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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

とんだばやし歴史散歩(祢酒太郎著)


吉田松陰 仲村家に滞在 - 嘉永六年二月・三月
 
大阪府有形文化財・仲村家住宅
 
大阪府有形文化財・仲村家住宅

嘉永六年(1853)六月三日、米国使節ペルリが艦船四隻をひきいて浦賀に入港した。この年、吉田松陰は浦賀に出かけて行くのであるが、その途中、二月十四日から二十三日までと、三月十八日から月末までの二回にわたって、富田林に来て、現在の仲村誠一さん宅で滞在している。当時、松陰はまだ二十四才であった。 

松陰は正月二十六日、長州萩城を出発して、瀬戸内海を舟で、錦帯橋、宮島、金比羅等を周遊し、大阪安治川口に着いたのは、二月十日である。大阪で二日間過したあと、十二日に四天王寺から河堀口に出て平野に入り、大和川に沿って藤井寺に出た。それから野中、古市を経て、山田村から竹内峠を超えて大和に入り、十三日に五条の碩学森田節斎を訪ねている。富田林には、十四日、節斎の案内で五条から千早を超えて来ている。

松陰は大阪から大和へ出る途中、河内で見た春の田園風景や、河内木綿の河内縞を織っているようすなどくわしく日記「癸丑遊歴目録」に書いている。 富田林に来た日の日記には、つぎのように記されている。

「十四日、晴、節斎に従ひて錦部郡(筆者註-石川郡のあやまり)富田林の仲村徳兵衛の家に至る。増田久左衛門も亦従ふ。五条の駅を出でて千早に登る。山は頗る高峻にして、千早城ははてに在り。金胎寺・赤坂・嶽山の数砦、前に列り、連珠の塁を為す。山を下れば即ち千早村なり。村を過ぎ、富田林に至る。行程六里。和を出でて河に入る。其の界は千早嶺の背にして、昨過ぎし所の竹内越と相連る山脈なり。富田林は八百戸、河内の国は石川を以て界と為す。即ち大和川の上流にして、上河内・下河内と日ふ。甲斐の庄喜右衛門は楠公の後にして、河内の錦郡四千石を食采せしと言ふ。夜宿す。十五日、晴、尚ほ滞まる。董其昌(とうきしょう)・趙礼叟・空海の書、及び雪舟の画龍虎を観る。皆希(まれ)に覩るもの、節斎先生甚だ賞嘆す。・・・」 

仲村徳兵衛は当時、酒造米高千九百二十石で、河州きっての酒造家で、今の酒造組合の理事長にでも相当する河内の国数十軒の酒造家の大行司をしていた。徳兵衛氏の宅には文人墨客の出入りも多く、徳兵衛氏はこれらの客から天下の情勢を知る資料も多く手に入れ書写している。美術品の蒐集も多く、明治十年堺で開催された博覧会にも仲村家から貴重な美術品が出品されている。だが、明治二十二年、戸長から初めて富田林村の村長になられた仲村一郎氏の時代に相当処分され、松陰や節斎が嘆賞した空海の書や雪舟の絵は現在残っていない。ただ明末の書画家として、中国第一流の名を得た董其昌(とうきしょう)の書だけは、今も所蔵されていて、この軸を通じて仲村家に松陰が来たことを偲ぶ唯一の資料となっている。 

松陰はこのあとの日記で、仲村徳兵衛氏からでも聞いたと思われる伊勢の国、神戸(かんべ)藩のことを書いている。神戸藩はその頃、富田林村に隣接する甲田村や新家村・伏見堂村・廿山村・板持の一部を領有支配していた。河州に七千名の領地を持っていた神戸藩も藩の財政に苦しみ、「金百両を出せば、苗字、帯刀を一代限り許し、百五十両出せば苗字は世襲、帯刀は一代限り、二百両出せば苗字、帯刀とも世襲、二百五十両では苗字、帯刀、持槍世襲、三百両になると、苗字、帯刀、槍、騎馬世襲」としたので、七千石の地から三千両が入り、国債はすっかり返済することができたことに松陰は関心を寄せている。松陰は二月十四日から二十三日まで滞在し、そのあと和泉に出て、岸和田藩の教習館で先生をしていた相馬一郎に会い、熊取や岡田を訪ね、三月十八日午後、堺から再び富田林に帰って来ている。それから三月末まで滞在して、晦日に富田林を発して大阪に出ているのだが、日記にはその滞在中、何を見聞し、何を教えたのか、一切書かれていないのは不思議でならない。

奈良本辰也氏著「吉田松陰」(岩波新書)によると、松陰は嘉永四年(1851)三月、藩主に従って江戸に留学し、一代の傑物、佐久間象山に師事した。このことが一大転機となって、東北の旅に出たあと、亡命の罪に問われ、富田林に来たときの松陰は、士籍を削られ、世禄を奪われ、全く一介の浪人であった。松陰がこの旅に出られたのは、松陰の失脚を惜しんだ藩主から特に父百合之助に対し、十カ年諸国遊学の願い出をするように内命があったからである。松陰は第二回目の江戸遊学の途中、各地の知名の士を訪ね、五月二十四日、江戸入りをするが、それから十日後には、江戸はペルリ艦隊の浦賀入港で、混乱の渦がまいていた。その中で二十歳の松陰は佐久間象山と連絡し、ひそかに浦賀へも出かけて「賊艦」の装備や動静を調べている。 

