある程度の動きを入れることも必要です。日本の少年合唱団において、ソリストの育成に真剣に取り組んだのは、かつてのビクター少年合唱隊のように極めて少数です。ソリストを育てることは、頂点を高くすることで裾野を広げることにもつながりますし、むしろ、数人のソリストだけのステージがあってもよいと思います。とりわけ、ソロ曲では、歌詞を明確に歌うことが求められます。また、いつもステージの同じ位置に同じ団員が立っていて、直立不動で歌っているのでは、何よりも観る側が飽きてくるでしょう。いくつかのステージによって構成される90〜120分の定期演奏会と、限られた数分〜10分程度の間で課題曲と自由曲を歌う各種の合唱コンクールに出演するのでは違います。動きについては、もともと、エンターテインメントの本場であるアメリカの少年合唱団のコンサートにはそのような要素がありましたが、ウィーン少年合唱団はじめ、海外に演奏旅行するような海外の少年合唱団も、最近では時代の変化を読んで、エンターテインメントの要素を取り入れたステージを展開するようになってきています。なお、聖歌隊の場合は、本来宗教曲を歌うための団体なのですし、観客もその意識をもって来場しますから、歌に変化をもたせる工夫は必要でしょうが、特に動きを入れる必要はないでしょう。
 日本においてもミュージカルに取り組んだ団体はもとより、動きを大事にしてきた団体はありますが、さらに、ダイナミックにその先取りをしたのが、かつては、ビッグ・マンモスであり、現代ではソプラノ♪7ボーイズでありましょう。さらに、歌う時の表情は、基本的には「楽しそうに」歌うことが大切です。せめて愛唱歌は、楽譜を持たないで歌ってほしいものです。楽譜を見ると視線が下がり、無表情あるいはつまらなそうな表情になり、声が前に出ません。もちろん、人の死を悼む「レクイエム」を楽しそうに歌ってはいけませんが。
   以上のように、日本の少年合唱の復興をさせるため、その方法も含めたことをあえて提言いたします。

 17 児童合唱を主とした番組が果たした役割

   
『みんなのうた』誕生の社会的背景

  『みんなのうた』はNHKがテレビとラジオで昭和36(1961)年4月3日に放送開始放送している5分間の長寿音楽番組です。まず、この番組誕生の背景からお話ししましょう。この番組が誕生する昭和30年代は、高度経済成長期でテレビが普及し、流行歌が次々に誕生し、「歌謡曲の黄金時代」といわれています。ところが、それは、当然のことながら子どもにも影響を与え、子どものために作られた「童謡・唱歌」よりも、ラジオやテレビより流れてくる流行歌に関心を持ち歌う子どもが増えてきました。当時のNHKのプロデューサーであった関山幹人は、「子どもたちが口にするのは、美しく健康的な歌詞とメロディーのうたであってほしいという思いから、『みんなのうた』は誕生しました」と、語っています。基本的に5分の放送枠で2分強の曲(オリジナル曲、または『みんなのうた』用に編集された既存の曲)を2曲放送するというパターンでしたが、「おお牧場はみどり」「歌声ひびけば」といった曲は、2か月にわたって児童合唱団の二部や三部の合唱、オーケストラの伴奏で、毎日流れてきました。これらの曲の多くは小学校高学年や中学生を対象とする歌が中心で、その特徴は、@独唱よりも児童合唱が多いこと。A外国の民謡のような歌が多いこと。Bいわゆる「名曲」ではなく、キャンプソングのような、野外で歩きながら、あるいは集って歌うと似合うような歌がその特徴でした。
  ちょうどその時代は、日本の児童合唱団が、生まれ育ち始めた頃とも一致します。それまでにも童謡歌手と一緒に、童謡を斉唱する合唱団(斉唱団)はありましたが、この時期に誕生した合唱団は、何よりも、それまでの童謡とは発声も違うし、合唱が主体です。オブリガートの入った歌(「山こそわが家」「歌声ひびけば」「ゆかいに歩けば」)など、当時の子どもはもちろん大人もおそらくそのような歌を初めて聴いたのではないでしょうか。また、曜日ごとの変わる曲は、子ども向きの歌を、少年(児童)合唱団だけでなく、大人の歌手やコーラスグループが歌うことが多かったですが、当時としては珍しいアニメの背景とあいまって、子どもの人気を集めました。学校でも、ここで放映された番組は、校内放送で流されたり、学校行事や、学級の愛唱歌として歌われてきました。
  なお、『みんなのうた』は、半世紀を超える長寿番組であるため、10年ごとぐらいに、特集番組が組まれることがありますが、ゲストの人が心に残る曲は、ことごとくといってよいほど、自分が子どもであった時の曲です。ところが、次第にこの番組もターゲットとする年齢層を高めたため、必ずしも、同じ年齢層をターゲットとした子ども番組とは言えなくなってきました。

