富田林・寺内町の成立と発展

織田信長との和平戦略の下で繁栄した富田林寺内町

戦国時代(1467−1562)、寺内町と呼ばれる宗教自治都市が各地に誕生した。寺院の境内に接して形成されたこの都市集落は、大名、領主などの干渉を排して自治を確立していった。いまも奈良県の今井町(橿原市)、大阪府の堺などに寺内町の面影をとどめる町並みが残されているが、そんな中の一つがここ富田林である。

なかでも最も有名な寺内町は、石山本願寺を中心に作られた「大坂寺内町」であるが、織田信長との元亀元年(1570年)からの10年に及ぶ争いで、石山本願寺は信長との戦いに敗れ、徹底的に破壊され、いまでは全くその姿を見ることができない。これに対して、摂津河内や富田林は信長に対して恭順の意を示し、和平を選択した。各地に残っている寺内町の町並みは、いずれも一向一揆の制圧を目指した織田信長との対立関係の中に融和策を模索して生き残り、後の世の繁栄を勝ち取ったものである。ただし、富田林が今日のような繁栄を獲得した背景には、一向一揆を形成した本願寺門徒を中心とした軍事力があったことは否めない。

(「民家(下)」高井潔著 淡交社(2002年12月刊)より一部抜粋)

室町時代 一向宗 (浄土真宗) の民衆への浸透

室町時代の文明年間 (15世紀後期)京都興正寺の当主, 蓮教が本願寺の蓮如を助けて、熱心に河南地方の村々に布教した頃、毛人谷 (えびたに)に念仏道場を開いた。「古御坊」という字地が大正時代まで残っていた。今、富田林別院とその末寺11か寺の散在する 新堂、中野、貴志、北大伴、山城、一須賀、春日、山田など、石川郡の北部から古市郡にかけて,大いに信者ができたのである。この信仰の芽生えが50年後の大永前後に光明寺、専光寺、教蓮寺、円明寺などとなって念仏道場が次々と建つようになる。


富田林・寺内町 (写真:富田林市提供、無断転載禁止)
興正寺別院 (本堂)、寺内町成立と発展の中核寺院です。
興正寺別院本堂と証秀上人記念塔
証秀上人による興正寺別院 (富田林御坊) 開基

弘治元年 (1555年)から永禄の初めにかけて、京都・興正寺第14世・証秀上人が石川の西、富田が芝と呼ぶ台地状の荒芝地 (石川のほとりの河岸段丘)に目をつけ、永禄元年 (1558年)当時領主であった、安見美作守直政(高屋城主)から青銅銭百貫文を出して申し請けた。そして近隣の中野村、新堂村、毛人谷 (えびたに)村、山中田 (やまちゅうだ)村から庄屋株二人づつを呼びよせ (富田林八人衆)、信者達の力によって荒地を開き、四町四面の地域を区画して外側を土居と竹林で囲い、その中央に御坊を建てた。これが富田林の御坊 (興正寺別院)で、富田林という寺内町の開基となった。

領主の保護と商業都市として経済発展


室町幕府の施政下、河内国の守護職であった畠山氏は高屋城(羽曳野市古市)を築き、幕府の管領となって以降は、自らは京都に居り、河内は守護代をおいて治めさせた。天文20年(1551年)より永禄2年(1559年)までの前後9年間、高屋には安見美作守直政の時代であり、この時代に富田林御坊は建立された。安見美作守の「定」(永禄4年。1561年)の中に、「諸商人座公事之事」という一条がある。これは御坊のもと七筋八町に集まり来る諸商人を保護する特殊の政令である。「座」とは当時各地の寺社保護の下に発達した各種専売の商店市場のことであり、「公事」とは「座」に賦課すべき公課を免除する意である。即ち、「富田林の寺内に住む商人からは租税をとってはならぬ。」ことを定めている。

熱心な信者達が各地から寺内に移り住んだ。御坊様への志納と町内の負担金以外に租税はかからないから、田地を持たず商いする人などが、こぞって集まった。そのようにして、保護されながら寺内町としての富田林村は着々と作られたのである。

土居跡の石垣
土居(土塁)跡の石垣
 (幕末の庄屋・仲村長右衛門の旧宅跡、後の富田林郡役所跡



宝暦3年(1753年)の村絵図
宗教自治都市(寺内町)の町割・土居の整備

富田林御坊を中心に門前四周に七筋八町の碁盤目状の町割を整備した。南北の通りを「筋」といい、東西の通りを「町」という。筋は東より西へ数えて、東筋、亀が坂筋、之門筋、富筋、市場筋、西筋の六つを数え、今ひとつの筋は、他の筋よりやや狭く筋通りも規正のままに取り残され、筋の名も逸している。町は北から南へ数え、一里山町、富山町、北会所町、南会所町、堺町、御坊町、西林町、東林町の八町名を数える。