松陰が富田林を去って十年後、神戸藩の支配下にあった甲田村から水郡善之祐を筆頭に天誅組河内勢が出ている。仲村徳兵衛の次男、徳治郎は松陰の滞在中、毎日近づいて給仕をしていたが、当時十五、六歳であったこの少年が十年後、天誅組の一員として義挙に参加した。また、仲村家のすぐ近くで塾を開いていた辻幾之介も徳治郎と共に活躍した天誅組の有力な志士の一人であったことを思うと、松陰の富田林での滞在が地元の人達、特に青年に与えた影響は大きなものであったのではなかろうか。
 
「とんだばやし歴史散歩」祢酒太郎著  (富田林市立中央図書館蔵書)
昭和51年(1976年)11月3日発行
昭和52年(1977年)11月10日第2版

祢酒太郎氏略歴
1917年 富田林市富田林町に生まれる
1947年 京都帝国大学経済学部卒業
1970年 富田林市役所市史編集室長
1974年 河南町助役
1976年 河南町助役退職
研究発表
1975年 大阪歴史学会・地方史研究協議会編
    「地域概念の変遷」(雄山閣)
     第二部文化財保存
     「富田林・文化財保全の問題点」
寺内町の成立と歴史  歴史逸話
寺内町の成立と歴史 宗教自治都市
寺内町の成立と歴史 在郷町としての発展

寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退
寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退(昭和40・50年代の頃)
吉田松陰 仲村家に滞在 - 嘉永六年二月・三月
桜田門外の変と富田林の木綿問屋
大久保利通が杉山邸に来たこと
郡役所新築に対する葛原氏の意見書 明治十八年
富田林開発記念碑 興正寺別院
木沢与平氏の「年代記」
富田林駅前の「楠氏遺跡里程標」
浄谷寺の釣鐘
歴史的建造物(一覧)・建築様式 
歴史的建造物一覧(寺院・町家)
歴史的建造物一覧(寺院・町家)(続き)
歴史的建造物一覧表(寺院・町家)
寺内町の建築様式
寺内町の建築様式(続き)
寺内町の町割(都市計画)・交通 歴史的町並み景観の保存・地域コミュニティー活性化
寺内町の町割(都市計画
東高野街道と石川の舟運
寺内町の入口(街道口)
歴史的町並み景観の保存
歴史的町並み景観の保存(続き)
富田林寺内町をまもりそだてる会
地域活性化への取り組み
 「カラー 歴史の町並」(文・那谷敏郎 写真・橋本治朗、淡交社刊、1975年初版)
既に絶版になっている書籍ですが、富田林市中央図書館の蔵書の中から見つけた1冊です。全国各地の歴史的町並みを著者が訪ねて書かれた紀行文で、富田林にも足を運んでおられます。富田林寺内町の歴史について、エッセー風にわかりやすい文章で記されており、小生のお気に入りです。出版社である淡交社編集部の事前許諾を頂戴しましたので、抜粋・引用の上、紹介させて頂きました。 (2012年9月10日、管理人)

Information


(富田林市提供、禁無断転載)

富田林寺内町への道順
寺内町へは近鉄長野線富田林駅又は富田林西口駅下車徒歩10分です。先ずはじないまち交流館へお立ち寄りください。

散策地図がもらえます
富田林駅前の観光案内所又はじないまち交流館散策地図がもらえます。

立ち寄ってみたいお店

休憩所(トイレ)
じないまち交流館寺内町センターじないまち展望広場にあります。

車でお越しの方へ
寺内町は道幅が狭く、中には公共駐車場がありません。車でお越しの場合には、2014年2月に新しくオープンした富田林市営東駐車場(有料)をご利用ください。一般用の普通乗用車及び団体用のマイクロバス(1台分、市役所に要事前予約)を駐車できます。重要文化財・旧杉山家住宅まで徒歩5分、じないまち交流館まで徒歩15分。

尚、団体用の大型観光バスでお越しの場合は、富田林市役所にお問い合わせください。宜しくご協力をお願いします。


興正寺別院
真宗興正寺派に属し、富田林・寺内町の成立と発展の中心となった寺院です。地元の人からは御坊さん(富田林御坊)として親しまれています。応永年間(1394-1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。 永禄3年(1560年)に京都・興正寺第16世証秀上人が現在地に移建。

重要文化財・(旧)杉山家住宅
杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家でもあります。昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理しています。


(南)葛原家住宅・三階蔵
酒造業で栄えた商家。三階蔵は日本に少ない貴重なもので、寺内町のランドマーク的存在。各層に庇を廻し本瓦葺き。妻を表に向けて白壁を際立たせている。年貢米を入れる蔵であった。1854年建築

ボランティア・ガイド


団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)

ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。


じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館)

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