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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

重要文化財・興正寺別院 (富田林御坊)(本堂・障壁画・欄間彫刻)

Tourist guide to Jinaimachi town, Tondabayashi, a histric district and heritage site of Japan, Koushouji BetsuinTemple Page 2/5
興正寺別院は富田林・寺内町の成立と発展の中心となった浄土真宗(一向宗)の寺院です。地元の人からは御坊さん(富田林御坊)として親しまれています。

2014年5月、文化審議会は文部科学大臣に対して、興正寺別院本堂、対面所、鐘楼、鼓楼、山門、御成門の6棟を国の重要文化財に指定するように答申しました。その後、2014年9月18日に重要文化財として登録されました。浄土真宗の寺院本堂として大阪府内で最古の建造物であること、古い時代のお寺の伽藍配置が良好に保存・維持されていること、大阪府下で唯一の、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている富田林寺内町の中核となっているお寺であることなどが高く評価されました。
富田林道場とも呼ばれ、本堂内部は外陣が内陣に比して大きいのが特徴。  本堂(外陣・内陣)
富田林道場として建立され、外陣が内陣に比して大きい。
① 本尊阿弥陀如来立像 (伝鎌倉末,伝春日仏師作)
② 親鸞聖人像
③ 開山聖人(証秀上人)像
④ 華園摂信(本寂上人)像
をそれぞれ安置する。

御本尊の阿弥陀如来立像 (須弥壇の中央)

親鸞聖人像 (御本尊の右手)

 興正寺第16世・証秀上人像(御本尊の左手奥)

本寂上人像 (御本尊の左手)
 竹梅図 (狩野寿石秀信筆)
本堂襖絵「竹梅図」
幕府御用絵師・狩野寿石秀信筆
松図 (狩野寿石秀信筆)
 本堂襖絵「松図」
幕府御用絵師・狩野寿石秀信筆
 
本堂襖絵「竹梅図」と欄間彫刻
 
本堂襖絵「松図」と欄間彫刻
 
「考感動天」(考、天を感動す。第1話)
正面に向かい右手から見て第1番目

「大舜(たいしゅん)」

中国五代の五帝のひとり。幼い時に母が亡くなり、眼の不自由な頑固者の父や、心がいじけた継母や、傲慢で怠け者の弟からあらゆる虐待を受け、何度も殺されかけた。しかし、舜は恨まず、いつも変わらず従順で慈愛をもって接した。天はそのような舜を見捨てず、田に行くと象が現れ耕し、鳥が来て田の草を取って助けた。村人や動物の助けで田はどんどん大きくなって国中に知れ渡った。時の皇帝堯(ぎょう)は舜を評価して、娘を嫁がせ皇帝の座を舜に譲った。「虞(ぐ)」の国の皇帝になり、人は大舜と呼んだ。
 
「聞雷泣墓」(雷を聞きて墓に泣く。第16話)
 正面に向かい右手から見て第2番目

「王裒(おうほう)」

晋の時代の王裒の父、王義は時の皇帝の怒りに触れて罪もないのに死刑になった。王裒はこれを恨み、皇帝のいる方角には背を向けて座った。父の墓の前で礼拝し、傍らにあった柏の木にすがり泣き続き、柏の木は枯れた。母が死ぬと、雷の時は雷嫌いの母の墓に行き「安心するように」と言って、見守った。死後の孝行すらこのようなものだから、生きているときはどのようであったか。 
 
「爲母埋兒」(母の爲に兒を埋む。第9話)
正面に向かい右手から見て第3番目

「郭巨(かくきょ)」

漢朝の時代。河内の郭巨は貧しい中で妻と母を養っていた。子が生まれ三歳になると老いた母が自分の飯を孫に与えていたので、妻に「わが家は貧しく孫に食事を与えていたので、母は飢えている。子は再び授かることもできるから、この子を埋めて母を養おう」妻は泣いて夫の命に従った。郭巨が涙を流しながら地面を掘ると、黄金の釜が出て「孝行な郭巨にこれを与える。他人は盗んではならぬ。」と書いてあった。郭巨と妻は天に感謝し、子を連れ帰り、さらに母に孝を尽くした。
 
「刻木事親」(木を刻して親に事う。第12話)
正面に向かい右手から見て第4番目(中央)

「丁蘭(ていらん)」

丁蘭は後漢の時代に黄河以北の河内(かだい)の野王に住んでいた。母が十五歳の時に亡くなると、母の木像を作って生きている人のように御堂に安置し、三度の食事を供え礼拝した。丁蘭の妻が心ないことに木像を焦がすと、木像は腫れて膿血が流れ、妻の顔も腫れ出し髪の毛が全て無くなってしまった。妻の不実に離婚も考えた。彼女が詫びると、一夜のうちに風雨の音がして木像が元通りになった。 
 
「攫虎救親」(虎を攫めて親を救う。第19話)
正面に向かい右手から見て第5番目

「楊香(ようこう)」

晋の時代に住む十四歳の楊香は父と田に行く途中、山深く分け入った。たちまち虎が現われて襲いかかった。楊香は「父を虎に食べさせないで、自分を虎に食べさせてください」と天に祈ると、虎はおとなしく尻尾を巻いて帰った。父子は無事下山できた。天が楊香の孝行心を知り奇蹟が起きたのだ、と村人たちは噂した。

