「新」が滅んだ後、各地で覇権を争う内乱が2年間続いた後、西暦25年、ようやく「東漢」が
成立しました。しかし、「東漢」が成立したものの、各地での内乱はその後約10年間続きます。
「新」滅亡から「東漢」が安定を見るまで、「西漢」「新」の都であった長安は、略奪と破壊に
より完全に都の機能を果たさなかった為、比較的破壊を免れていた東の洛陽に都を定めました。
「東漢」も「西漢」が成立した状況と同様に、成立直後は貨幣の鋳造を行なう財力も無く、
布帛等の現物や、「新」までの貨幣が相乱れて流通していましたが、西暦40年に五銖銭を再び
鋳銭する詔令が出され、翌年より五銖銭の鋳工を再開します。
「東漢」は「西漢」の銭形を継承し、「東漢」滅亡まで一部を除き改鋳する事はありません
でしたが、鋳工時期により、鋳工精粗に差があります。
「東漢」中期以降、財政難により減重銭を鋳工するようになると、私鋳銭や剪輪銭が多くなり、
末期に起こった「董卓の乱」では、粗悪な小銭(董卓五銖銭)を鋳工、流通させた為、貨幣経済は
混乱し、董卓の乱後は完全に崩壊してしまいます。
「西漢」五銖銭は「銖」の朱頭が方折するのに対し、「東漢」五銖銭は「銖」の朱頭が円折する
特徴があります。また、「東漢」五銖銭の「五」字は三官三型に近似した書体となります。
面背には、「西漢」五銖銭にはない符号が鋳出されている五銖銭も多種存在します。
しかし、面背に記号を彫って記したもの(陰文)も見る事が出来ますが、それらは銭範には確認
されていない事から、鋳銭後に意図的に刻まれたものと考えられてます。
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西漢五銖銭
(朱頭が方折)
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東漢五銖銭
(朱頭が円折)
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西漢/東漢五銖銭比較
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東漢五銖銭(詳細は別途として画像のみ掲載します。)
以下、東漢五銖銭詳細については、翌月以降の記載とします。
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