五銖銭(西漢時代概要)


  漢(西漢、前漢)が成立した頃(紀元前206年)は、秦末の内乱を平定するのが急務であり、また、
 外敵であった北方の匈奴との戦の支出などにより、本格的な貨幣の鋳造を行なう余裕が無かった様です。
  その為、前王朝の貨幣であった半両銭をそのまま流通させ、また民間での鋳造を認める等の政策を
 行っていましたが、やがて貨幣の質が低下する等の弊害により経済混乱を生じる様になります。

  紀元前118年(元狩5年)、財政困窮と経済の建て直しの為、「五銖銭」の鋳工を開始しました。
  五銖銭はそれまでの通貨である半両銭(四銖半両)に比べ重く(法定重量五銖)し、外周(面、背)
 と内孔(背面のみ)にと呼ばれる縁を設けました。
  五銖銭は、朝廷で基準となる形(大きさ、重さ等)を決め、それを基準に各地方でも作らせました。
  当初は、朝廷だけではなく、郡国(地方の諸侯に各領地の自治を部分的に認めた制度で生まれた国)
 でも鋳工を開始させます。郡国には租税を五銖銭で納入する事を求めた為、郡国での鋳工は盛んに
 行われる事となりました。
  当時の五銖銭の原料は、ほとんどはそれまで保有している半両銭を原料としていましたので、
 半両銭(四銖半両)を五銖銭に改鋳した場合、単純計算で4/5の目減りとなります。よって郡国に
 よる鋳工を認めた本当の目的は、郡国の富(貨幣)を朝廷に集めさせる事により郡国の経済力を抑え、
 朝廷の影響力を大きくする目的があったのではないかとも言われています。 実際に、それまで所有
 していた銅原料(半両銭)が枯渇すると、他金属を混ぜて鋳工せざるを得ず、朝廷が定めた金属配合
 を守らなかった事による罪に問われ、多くの諸侯が廃嫡される結果となり、郡国の力は大きく削がれる
 事になりました。
  後に郡国での鋳銭を禁止します。鋳銭権を朝廷のみとした事により、郡国の経済力を完全に抑え込む
 事と同時に粗悪な私鋳銭の流通を防止する事ができ、安定した時代がしばらく続きます。
  しかし、西漢(前漢)末期には度重なる災害や政治の腐敗等により不安定な時代になり、再び粗悪な
 私鋳銭や五銖銭の外輪を削り取った「剪輪銭」が大量に流通する様になりました。

西漢(前漢)時代の五銖銭は鋳工時期及び幣型の特徴により、下記の様に分類されます。

1.郡国五銖銭
2.
赤側五銖銭
3.
三官一型五銖銭(武帝三官五銖銭、昭帝三官五銖銭)
4.
三官二型五銖銭(宣帝三官五銖銭)
5.
三官三型五銖銭(元帝三官五銖銭、晩期三官五銖銭)
6.小五銖銭

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