 
「乳姑不怠」(姑に乳やりて怠らず。第23話)
正面に向かい右手から見て第6番目

「唐夫人(とうふじん)」

唐の時代、博陵に住む崔山南という節度使の妻、唐夫人は姑の長孫夫人によく仕えた。姑の歯がなくなると自分の乳を飲ませ、毎朝姑の髪を漉き、顔を洗い、身支度を整え、献身的に世話した。或る日、患って臥していた長孫夫人はみんなを集め、「唐夫人の恩に報いず死ぬのは心残りで辛い。みんなが唐夫人を見習えば我が家は末まで繁栄するでしょう」と言った。これほど姑に孝行な嫁は過去においても現在においても稀だと、人はみんな褒め称えた。夫の崔山南は出世して高官になった。 
 
「哭竹生筍」(竹に哭きて筍を生ず。第20話)
正面に向かい右手から見て第7番目

「孟宗(もうそう)

孟宗の母は老いて病み、冬に筍を食べたいと言う。雪の中を孟宗は竹林を歩き祈った。にわかに大地が開け、筍が現われた。母に筍汁を作って与えると元気になり、長生きした。孟宗は後に出世し、土地と人民をつかさどる司空になった。孝行の深きに天が感応する。孟宗竹の語源はここから生まれた。  
重要文化財・興正寺別院(富田林御坊)
重要文化財・興正寺別院(富田林御坊)本堂・障壁画・欄間彫刻
重要文化財・興正寺別院(富田林御坊)山門
重要文化財・興正寺別院(富田林御坊)鐘楼
重要文化財・興正寺別院(富田林御坊)鼓楼


Information

歴史(由来)
応永年間(1394-1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。 永禄3年(1560)に京都・興正寺第16世証秀上人が現在地に移建。地元の人からは御坊さん(富田林御坊)として親しまれています。2014年5月に本堂、鐘楼、鼓楼、御成門など6棟が国の重要文化財に指定されました。

本堂
寛永15年(1638)再建。本堂は江戸時代には寺子屋として利用され、現在の市立富田林小学校の前身である。戦前には開基祭に小学生が学校から参拝し菓子を配り、通りには出店が開いて祭りが催された。第2次大戦中、大阪市内の平野国民学校の学童疎開受け入れを行った記録が残っています。

障壁画「松図」「竹梅図」
富田林・寺内町の寺院や町家には江戸時代の絵画や書も多く残されています。寺内町の成立・発展の中心となった興正寺別院の本堂 (外陣)には、江戸時代の狩野派画家・狩野寿石秀信筆の襖絵  (障壁画)である、「松図と「竹梅図」がそれぞれ残されています。

狩野寿石秀信は幕府御用絵師として、御所、東福門院御所、東宮御所、仙洞御所、江戸城、大坂城、二条城等の公の画業に携わり、華々しく活躍しました。興正寺別院の襖絵の制作年代は、興正寺別院が永禄4年 (1561年)に建立された後、寛永15年(1638年)に再興されましたが、内陣の欄間彫刻や仏壇まわりが元禄5年(1692年)に改造されているので、この頃の制作かと思われます。「忠臣蔵」でおなじみの元禄14年(1701年)、浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた場所が、俗称江戸城本丸”刃傷松の廊下”で、この廊下の”松”を描いたのが寿石秀信でした。

(注記)大阪芸術大学資料 (1997年6月発行)より一部を引用させて頂きました。

戦時中の学童疎開
大阪府南河内郡富田林町(当時)は、1944年8月下旬に始まる大阪市学童集団疎開の府内における受け入れ地のひとつであり、東住吉区の平野国民学校と育和国民学校から同年9月17日に集団疎開が実施されました。寺内町域にある西方寺、興正寺別院、妙慶寺、浄谷寺などを含む11か所には平野国民学校から学童448名、派遣教員15名、寮母14名、作業員12名の受け入れが行われたとの記録が残っています。興正寺別院本堂には平野国民学校の5年男子65名が逗留したそうです。近鉄富田林駅周辺や石川河川敷には本土空襲が激しくなった時期に艦載機からの機銃掃射が行われましたが、寺内町域は幸いにも戦災から免れました。(参考資料)「大阪河内の近代-東大阪、松原、富田林の変貌」(大谷渡著、東方出版 2002年5月)

また、興正寺別院・院主(華園勝文氏)からお伺いした話では、本堂障壁画の表面に残る一部の擦れ傷はこの時の学童疎開の児童が残したものだそうです

中国故事「二十四孝」欄間彫刻
興正寺別院本堂内部正面の内陣と外陣の境にある欄間(蟇股、かえるまた)には、中国故事「二十四孝」に由来する7話を題材にした欄間彫刻が施されています。「二十四孝」は、今から約700年前、中国・元の時代に郭居敬という人が、家庭教育、それも特に幼児教育のために、24人の孝行者の物語をまとめたもので、登場人物は上は皇帝から庶民各層にわたって採録されています。江戸時代には寺子屋では日常のしつけの教科書として使われていました。

(注)
右記の説明は而立書房刊「絵本二十四孝物語」(縷衣香(るいこ)著、2009年)から引用させて頂きました。(管理人)

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