町の外廓には土塁(土居)を廻らし、その外に竹を植え、四門(木戸)を設けて朝夕に開閉したのは平和な商区を保護するためであった。四門は山中田坂(千早街道方面)、向田坂(東高野街道)、西口(平尾方面)、一里山口(東高野街道)に設けられた。
富田林に残る最も古い宝暦3年(1753年)の絵図にも町の周辺に土居が描かれている。

土居もいまでは削平され、町並みに埋もれて、元の位置を確かめることはできない。東と南側の急斜面と、浄谷寺西側の地盤の落ち込みが、古くからの地形を示しているだけである。また、一里山口の門(木戸)には高札所が設けられていたというが、四門のうち最後まで残っていた壱里山口の門は明治以後も生きながらえたものの、大正時代には取り除かれてしまったという。門の跡を実際に示すものは何も残っていない。

証秀上人は、新開地・富田林の建設、町割一切を御堂の建立とともに八人衆の合議に任せた。村の行政は八人衆によって行われた。八人衆のうち、二人は株役となり、あとの六人は年寄となった。株役は庄屋であり、年番制であった。御坊の庶務も同じ株役、年寄が処理の任に当たっていた。


防火への用心と備え


町の南端に道標を兼ねた防火標識柱がある。「町中くわえきせる、ひなわ火無用」と記され、防火への注意が払われている。

茅葺き民家(当時)が密集する特別地域であるから火災には深い留意を払い、街路上にところどころ自由に汲上放水に便利な井戸を設けたのもそのためである。火の用心を厳にし、その夜番には米三石五斗給を給し、特に警戒を要する節季に鉄棒引(かなぼうひき)を巡らしめる時は一夜につき銀四分五厘を給したものである。

東高野街道に沿う寺内町・入口に建つ道標
「町中くわえきせる、ひなわ火無用」

町家の軒下に置かれた防火水槽(奥谷邸) 寺内町を災害から守る町衆の高い意識が感じられます。
防火水槽 (岩瀬屋・奥谷家住宅)

用心堀 (暗渠)と岩永橋 (がんえいはし)
用心堀と岩永橋

東側の城之門筋に沿って用心堀(暗渠)が通っており、架けられた岩橋の耳石に刻まれた文字「岩永橋 (がん恵はし)」は、岩瀬屋が永久に繁栄することを念じて刻まれたと言われている


商品作物の流通と在郷町としての発展

18世紀に入って近在の村々に綿作りや菜種作りがさかんになるにつれて、その買い集めや加工、取引をする問屋が増えた。富田林は石川谷における産業の中心地として、米をもとにしての酒造りの家、菜種から油をしぼり取る油搾り問屋、木綿から織った河内木綿の問屋などが、元禄・宝永の頃から次第に栄え、大きな店が軒を並べるようになり、各地の商人や近在からの出入りも多く、町場の賑わいは年とともに加わり、商取引も広く大きくなっていった。中世の宗教自治都市・寺内町の性格は次第に失われて、近世地域商業都市・在郷町としての経済発展を遂げることになった。

「河内名所図会」にも以下のように記されている。

「いにしへは富田芝として、広き野にありしが、公命によりて市店建続きて,商人多し、殊には、水勝れて善れば、酒造る業の家多数の軒を並ぶ」

出身の村名を屋号や呼び名として最近まで使われていたものに、平尾屋(越井家)、別井屋(橋本家)、黒山屋(田守家)、新堂屋(北野家)、板持屋、貴志屋(杉本家)、飛鳥屋、岩瀬屋(奥谷家)、坂田屋(田中家)などがある。

(出典) 富田林商工会議所 「富田林」(昭和49年9月)、
富田林教育委員会 「富田林寺内町」(昭和50年)よりそれぞれ抜粋して収録。

各家の子弟は、堺に奉公に出て商売を見習い、町に帰って、身つけた商策を発揮するのが、この町の豪家の習いだった。堺で身につけたのは商策だけではなく、勤倹節約「入るを計って出るを制す」ることで、冗費を省くことに専念したが、そこで浮いた余力を、家、道具、什器など、家財にかけることだけは惜しまなかった。