      
『歌のメリーゴーラウンド』から『歌はともだち』へ   

 「みんなのうた」の第1曲目のメイン曲は、風景をバックにして歌われていましたので、歌を歌う児童(少年)合唱団の姿を見ることはできませんでしたが、それを前面に立てた番組が、『歌のメリーゴーラウンド』や、その後継番組と位置付けられる『歌はともだち』です。『歌のメリーゴーラウンド』は、昭和39(1964)年4月11日 - 昭和43(1968)年3月29日にNHK総合で放送されたこども向けの音楽ショー的な要素をもった音楽番組で、司会は、宍倉正信(東京マイスタージンガーメンバー)、鈴木弘子、伊藤アイコ(のような大人でありながら、歌は、東京放送児童合唱団、西六郷少年合唱団、ビクター少年合唱隊、杉並児童合唱団等在京の有力児童合唱団が交代で出演していました。児童合唱団員の子どもたちだけで番組のすべて進めることは難しいので、それをリードあるいは補佐する形で、司会・進行を含め、大人の男声合唱団の東京マイスタージンガーが登場していました。この番組では、これまで、『みんなのうた』では、見ることのできなかった児童合唱団の歌う姿を見ることができました。また、時には、東京を中心としながらも、それ以外の地域の少年(児童)合唱団がゲスト出演することもありました。この番組への出演を通して、児童合唱団が質的に高まったことは確実です。どうしても、子どもの目で見ると、同年代の児童合唱団の歌に目が向きがちでしたが、時が経って、東京マイスタージンガーのメンバーが、若手の男声声楽家で、その後日本の声楽界をリードするような活躍したことを知ると、この番組の中で重要な役割を果たしていたことがわかります。また、歌を聴かせるだけでなく、会場の観客を巻き込んでゲームソングを採り入れて、視聴者参加番組にしていたことも、当時としては画期的なことでありました。
 『歌はともだち』は、その後継番組として、昭和43(1968)年4月5日 - 昭和58(1978)年3月26日の間、牟田悌三、晴乃チック・タック、ボニー・ジャックス、芹洋子、斉藤浩子、 今陽子、南安雄(指揮兼任)、ペギー葉山、南安雄(指揮兼任)、 ペギー葉山(単独司会)、 田中星児(単独司会)というふうに、大人の司会者を変えながらも、児童(少年)合唱団が登場する番組でした。ゲストとして、大人の声楽家が登場し、児童と一緒に歌うこともよくありました。また、『みんなのうた』で人気のある歌がよく歌われていました。そのような意味で、歌う児童(少年)合唱団の姿を全国に放映することで、各地の児童(少年)合唱団に入団を希望する子どもが増えたということは間違いありません。また、ゲームソングを採り入れて、視聴者参加番組にするという路線は変わりません。ところが、この番組が放映された約10年間に、児童(少年)合唱団は、次第に全盛期を過ぎてきたという事実も押さえておかなければなりません。当時この番組を視ていた視聴者は現在50代以上になっていると思われますが、どんな歌が歌われていたかということについての記憶はほとんど残っていません。その理由は、『みんなのうた』のように繰り返し放映されず、1回限りの放送であったからです。テレビドラマ(かつてはラジオドラマ)のテーマソングが長年にわたって歌い継がれるのは、その歌が繰り返して放映(放送)されるからです。なお、『歌はともだち』の後継番組は、それ以後まだ生まれていません。
懐かしのテレビラジオ録音コレクション「うたのメリーゴーラウンド」資料集  
http://takizawa.gr.jp/uk9o-tkzw/tv/utamerry/

   
これらの番組を、今そのまま放映すれば

 1960〜70年代に放映されたといった『みんなのうた』『歌のメリーゴーラウンド』『歌はともだち』といった児童合唱を主とした番組を、その当時のままの形で再演しても、現代の子どもたちが関心をもって観るとは思っていませんし、児童合唱の人気が高まるとは考えていません。例えば、NHKアーカイブで昭和39(1964)年に放映された「歌のメリーゴーラウンド」の映像の一部分を視聴することができます。当時としては、テーマソング」とピーチパラソルの骨の先の部分のテープを持って回る児童合唱団員の動きは斬新なものでしたし、「みんなのうた」で歌われるような歌は、当時の子どもにとっては、従来の童謡・唱歌にないいわゆるジュニアソングで魅力的でした。しかし、映像の中で歌われている「五木の子守唄」に関心をもつ現代の子どもがどれほどいるでしょうか。演奏としてはなかなかよい演奏だと思うのですが、直立不動で動きがないゆっくりした歌を、幼い時から動きのあるリズム重視の音楽を聴いて成長している現代の子どもにこれを視聴させてみて、魅力的な音楽と感じる比率はかなり低いのではないかと思います。現在の特に小学校高学年から中学生の世代は、J−POPSにしか関心がない比率がかなり高いのではないでしょうか。そのようなことを考えると、残念ながら「温故知新」という言葉は、通用するものと通用しないものがあると思います。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010111_00000
 
