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   遍路の旅は

今回の遍路の旅は
  1番霊山寺  出発    5月26日
  88番大窪寺 結願    7月12日
  1番 霊山寺 お礼参り 7月13日
総日数 49日であった。

出発してじきに、帰ったら「四国はどうだったか」という質問をされるだろうと推測した。しばらくこの質問にどう答えるかを歩きながら考えていた。60年間の心の錆落としという回答でも出来ればいいのかという気もしていた。しかしどんな錆がへばりついているのか自分ではよく分からないし、この旅で錆が落ちるのかどうかも分からない。よく遍路旅は「自分探しの旅」とか「癒しの旅」とかいわれる。しかし、歩けば自分が見つかるというものではあるまい。相当に悩み抜いて右にするか左にするか程度に考えを絞り込んでそれでも決めかねて旅の中で考えるなら答えが見つかるかも知れないが、ろくに考えもしなくてただ自分探しの旅でございます、答えを下さいだなんて言うのは馬鹿げている。癒し?、こんなにつらい毎日が何で癒しの旅だろう。で結局どういう旅になるかと考えることを捨てた。たぶん旅の終わりに、この旅は何だったかが見えてくるだろう。見えなかったらそれまでのこと。空しさだけが残るかも知れない。まあ、それでもいいか、スタートしてしまったのだから。

お寺の本堂や太子堂では60年間生きてこられたことに対するお礼を心の中で唱えながらお参りした。どの辺からだろうか、生きてこられたということはその間大勢の人にお世話になったし、また大勢の人に迷惑をかけながら生きた来たということでもあるということに思いいたった。ならば、自分が生きて来られたことに感謝するのではなく、お世話になった人へのお礼と迷惑をかけた人へ慚愧の念を込めてお参りするほうがより具体的ではないのか。
それからはどのお寺でも本堂ではそんな気持ちでお参りさせてもらった。

四国の人が遍路に対してどんな思いでいるかは正直よく分からない。声をかけてくれる人やお接待してくれる人もいれば無関心な人もいる。手を合わせてくれる人がいたりすると、こちらとしては本当に気恥ずかしくなる。信心で旅に出ているわけではないのでそんなにしてくれるなと心の中で思ったりする。
この時期なら遍路も比較的少ないから、遍路のことを気にとめてもらえるかも知れないが、春のシーズンで遍路がぞろぞろ歩いていたら地元の人もいちいち気にしてなどいられまい。下手にお接待でもしようものなら、お接待している最中に次の遍路がやってきたりして、接待を受けている遍路の横を接待されない遍路が通り過ぎるという場面だってありそうだ。そうなったら接待する人もバツが悪いだろうなんてよけいなことまで考えたりして。
だから、無関心でいてくれてもそれはそれでいいんだと思うようにはした。

でも、お接待する人というのは不思議だ。こう言ってなんだが、金のありそうな人よりなさそうな人にお接待を受けることがいかにも多いというのは一体どういうことなんだろう。しかもお年寄りに頂くというのは。間違いなく向こうより自分の方がまあ金はあるだろうなと思える人からお金のお接待を受けたりするとホントに切なくなる。そんな感じの人とすれ違いそうになると、「お接待してくれるな」と思ってしまう。
いろんな思いのお接待に感謝しつつ、大師堂ではその人達の顔を思い出しながらお参りもした。

仕事を辞め、時間的に全く制約されない旅であった。いつ旅を止めてもいいし、いつまでに結願しなければいけないという目標もない。しかも今日どこまで行くかも不確か。時間と空間を意識しない旅だとつくづく思った。
神峯寺の先、民宿住吉荘に泊まったときのこと。夕食後ふらっと夜の海辺に出た。夕方まで雨が降っていて空はどんよりしていた。波が海岸にうち寄せる白さがかすかに闇の中に浮かぶ。灯台の点滅する灯が遠くに見える。空を見上げると雲の合間に飛行機の明かりが揺れ動く。聞こえるのは波の音だけ。手すりにもたれながらしばらくじっと耳を澄まし、目を凝らす。もともと旅ってこうしたものではなかったのかとふと思えるひとときだった。
今日は何をしなければならないとか、いつまでに何をしなければならないという制約が一切ないというのは会社勤め時代にはおよそ考えられないことだ。もっとも会社を辞めてからはそれに近い生活ではあった。
これが旅の醍醐味かも知れない。そうだったから通し打ちが出来たのかも。