そこで、大屋根の煙出しの形に凝ったり、店前の木格子に贅をつくすなど、今に残って微動もしない建築が生まれてくる。贅をつくすといっても、ただ豪奢(ごうしゃ)を衒(てら)うというのではなく、抑制のある繊細さがうかがわれるのは、やはり畿内、先進文化地区の洗練さによるものだろう。 経済的な地位が、堺から大坂(浪華)に移ると、この町も大坂に顔を向ける。こんどは子弟の修業の場は船場になる。いまでも、町の旧家では、堺、船場との姻戚、親戚関係を持つものが多い。本来の地主から発展したとはいえ、商業としても富田林は成功した。石川の清流を利用した酒屋、河内特産の棉をつかうもめん屋、金剛山系にある自家の持山から木を切り出しての材木屋や、薬種問屋で成功した。


(出典) 「歴史の町並」(文 那谷敏郎、写真 橋本治朗、淡交社刊 昭和50年10月23日)、富田林市中央図書館蔵書 から一部抜粋引用させて頂きました。

黒山屋・田守家住宅

別井屋・橋本家住宅

十津川屋・葛原家住宅


酒造業の繁栄

富田林の酒造株高は米六百十六石で酒造家は7軒であった。このうち、天保5年から明治2年まで続いたのは長左衛門(杉山)、徳兵衛(仲村)、茂兵衛(葛原)、伊助(奥谷)、忠兵衛(橋本)の5軒であった。その造り高は5軒合わせて四千三百八十石余で河州全体の酒屋(72軒)の二万四百二十七石余の二割一分強を占め、他地方にも販売していた。江戸に廻送されたものも少なくなかった。正徳6年(1716年)の一か年間に江戸に廻送した樽数は二千、その石高は六百石に達している。

    

(出典) 富田林商工会議所 「富田林」(昭和49年9月)、富田林教育委員会 「富田林寺内町」(昭和50年)よりそれぞれ抜粋して収録。


重要文化財・旧杉山家(わたや)住宅

石田家住宅 (旧・万里春酒造)の酒蔵(南会所町)


幕府直轄地


富田林村は元和元年(1615年)江戸幕府の直轄地となってから、淀藩の所領や大坂城代の役地となったこともあるが、明治維新まではほとんど代官支配地であった。江戸時代においても寺内町域ははっきりしていたが、明治以降、北側に人家が増し、いまでは切れ目なく家並みが続いている。


吉田松陰が訪れた佐渡屋・大阪府有形文化財・仲村家住宅

修行者、文人墨客来訪の地

町場は各地から人の集まるところであるから、身分を隠して住むには都合が良い。幕末には天下の志士が身を隠し、各方面に連絡するのに格好の地であった。長州の志士吉田松陰は諸国遊歴の途中、嘉永6年(1853年)富田林の仲村家に滞在し、その後肥後熊本の藩士松田重助や生野義挙の中心人物、筑前の平野国臣も安政の末、富田林に隠れ住んで、昼は寺子を教え、夜は私塾を開いていた。その影響で文久3年(1863年)天誅組大和義挙に参加する者も出た。

(出典) 富田林商工会議所 「富田林」(昭和49年9月)、富田林教育委員会 「富田林寺内町」(昭和50年)よりそれぞれ抜粋して収録。

富田林と吉田松陰 (嘉永6年2月・3月)
(「石上露子を語る集い」第6回定時総会講演録より引用)

富田林寺内町と天誅組の変
(「石上露子を語る集い」2004年10月例会講演録より引用)


重要文化財・(旧)杉山家住宅
格子の間に掲げられた墨蹟 (山岡鉄舟筆)

右から「生前富貴学頭露身後風流怕上花」
明治時代に山岡鉄舟が杉山家を訪ねて、「杉山家の為(左端)」に書き残した作品
歴史的町並みの表情を町割毎に纏めてみましたのでご覧下さい。(北から南に向かって、壱里山町から林町まで順番に並べています。)
壱里山町 富山町  北会所町  南会所町  堺町 (堺筋) 御坊町 林町
(出典)
富田林商工会議所 「富田林」(昭和49年9月)、
富田林教育委員会 「富田林寺内町」(昭和50年)よりそれぞれ抜粋して収録。
「民家 (下)」 高井潔著 淡交社 (2002年12月刊) 、「歴史の町並」(文 那谷敏郎、写真 橋本治朗、淡交社刊 昭和50年10月23日)からも一部引用・抜粋させて頂きました。 

(註) 参考文献・資料一覧
(註) 富田林市富田林伝統的建造物群保存地区保存計画

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Copyright 2002 by Naoya Okutani , edited in Japan