五銖銭(北朝の貨幣)


   「西晋」滅亡後、五胡十六国の興亡を経て、西暦439年、「北魏」により北朝は統一されます。

   当時の北朝では、相変わらず三国時代までの貨幣(旧銭)や民間で作られた小型の銭(盗鋳銭)が
  広く流通し、北魏による北魏五銖銭の鋳工後も同様の状況は変わらなかった様です。

   西暦493年(太和17年)、洛陽遷都後に、ようやく北魏貨幣の流通が広がり、西暦495年
  (太和19年)に太和五銖銭、西暦529年(永安2年)に、永安五銖銭をそれぞれ鋳工します。
  いずれも年号を入れた五銖銭で、旧銭に対する交換比率を高く設定した為に一般的にはあまり受け
  入れられず、旧銭を用いたり、小型の盗鋳銭が広く横行した様です。

   「北魏」は西暦523年頃より内乱が起こり、西暦534年に「東魏」、翌535年に「西魏」に
  それぞれ分裂してしまいます。

北魏五銖(面)

北魏五銖(背)

北魏五銖(面)

北魏五銖(背)

北魏五銖(北魏)

北魏五銖(面)

北魏五銖(背)

北魏五銖(面)

北魏五銖(背)

背(右星)

面(穿上星)

北魏五銖(北魏)

太和五銖(面)

太和五銖(背)

太和五銖(面)

太和五銖(背)

太和五銖(北魏)

永安五銖(面)

永安五銖(背)

永安五銖(面)

永安五銖(背)

背(反郭)

永安五銖(北魏)

永安五銖(面)

永安五銖(背、反郭)

永安五銖(面)

永安五銖(背、反郭)

背(反郭)

永安五銖(北魏)

永安五銖(面)

永安五銖(背)

永安五銖(面)

永安五銖(背)

背(背四道)

背(土)

永安五銖(北魏)



置様五銖(面) 置様五銖(背)
西魏出土文献通りの赤い銅質で通常品より
若干重い。今後の研究を待つ。
通常品(黄色い銅質)

置様五銖(大統五銖)(西魏〜隋)

注:置様五銖は従来は隋鋳工とされていたが西魏より鋳工されていた。
※文献では大統六年(540年)、五銖銭を鋳工したとあり、西魏紀年墓より出土された五銖銭
の拓図を見ると、従来「置様五銖」として分類されている五銖銭である。
 出土品は、「赤い銅質の五銖銭で若干重い」と解説があるが、銅質、重さ共に出土環境、
保存状況、その後の処理等により外観では判別、断定する事は不可能であると思う。
 また、約40年後(581年)に成立した隋は、前朝である西魏等の鋳銭技術を継承しており
西魏と同一の貨幣を鋳工したとしても何等疑問もない。
 以上より、置様五銖は西魏〜隋(初鋳が西魏)としておくのが妥当と考える。

   西暦550年、「東魏」は「北斉」に滅ぼされます。
   「北斉」では西暦553年、常平五銖を作ります。この五銖銭は精巧な製作で広く流通しますが、再び
  私鋳銭が横行し、経済も徐々に混乱しやがて西暦577年「北周」に滅ぼされます。

常平五銖(面)

常平五銖(背)

常平五銖(面)

常平五銖(背)

面(降平)

常平五銖(北斉)

   一方「西魏」は南朝の「梁」より多くの領土を獲得し、徐々に強大になっていきますが、西暦556年
  「北周」に滅ぼされます。
   「北周」では西暦561年、「新」での貨幣と同じ名称の貨幣、布泉を製作します。この貨幣は五銖銭
  五枚相当と決め流通させます。
   続いて西暦574年には、五行大布を作ります。この貨幣は、先に発行した布泉の十枚相当と決め流通
  させます。
   この布泉、五行大布も、それまでの貨幣と同様に私鋳されたものと見られますが、「北周」はこれらの
  貨幣の国外への持ち出しと、国外で私鋳されたものの持ち込みを禁止した事から、「北周」は比較的安定
  した状態となった様です。
   西暦577年、「北周」はついに「北斉」を滅ぼし、北部全域を統一します。
   その二年後の西暦579年、永通萬國を作ります。この貨幣は、先に発行した五行大布の十枚相当と
  して流通させ、ますます強大な国になっていきますが、西暦581年、「北周」は「隋」により滅ぼされ
  てしまいます。その後「隋」は南朝の「陳」を西暦589年に滅ぼし、全国を統一します。

布泉(面)

布泉(背)

布泉(北周)

五行大布(面)

五行大布(背)

五行大布(面)

五行大布(背)

面(大字)

面(小字)

五行大布(北周)

永通萬國(面)

永通萬國(背)

永通萬國(北周)

3.混乱期に戻る

南朝の貨幣

<五銖銭関係>

1.「漢」時代 2.「三国」時代 4.混乱期の終焉

貝貨 秤量貨幣 銅貝 原始布、空首布 平首布 刀幣

圜銭、古圓法 半両銭