寺内町(じないまち)界隈には、白壁がひときわ映える江戸時代の商家(旧家)の家並みが時代劇セットさながらに残っています。最近では旅行ガイドブックなどでも取り上げられるようになり、休日にはカメラやスケッチブック片手に散策される訪問者が増えています。寺内町の町家は外観の修景も終えて、往時のたたずまいと賑わいを偲ぶことができます。ぜひ一度、歴史が彩る生きたテーマパークに足をお運び下さい。 |
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(東)奥谷家住宅 (非公開) (東)奥谷家は岩瀬屋二代目伊右衛門の子、伊六を初代とし、油屋を営んでいました。母屋の上の煙出しが特徴です。 「寺内町煎餅」の図柄にも取り入れられています。 城之門筋を挟んで向き合う(本)奥谷家住宅との間には排水用の用心堀があり、岩永橋(がんえいはし)と刻まれた石橋が架けられています。車両通行による損傷を避けるために、現在は複製品に取替えられています。 |
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日本の道百選「城之門筋」 8月10日の「道の日」を記念した「日本の道百選」に選ばれました。(昭和61年) 城之門筋は江戸時代からの町家が軒を連ねる町並みのほぼ中心部を結ぶ延長約300メートルの道路です。大阪府下では、城之門筋のほか御堂筋(大阪市)とフェ二ックス通り(堺市)が日本の道百選に選ばれています。 |
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城之門筋 道の両側には,興正寺別院をはじめ、木綿問屋や酒造家の白壁の土蔵や格子造りの民家などが連なっています。興正寺の山門は豊臣秀吉が造営した桃山城の門の一つが移築されたもので、城之門にちなんで城之門筋(じょうのもんすじ)と呼ばれるようになりました。 |
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「あてまげの道」 寺内町の道路はほとんどが直交せず、「あてまげ」と呼ばれるように少しづつずらして通りを見通せないようにしています。 |
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興正寺別院 (富田林御坊) 浄土真宗(一向宗)の寺院です。地元の人から「御坊(ごぼう)さん」と呼ばれ親しまれています。寺内町はこの寺院を中心に宗教自治都市として形成されました。 南河内地方の商品集散地の中心として栄えました。 「寺内町煎餅」の図柄にも取り入れられています。 |
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(南)葛原家住宅の三階蔵 (非公開) 寺内町のランドマーク。年貢米を入れる蔵として利用されていました。寺内町煎餅の図柄にも取り入れられています。 寺内町探訪の記念・お土産品には、地元で売られている「寺内町煎餅」が好適です。富田林駅前・国道沿いに面した140年の歴史を伝える和菓子老舗・柏屋葛城堂の店頭で買い求めることができます。寺内町に関する説明書も添えられています。 |
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排水用マンホール蓋の絵柄 景観修景作業の一環として、電柱も可能な限り、目立たない位置まで移動させてあります。 また、排水用マンホール蓋には地元風景の絵柄(重要文化財・旧杉山家住宅と金剛・葛城連山)が描かれています。このマンホール蓋は市内各所で見かけます。ご散策の際、ふとお足元にも気を留めて見てください。 |
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重要文化財・旧杉山家住宅 (公開、有料) 杉山家は代々造り酒屋を営んでいました。 寺内町・町家の中では最も古く、規模も大きい建物です。昭和58年に重要文化財に指定され、現在一般公開されています。 明治中後期の新詩社明星派(与謝野鉄幹・晶子主宰)の女流歌人 石上露子(本名 杉山孝)の生家です。 「寺内町煎餅」の図柄にも取り入れられています。 |
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寺内町センター(公開,無料) 重要文化財・旧杉山家住宅の向かい側にあります。 内部には河内名所図会をはじめとした古地図や各町家に伝わる各種古道具類などが展示・紹介されています。 来訪者用トイレが利用できます。 |
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玄関軒下に残る防火貯水槽 (本)奥谷家、城之門筋 町家の軒下、玄関脇には防火用貯水槽が置かれています。(「水」の文字が石に刻まれています。) 町を皆んなで火災から守ろうとの先人たちの高い意識を伺うことができます。こうした意識のおかげで災害や戦災から幸運にも免れて、類稀な歴史的景観が今日まで残されてきました。 |
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仲村家住宅 (非公開) 代々酒造業を営んでいました。記録によれば、吉田松陰や頼山陽も訪れています。大阪府文化財に指定されています。 また、「寺内町煎餅」の図柄にも取り入れられています。 |
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石垣(土塁跡) 寺内町一帯は、石川の流れと二上山や葛城山を望む高台に位置しています。宗教自治都市であった寺内町の周囲には土塁や竹薮、環濠(北側)が築かれ、外敵から町を守る構造になっていました。土塁・竹薮の一部は現存しており、往時の様子が偲ばれます。 現在でも寺内町の入口には、ご覧のような城郭を連想させる立派な石垣(土塁跡)も残されています。(幕末の庄屋・仲村長右衛門の旧宅跡、後の郡役所跡) |
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寺内町のライトアップ 日本の道百選「城之門筋」の石畳の通りに沿って地上に埋め込まれた街路灯が古い町並みのライトアップに一役買っています。 |
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忍返し 塀の上に設けられた防犯用の忍び返し |
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石川(いしかわ)河川敷 秋には赤とんぼが飛来する河川敷。石川の舟運を利用して、商品作物が取引され、富田林・寺内町の繁栄をもたらしました。 二上山(にじょうさん)や葛城山(かつらぎさん)を望みながら、遠く神話や古代の世界へと思いを馳せることができます。日本最古の国道「竹内街道」や近つ飛鳥(ちかつあすか)の里も車ですぐの距離です。 富田林ふるさと情報 (観光マップ) |
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富栄戎神社 富田林のえべっさん、寺内町の繁栄をずっと見守ってきました。江戸時代から明治初年にかけて富田林寺内町に酒屋の同業組合があり、それを「エビス講」と呼んでいました。戎神社はこの「エビス講」により祭られていました。戎神社はもともと新道中腹にありましたが、明治23年に新道をつける時に今の場所に移し、御神体はながらく喜志の宮におあずけしてあったのですが、戦後富栄戎講ができ、御神体を喜志の宮からお迎えして盛大に祭られるようになりました。ここから二上山や葛城山を望む石川 (大和川の支流)河川敷へは山中田坂 (やまちゅうださか)を下るとすぐです。 (じないまち瓦版第10号、じないまちをまもりそだてる会発行) |
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