大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。
【Tourist guide to Jinaimachi town, Tondabayashi, a histric district and heritage site of Japan, residence of the Nakamura family, Page 1/2】 | |
八棟(やつむね)造りの母屋(座敷) |
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仲村家の家紋を埋め込んだ切妻面の通気口 「三階菱」(表紋、左側)と「蔓柏」(裏紋、右側) |
仲村家の家紋を埋め込んだ切妻面の通気口 「三階菱」(表紋、左側)と「蔓柏」(裏紋、右側) |
家紋「三階菱」をあしらった暖簾 |
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表屋(おもてや)造り(外観修景後) |
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外観修景工事完了後の厨子二階(つしにかい)・虫籠窓(むしこまど) |
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外観修景工事以前の厨子二階(つしにかい)・虫籠窓(むしこまど) |
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表屋(おもてや)造りの母屋(外観修景前) 手前(右手)が店の建屋、奥(左手)が居間の建屋 |
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寺内町せんべいの図柄にも取り入れられている。 |
竹格子の円窓 |
仲村家の家紋「蔓柏」が刻まれた丸瓦 |
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河内酒造仲間「定」版木 (仲村家所蔵) |
紅梅酒徳利(江戸時代後期、仲村家所蔵) |
仲村家住宅(続き) | |
吉田松陰 仲村家に滞在 - 嘉永六年二月・三月 | |
歴史逸話 富田林と天誅組 |
大阪府有形文化財
(平成2年3月指定)
非公開
建築年代
1782-1783年 (天明2-3年)
所在地
富筋・西林町
歴史(由来)
富田林寺内町のほぼ南端に位置する旧家で、かつては屋号を「佐渡屋」と称し、享保19年(1734年)以降は徳兵衛を名乗ってきました。初代徳右エ門は富田林八人衆の子孫に当たると伝えられる。
旧来の家業は明らかではありませんが、正徳5年(1715年)に酒造株を取得後は、造り酒屋として著しい発展を遂げ、天明5年(1785年)の酒造米高は河内国で最高の2135石に達した。寛政4年(1792年)には江戸市場を対象とした酒造業の理事長に当たる「河内一国江戸積大行司」となった。江戸・徳川家にも献上された。当時の流行り歌にも、「一に杉山、二に佐渡屋、三に黒さぶ 金が鳴る」と唄われたと伝わります。松尾大社(京都嵐山)の参道両脇に並び
立つ石灯籠の中にも、和泉国・仲村家(佐渡屋)の名前が刻まれた石灯篭が献上されています。寛政4年の古図によると、広大な敷地に母屋をはじめ、酒蔵、土蔵など数多くの建物があったことが描かれており、往時の繁栄ぶりを窺うことができます。
しかし、明治初年に酒造業を廃したため、諸施設は次第に取り壊され、現在では母屋と一部の付属屋を残すのみとなっています。
屋号
佐渡屋
建物の特徴
屋敷地は一区画を占める。母屋は表屋(おもてや)造りで、 北側に、土蔵、乾蔵(道具蔵)、米蔵、中蔵、醤油漬物蔵などが残る。出格子に竹格子入り丸窓など凝った建築様式。母屋の建築年代は普請入用帳から天明2-3年(1782-83年)であることがわかっており、母屋西側の店部分や南に続く3室の別屋敷も同時期のものである。
座敷の屋根の作りは大変立派で、棟を3つも4つも組み合わせて作られており、「八棟(やつむね)造り」と呼ばれています。
この屋敷には文人墨客が数多く訪れ、長州藩士の吉田松陰や、頼山陽も訪れたと言われています。
母屋の屋根切妻部分には仲村家の家紋である「三階菱」(表紋、左側)と「蔓柏」(裏紋、右側)をそれぞれ意匠に取り入れた通気口があります。「三階菱」の家紋は、屋根の丸瓦の文様にも施されています。
また、通りを挟んだ向かい側の上野家住宅は、元々仲村家別宅であったもので、屋根丸瓦には仲村家の家紋「三階菱」が入っています。
仲村家住宅の母屋は、現在保存のため、仮屋根で覆われています。
表屋(おもてや)造り
町家で、表通りに面して店を構え、奥に平行して居室棟を立て、両者を幅の狭い玄関棟で接合する建築形式。
八棟(やつむね)造り
近世初期の民家で、入母屋(いりもや)の瓦屋根をのせた棟を多くもつ豪壮なもの。
厨子二階
(ずしにかい、つしにかい)
塗り屋造りの瓦葺き農家の、天井の低い二階のこと。関西地方に見られる。
虫籠窓(むしこまど)
塗り屋造りで塗り格子を付けた二階の窓をいう。厨子二階の通気孔から発生したと考えられている。町家でも多く用い、文様や商標を形どったものがある。
寺内町の建築様式 |
屋根・屋根瓦 |
虫籠窓 |
格子窓 |
土蔵 |
煙だしの越屋根 |
鐘馗さん(魔除けの瓦人形) |
袖うだつ |