戦国時代の商業ニュータウン (宗教自治・自衛都市)として成立・発展した富田林は、石川河岸段丘上に位置し、「富田芝」と呼ばれた荒地を開墾し南北碁盤目状に七筋八町の計画道路と町割を整備しました。河内名所図会にもその様子が描かれています。 戦乱から町を守るために、周囲には土塁(石垣)、竹林や環濠をめぐらせていました。また、外から中に通じる入口には木戸口を設け、朝夕に開閉したとの記録が残っています。 焼き払いや夜盗が横行した時代背景があり、帯刀武士の通行も許可されませんでした。入り口に当たる各所には、道案内の道標や旅人・住人の健康と安全を祈願したお地蔵さんが立っています。今でも寺内町の南側(石川沿いの段丘傾斜地)には当時の土塁跡や竹林、坂道がいくつも残っており、宗教自治・自衛都市であった名残が偲ばれます。 富田林は古くから交通の要衝でもあり、東高野街道 (高野参詣道のひとつで、京都と高野山を結ぶ。、京街道とも呼ばれます。)と富田林街道 (堺と富田林、さらに大和国境・水越峠を結ぶ)が交差する交通の要所でもあり、商人等の往来が栄え、また、大和川・石川の水運 (舟運)を利用した往来も盛んでした。 |
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寺内町全景 (富田林市提供、無断転写禁止) 近世に大和川支流・石川(写真上部)の河岸段丘に開墾されて発展を遂げた富田林・寺内町(写真中央部)。 石川の舟運や良水を利用した酒造業発達は、寺内町の経済的発展に大きく貢献しました。 左手に延びる道路は国道309号線と金剛大橋。右手上には府立富田林高校と市立富田林小学校(手前)のグランド。 |
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河内名所図会 (享和元年、1801年) (寺内町センターで展示) 河内名所図会 「いにしへは富田芝として、広き野にありしが、公命によりて市店建続きて,商人多し、殊には、水勝れて善れば、酒造る業の家多数の軒を並ぶ」 富田林・寺内町の成立と発展 近世では河川交通が物資の流通に大きな力を発揮していました。剣先船(けんさきぶね)が大阪湾から大和川、石川をさかのぼり、富田林まで運行していたことはよく知られています。(じないまち瓦版 第21号) |
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寺内町はお寺を中心にして南北に整然と区画された町割が特徴。現在も往時の町割(南北方向の筋と東西方向の町の碁盤目)が残る点で貴重な近世町並み遺構といえます。門前町はお寺の門前に商店が建ち並ぶ構造であり、計画的に整備された寺内町とは異なります。 | 富田林村の古絵図 (宝暦3年、1753年) (寺内町センターで展示) |
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町を取り囲む土塁、環濠、入口が描かれています。 | 富田林村の古絵図 (安永7年、1778年) (寺内町センターで展示) |
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東高野街道 経路としては洞ヶ峠(京都府八幡市と大阪府枚方市の境)から南下して、星田(交野市)、中野(四条畷市)、中垣内(大東市)、宝蔵新家(東大阪市)、瓢箪山(東大阪市)、恩智(八尾市)、安堂(柏原市)、古市(羽曳野市)、富田林・寺内町(富田林市)、錦織(富田林市)、長野(河内長野市)、三日市(河内長野市)、紀見峠(大阪府河内長野市と和歌山県橋本市の境)、学文路(橋本市)を経て、不動口に通じる。 富田林へは古市(羽曳野市)で竹内街道(たけのうちかいどう)と交差し、喜志、新堂を経て富田林に達し、旧寺内町に入り(壱里山口)亀ヶ坂筋を南へ行き、堺筋を西行、興正寺別院北側を通って南北の富筋を南へ突き当たる。その突き当たりの辻の東北角に「町中くわえきせるひなわ火無用」と彫られた珍しい道標が建っている。 この道標は、京都から高野山に通じる東高野街道の道しるべとして建てられたもので、刻字から宝暦元年(1751年)11月の建立であることがわかります。室町時代の末期、石川の河岸段丘上に建設された富田林寺内町は江戸時代を通じ、南河内随一の商業都市として発展し、東高野街道を通って多くの旅人が往き来しました。 「くわへきせる」や「ひなわ火」は、当時の旅人が携帯した必需品のひとつで、江戸時代の風俗を良くあらわしています。 道標に刻まれた銘文は、町中での火の用心を呼びかけたものです。 寺内町には藁葺きの民家が密集し、高台ゆえに水の便が悪く、町全体が火事の予防に細心の注意を払っていました。この道標以外にも、北の壱里山町や富山町には用心堀と呼ばれる防火用水の設備があり、町衆が共存共栄の精神で町を守ってきたことをうかがい知ることができます。大火がなく、古い町並みが残ったのもひとつにはこんな気遣いがあったからかもしれません。 (富田林市教育委員会) |
東高野街道沿いの寺内町入口に残る道標 「左 ふじいでら」 「右 まきのお寺、高野山」 |
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東高野街道沿いの寺内町入口にある案内標 (向田坂) |
東高野街道沿いの寺内町入口に残る道標 |
