白い古書、ぞっき本も、時を経て読むと面白いものです。

今月の一冊は、これ!


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「新橋三代記」表紙カバー


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 若き日のつや栄(口絵写真から)


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 つや栄近影(昭和31年1月・67歳)=口絵写真から



紅燈秘話
新橋三代記

著 者:つ や 栄
編 者:北条 清一
  妙義出版(1957年3月10日発行)

 映画は時代劇。幼き日に観た「鞍馬天狗」が効いて、今も尚、時代劇が好きです。時代劇には婀娜っぽい姐さんがつきもの。芸者さんって何だ、と謂うわけで、「嬉遊笑覧」やら「守貞漫稿」やらをひっくり返して江戸風俗を勉強。その後、史料的にも価値のある名著「女芸者の時代」(岸井良衛・著、青蛙房刊)を読んで、芸者さんのことを理解することができました。そんな折、古書店で見つけたのが、この本です。
 新橋花柳界で育ち芸者となったつや栄さんの生い立ちを聞き書きしたもので、東京タイムスに連載されたものに新たに数項を補筆して上梓されました。芸者つや栄さんの数奇な運命、人生が赤裸々に語られ、芸者さんの生活を通して「芸者」という職業の真の姿を知ることができます

 以下は、各章に添えられた「梗概」です。大体の内容が分かります。

 ●新橋芸者昔気質● いまの政治家、財界人は、世間の眼を憚って、こつそり内密で遊ぶが、明治の政財界人は、誰にも遠慮もなく、新橋、柳橋、赤坂の花柳界で豪快な遊びを展開したものである。芸者にも一騎当千、なかなかイキのいいのがいて、天下の政治家や、大金持ちを相手に、一歩も譲らぬ、芸者の意気地を、見せたものだ。この篇は、お客と芸者の、意気を見せた逸話の数々である。

 ●講武所のあとさき● つた栄が、十七、八のころまで育った講武所は、昔、加賀侯の屋敷跡の火除地である。幕末に神田三崎町に、幕兵の訓練所ができて、町内の民家がこの火除地を、換地にもらった。町民は訓練所を、俗に講武所とよんでいた。訓練所ができて、集団移転した町民が、新らしい土地に、講武所という名前をつけた。それが、講武所という地名の起源である。したがって、花柳界としての歴史も新らしく、明治以後である。だが土地柄、芸者は神田っ子、威勢がよくて、鼻っぱしも強く、気っ腑もいい。土地は狭いが、芸者らしい意気をもっていた。この篇に出てくる常陸山が横綱になったのは明治三十六年で、梅ヶ谷とともに、角界の黄金時代である。

 ●花の煉瓦地● 新橋は日本の代表的花柳界である。新橋のゲイシャ・ガールは世界にその名を知られている。若き日のつや栄たらずとも、芸者になるからは、新橋芸者に――の憧がれをもつ芸者は、いまでも多い。新橋という土地は、江戸時代、山村座、森田座などの花やかなりしころ、芝居茶屋や、船宿、お茶屋などの必要から生れた町芸者が、そもそものはじめである。江戸が文明開化の東京になって、歴代内閣の顕官や、財界の大御所たちが、折花はん柳の夢を、この土地にむすぶにおよんで繁昌し、芸道の練磨は、多くの名妓を生んだ。いまの「東をどり」の隆盛も、もとをただせば、明治、大正、昭和の三代に亘る新橋芸者の芸熱心が、あずかって力があったといえよう。この篇で、つや栄は、新橋芸者の芸道と、お座敷の苦労をつぶさに語っている。

 ●愛欲遍路● 芸者一代には、惚れたハレたの浮気沙汰の一つや、二つ、持ち合せない芸者は、まずあるまい。また、旦那運がよくて、生涯たった一人の旦那で暮したいという芸者は、稀れだといってよかろう。この篇は、つや栄の女ざかりを描いた「愛欲絵図」である。同時に、関東大震災で東京が潰滅し、不夜城を誇った新橋花柳界の紅い灯が消え、復興するまでの、煉瓦地廃墟時代の回顧でもある。つや栄は、この当時のことを「あたしの長い芸者生活で雲美の時の苦しさは、太平洋戦争の苦労とともに、生涯、忘れられません」と述懐している。

 ●人間開眼● 美貌と若さを売りものの社会は、けんらんと咲き誇った花がしぼむように、美が衰え、若さが消えると、顔の皺を気にして、いくら焦っても、世問の浮れ男は、ふり返ってくれない。路傍の石のように、捨てさられる。つや栄の辿った道が、悲しく果敢なくも、それであった。世間には同じような道を辿って、再び起ちあがれなくて、泣いている女が多い。だが、つた栄は貰った娘をしっかり抱きしめてはぐくみ育てた、苦労に苦労をかさねて――。人の世の冷めたさに抗しつつ、五十代からの人生を、もういちど、一つの悟りに似たものをもって、歩きだした。そして眼を開いた。彼の女はいう「馬鹿は馬鹿なりに生きぬいて、幸福をつかみました」と。彼の女の言葉をかりていうならば、これは、馬鹿が拾った幸福のケースである。

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