そういえば追い越されることはあっても追い越すことはほとんどない旅だった。メモを見ていたら一組の夫婦を追い越したという記録があった。やっぱり追い越せる人がいて嬉しかったのかも知れない。そのときのことを思い出した。向こうに二人ずれが見え、歩くにつれて距離が狭まってくる。追いつける!。その姿を見ていて足が軽くなり体に力がみなぎってくるのを感じたものだ。これが悲しい人間の性というものか。

「どちらからですか」と聞かれ「長野からです」と答えるとそのあとの話は大体こんなことになる。
「遠くからおいでですね」 「善光寺に行ったことがあります」 「あの田中知事の長野県ですね」とまあこんな具合である。
なかには「上高地に行きました」とか「黒四に行きました」とか言ってくれる人もいる。ともかく長野県のお陰で話題には事欠かなかった。ある接待所に寄ったときには、田中知事の話ですっかり盛り上がり30分以上も話し込んだこともあったっけ。
田中さん感謝しています。

ほとんど毎日「般若心経」をあげる。昔、般若心経の解説書を読んだことはある。の解釈に気を取られていた気がする。それでもよく分からないお経だ。今回これだけ般若心経を唱えるのだからもう一度解説書に目を通してみようと思い立ち、徳島で瀬戸内寂聴の本を買う。わかりやすそうに解説してあるがいまいち腑に落ちない。お経というのは聖書ほど平易ではない。仏教というのは哲学的な教えだと思う。難しいのは例えば 不生不滅 不垢不浄 不増不減 というように相反する概念を併記するとか 無無明 といいつつ 無無明儘(この字は正しくないが) といい、また 無老死 といいつつ 無老死儘 と一つの考え方とそれとは相反する表現がそこらじゅうにちりばめられているためだ。一言で般若心経はとらわれない心を説いたお経とよく言われる。しかし般若心経をそのように定義をしてしまうと、実はとらわれないということにとらわれてしまうという矛盾が起きる。確かにとらわれない心が悟りに導くものであるということを説いているらしいという察しはつくが。
遍路をして200回以上も般若心経を唱えたがついに暗唱は出来なかった。ところでなぜ冒頭の 観自在菩薩 の所を カンジザイボサ と読んで ボサツ とは読まないのだろうか。私は最後までボサツと読んで通した。理由はカンジザイボサ と読むということを知らなかったからなのだが、他人が唱えているのを聞いていると確かにカンジザイボサと聞こえた。なぜを入れないのだろう、の音が自分には聞こえていないだけなんだろうかといぶかっていた。

あれは日和佐を出て峠道にある海産物専門の店でのこと。
店先にいすが置いてあったのでそこで小休止させてもらおうと荷物を下ろした。そしてトイレを借りに店の中に入った。トイレから出るとテーブルの上にお茶とお菓子のお接待が用意してあった。それを頂き小休止してから店の奥にお礼の声をかけて外へ出た。そのとき店の人は奥にいたため顔を会わすことはなかった。店先に置いたザックを背負い歩き出そうとした。その時何となくもう一度挨拶してから失礼した方がいいと思い直し、入り口から店のなかに向かって大声で「ありがとうございました」と礼を言った。歩き出してややあって、後ろから店のおかみさんの「お遍路さーん、忘れ物です」と言う声。えーっと思って振り返ると、金剛杖を持ってこちらに合図している。あっ・・・忘れた。
あわてて引っ返す。金剛杖を柱の陰に立てたばっかりに出発するときに見落としていたのだった。慌てて金剛杖を受け取り再び礼を言って55号線を歩き出した。
荷物を背負い店を出るときにお礼の声をかけなければ、おかみさんは店の外まで出て来なかっただろう。とすれば杖を忘れたことに気づかずにどこまで歩いていただろうか。冷や汗をかいた。それと同時に、自分の気持ちの中で頂いた親切にきちんと感謝の意を表すべきだと思ってした行為が報われたことも改めて感じた。お大師さんがそばで見ているのかも知れないと思い始めたのはあれからだった。  

旅が進むにつれて自分の心持ちが素になっていく気がした。頂いた親切に素直に感謝できるそして感動できる、そんな心持ちになっていくのが自分でも感得出来るようになってきた。今までお礼を言うときに「どうも」ですませていたものが「ありがとうございました」とはっきり言えるというのはいいことだと思った。仮にそれが遍路をしているときだけだったとしても。
まざりっけなしで感謝できる心、感動できる心。そんな心がまだ自分の中に残っていたことに気づいたことが今回の遍路旅最大の収穫だったことを旅の終わり頃に思い知らされた。
これが旅の初めに「四国はどうだったか」という質問に対する自分なりの答えとなりそうだ。



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