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富田林の北口地蔵横の道標は、「右 まきのを寺 左 ふじい寺」と彫っているが、この辻が西国三十三所旧巡礼道の曲がり角で、これから北が葛井寺への道、南が槙尾山施福寺への道である。ここは、富田林・旧寺内町の北端に当たり、古くは環濠が廻らされていたと されるが、現在はその跡は残っていない。この付近が城之門筋(南北)の起点であり、興正寺別院へと通じる。重要文化財・旧杉山家住宅(公開)までは徒歩約10分。 4番札所・槇尾山・施福寺(大阪府和泉市槇尾山町) 5番札所・紫雲山・葛井寺(ふじいでら、大阪府藤井寺市藤井寺) 真言宗御室派・十一面千手千眼観世音菩薩。本尊は現存する千手観音像では日本最古で国宝。本当に千本の手を持ち、掌に眼がある。毎月18日の開扉に合わせ巡礼したい。 |
北口地蔵尊脇の道標 (富田林街道) 「左 ふじい寺 (紫雲山葛井寺)」 「右 まきのお寺 (槇尾山施福寺)」 |
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北口地蔵尊 北口地蔵尊が祀られている場所は西国三十三ヶ所観音霊場巡礼街道・旧富田林村 (寺内町)の北入り口の角に当たり、古くから多くの人々の信仰を集め親しまれてきました。元は道の南側に祀られていましたが、車馬の通行が増えるにつれ、現在の位置に移されました。東北隅にある道標に「左 ふじい寺 右 まきのお寺 」と書かれているのは、元々道の南側にあったものをそのままこちらに移し変えられたため、実際の方向とは向きが逆になっている訳です。 地蔵尊の右側には、「安永七年戊戌(つちのえいぬ)天四月二日, 俗名巳ノ喜兵衛」と刻まれており、1778年4月に巳ノ喜兵衛という人によって造られたことがわかります。(富田林市教育委員会) |
北口地蔵尊(祠) |
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北口地蔵尊の案内解説 (富田林教育委員会) |
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石川 寺内町の高台から望む石川と金剛・葛城連山 |
石川 寺内町(石川河岸段丘)から金剛・葛城連山を望む |
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竹林 石川から向田坂への一帯には竹林が広がる。 |
竹林 石川から向田坂への一帯には竹林が広がる。 |
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石川河岸段丘の高台に開けた寺内町の町並み(勝間家住宅) |
寺内町へ通じる坂道 (山家坂) |
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寺内町の入り口に残る土居跡の石垣 (幕末の庄屋・仲村長右衛門の旧宅跡、後の富田林郡役所跡) |
坂道 (浄谷寺口) 寺内町・西端の入口に当たり坂道が続きます。 |
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坂道 (浄谷寺口) 寺内町・西端の入口に当たり坂道が続きます。 |
「念西口」 道標 |
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富栄戎神社 富田林のえべっさん、寺内町の繁栄をずっと見守ってきました。江戸時代から明治初年にかけて富田林寺内町に酒屋の同業組合があり、それを「エビス講」と呼んでいました。戎神社はこの「エビス講」により祭られていました。戎神社はもともと新道中腹にありましたが、明治23年に新道をつける時に今の場所に移し、御神体はながらく喜志の宮におあずけしてあったのですが、戦後富栄戎講ができ、御神体を喜志の宮からお迎えして盛大に祭られるようになりました。ここから二上山や葛城山を望む石川 (大和川の支流)河川敷へは山中田坂 (やまちゅうださか)を下るとすぐです。 (じないまち瓦版第10号、じないまちをまもりそだてる会発行) |
富栄戎神社 |
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富栄戎神社 (寺内町の入り口のひとつ、山中田坂にあります。) |
富栄戎神社 |
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寺内町(富栄戎神社)へ通じる坂 (山中田坂) |
寺内町(富栄戎神社)へ通じる坂 (山中田坂) |
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本町筋沿いの地蔵尊 (祠) | 旧富田林街道沿いの地蔵尊 |
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本町筋沿いに新たに設置された案内石標 | |||||||||||||||
本町公園 重要文化財・旧杉山家住宅にゆかりの女流詩人・石上露子歌碑や富田林に逗留した作家・織田作之助記念碑が設けられています。また、本町公園から富田林駅に向かう途中、本町筋沿いの芦田書店には石上露子に関わる書籍が多く取り揃えてあります。 (富田林 「じないまち」 散策地図) |
本町公園 |
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富田林市役所近くの寺内町記念碑 | |||||||||||||||
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