 なお、BS朝日に、「子供たちに残したい 美しい日本のうた 」という番組があり、この番組に東京少年少女合唱隊やえびな少年少女合唱団といった児童合唱団も登場しますが、主は大人の合唱団で、子ども対象の番組にはなっていません。はっきり言って、この番組は、かなり年配の大人が幼いころ歌った歌の背景を知って懐かしむ番組であって、「子供たちに残したい」という高邁な理念を掲げるならば、今を生きる子どもたちがもっと興味を持って視聴したくなるような番組に改変する必要があると思います。

「ろばの会」の功績と現状

 CD「いぬのおまわりさん ろばの会童謡名曲集」を聴くと、ああ、この歌も「ろばの会」のメンバーによって作られた歌だったのかと、少年時代に聴いたり歌ったりした歌のルーツを知ることができます。
 さて、平成30(2018)年は、鈴木三重吉の児童雑誌『赤い鳥』発刊から百年ということで、そこから誕生した「童謡」百年記念の演奏会等の行事や出版が全国各地で行われました。ところが、鈴木三重吉の理念には、当時の現実の子どもの実態を見ていない「おごり」を感じることがあります。それは、自分の視点でしか文学や音楽を語っていないからです。例えば、同時期に発行されていた『少年倶楽部』や『日本少年』は決して低俗な雑誌ではありません。例えば、『少年倶楽部』は「おもしろくてためになる」という理念のもと、当時の少年たち、とりわけ経済的に貧しい家庭の子どもたちに、努力すれば道は拓けるという価値観を植え付けることで、夢や希望を与えました。また、「唱歌」には、また違った価値があります。従って、私は、文学や音楽において芸術性は大事ではあるが、それがすべてではないと思っています。
 よく、童謡は大正時代と昭和20〜30年代に名作が生まれたと言われていますが、現代に生きる子どもはもとより、若い世代に歌い継がれていない傾向もみられます。「ろばの会」は、昭和30(1955)年に、後日、フレーベル少年合唱団の指導者になる磯部俶による提案を受けた中田喜直を中心に、宇賀神光利、中田一次、大中恩の5人の作曲家たちが、「童謡」というよりも「こどものうた」の創作を目指して結成したグループです。結成当時、メンバーはいずれも30代の新進気鋭の作曲家であり、彼らは、「子供たちのために、いい詩と、いい音楽を」「頼まれて作曲するのではなく、自分たちで納得のいく音楽を」をモットーに掲げていました。 昭和20年代の頃は、童謡歌手と呼ばれる子どもたちによって歌われた童謡が、レコード化されてそれを通して日本中に広がっていましたが、「ろばの会」のメンバーは、そのような「レコード童謡」のイメージから脱皮しようとしました。このような「ろばの会」の呼びかけに、サトウハチロー、小林純一、薮田義雄らの詩人たちが創作に協力することになり、九月に「こどものうた」第一集が刊行され、第一回の「ろばの会発表会」も開かれました。また、「ろばの会」の歌を広めた歌手(グループ)には、真理ヨシコ、友竹正則、ボニージャックス、フレーベル少年合唱団等があります。
 このように、「ろばの会」は、童謡の新しい呼び名「こどものうた」を提唱しましたが、この理念は、必ずしもすぐに浸透したとは言えません、しかし、昭和61(1986)年に始まった「全国童謡歌唱コンクール」が、その名称を平成27(2015)年「童謡こどもの歌コンクール」と変えたことによってある程度実現したのではないでしょうか。
 この会の活動を通して生まれた代表的な曲は、「サッちゃん」(阪田寛夫 作詞、大中恩 作曲)、「犬のおまわりさん」(佐藤義美 作詞、大中恩 作曲)、「ちいさい秋みつけた」(サトウハチロー 作詞、中田喜直 作曲)、「おなかのへるうた」(阪田寛夫 作詞、大中恩 作曲)、「ドロップスのうた」(まど・みちお 作詞、大中恩 作曲)などですが、創設のメンバーも次々と他界し、平成12(2000)年3月に解散コンサートを行いました。また、これらの歌が、現在よく歌われているかどうかと問えば、少なくとも多くの子どもによく歌われているとは言い難い状況です。「歌は世につれ、世は歌につれ」と申しますが、中には、描かれた歌詞の時代背景が変わったという歌もありますが、今にも通じる歌もあります。




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