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  旅で会った人たち

遍路旅で何人かの人と行き会った。中でも心に残る人の話をしておきたい。


尼崎の佐藤さん

この人抜きにわが四国遍路は語れない。
佐藤さんとはなしにろ最初から最後までほとんど相い前後しながら歩いていたのだから。
初めてお会いしたのは初日の宿寿食堂。あそこの風呂で一緒になったのがそもそもの始まり。風呂で一緒になるのだからこの人は当然男性。同い年で自分の方が1か月先輩でした。

佐藤さんは初日が5番まで。初日だから歩く距離をほどほどにと言うことで、自分と同じ考えだなと納得。ところがここからが違っていた。翌日も10番までしか行かないという。これだと10kmちょっとしかない。案の定昼過ぎには宿に着いてしまった。なんでこれしか歩かないのかと聞いたら、事前のトレーニングでこのくらいしか歩いていないから最初は無理をしないのだという。理にかなっているといえばその通りなのだが、いささかあっけにとられた。3日目も11番の近くまでしか行かないという。いやはや。
もうこの人とは会うことはないだろうと思いつつ先に進んだ。所がである。なんと鶴林寺下の宿でばったり会ってしまった。何でだと我が目を疑った。その答えはすぐに出た。実は前日台風のため私は1日恩山寺下でまるまる停滞していたのだが、彼はその日も歩いていたのだった。それで追いつかれてしまったのだ。複雑な心境。

それから先はまさに追いついたり追いつかれたりの、野次喜多道中もどきになってしまった。宿であるいはお寺でばったり、なんてことがしょっちゅう。別に示し合わせて一緒に歩こうとしていたわけではない。それでもちょいちょい一緒になるのは向こうのペースが上がってきせいだなと感じさせた。
それでも何日か顔を見ないと、どうしているかな、どの辺を歩いているかなと気になる。

実は彼と私は同姓。宿に予約の電話を入れると、「さっき電話してきた方とは違うんですか」という反応で、あ・・今日は同じ宿だと分かることもたびたび。
そんなことが続いたので、お互い観念して横峰寺あたりからは一緒に歩いた。そして結局88番は一緒にゴールインしてしまった。
事こに至る前、「88番でばったり会うなんてことになったらお互い赤い糸に結ばれているってもんだね」と冗談を言ったら「男同士なんてごめんこうむる」と一蹴されたが冗談が冗談ではなくなってしまった。

同い年に関わらず、今でもスキーやスノボをやっているというから大したものです。
荷物を出来るだけ軽くするってんで、へんろみち保存協会の地図は今日必要な所だけを切り取り使い終わると捨てるという合理性には脱帽でした。自分にはそこまでの割り切りは出来ないです。
他人にはそれと気付かせないのだが、結構事前準備をしてきたみたい。宿の情報なんか完璧でした。

しかし振り返ってみると、一人で歩き通せたのはこの人の存在が大きい。一人で歩いていても今どこにいるかと気になる人や、どこかでまた会えるかも知れないという人がいると、独りで歩いているという孤独感が多少なりとも薄らぐ。こういう人がいなかったら歩き通せたかどうか分からない。
しかもお互いにあまり干渉せずに行けたことも良かったと思う。酒が飲める人だったらもっと良かったのにとも思ったが、そうだったら飲み過ぎでお互い大変だったかも。
ともかく誠にありがたい存在でした。感謝!感謝!。


愛媛の高田さん

この方とお会いしたのは足摺岬にある38番金剛福寺を打ち終えて戻った下ノ加江にある旅館「安宿」だった。高田さんはこれから38番に向かうところ。夜食堂で一緒になり夕食を共にした。高田さんはビールを二本注文した。この時のセリフが何ともふるっている。曰く、遍路旅は同行二人、一人で飲むわけには行かない。一本はお大師さんが飲み、もう一本は自分が飲むのですと。これは酒の好きな者にとっては格好の言い訳。その後ビールを2本飲みたいときに使わせてもらった。

高田さんは愛媛在住の方。地元では遍路を見かけて来たけれど、遍路をしてみて初めて遍路の気持ちが理解できたとおっしゃる。やっぱり外から眺めるのと中に入って見るのとではずいぶん違うんでしょう。意外に四国の人で歩いている人は少ないように感じた。時間を作っては車でちょこっと廻って、何回も廻ったという人には出会ったが私の道中で歩き遍路で四国の人とあと一組だけ。

私よりも遙かに一日の歩行距離が長いので早晩追いつかれると思っていた。再びお会いしたのは横峰寺に向かう途中。尼崎の佐藤さんと二人で歩いていたら先を行く遍路が見えた。その人が休憩したので顔を見るとなんと高田さんだった。この日高田さんは宿を早出したのだが、道を間違え1時間ほどロスしたらしい。世の中おもしろいもので高田さんが道を間違えなければずっと先を歩いていたわけで、おそらく再会することは無かっただろう。「道を間違えたのもお大師さんのお陰ですね」といいつつ再会を喜んだ。高田さんはここ8日間ずっと宿は一人だったというので、この日は同じ宿をとった。宿では当然お大師さんの分もビールを頂いた上に話に花が咲き結局ジョッキを4,5杯も空にすることになった。でも、楽しい晩でした。

その後も高田さんの方が先行するのだが、先に進みたくても宿が適当な場所にないため距離を稼げず、こちらが追いつくという展開を数回繰り返した。87番の長尾寺までちょいちょいお会いすることになった。翌日は88番の八十窪に同宿する予定だった。88番大窪寺への登りは別行動だった。こちらが88番に着いたときにはまだ高田さんの姿は見えない。思ったより早く着いてしまったので八十窪には泊まらず、その日のうちに10番まで戻った。そしてその翌日はもうお会いすることはないだろうと思いつつ1番まで戻り霊山寺前の旅館に荷を下ろした。旅館の外でお杖を洗っているとなんとひょっこり高田さんが現れた。これには本当にびっくりした。高田さんは88番から1番まで一気に戻って来られたのだった。40km以上も歩いたことになるだろうか。いやー大した健脚です。そしてその晩本当に最後の懇親会をやらせて頂いた。

高田さんは背中に尺八を背負いながらの旅であった。一度その笛の音を聞きたかったがついにその機会がなかったのだけは心残りでした。いつもにこにこしている温和な顔が今でも目に浮かぶ。3年後にまた遍路旅に出ると言っておられたのでまたお会いできるといいですね。


豊橋の後藤さん

この方は四国に行って初めてお逢いした遍路さん。
徳島から一番札所がある坂東駅に向かう電車に乗ったら仲間の方と二人で向かい側に座っていた。杖や菅笠を持っていたので一見して遍路だと分かった。同行の方は遍路道具は何も持たず初めての四国めぐりという印象だった。不可解だったのは、金剛杖が新しくなかったこと。区切り打ちだとすれば一番札所に行くわけがないのだが。などと思いながら坂東で降りた。
宿に荷を下して、遍路用品を揃えるため霊山寺横の一番街に入った。そうしたらそこでばったりまた会った。同行の方の用品を買い揃えていたのだった。
そこで初めて宿のことなど言葉を交わした。

初日、歩き始めてしばらくすると二人が先を歩いていた。追いついたので少し話をさせてもらった。後藤さんはすでに遍路の経験者で。二度目だった。同行の大村さんは初めてとのこと。このお二人は四国だけでなくそこいらじゅう歩き回っているらしい。愛染院で昼食を一緒にとったら、お接待のお接待といって、宿で頂いたおにぎりを分けてもらった。そこで納め札を交換した。納め札を他人に渡したのはそれが初めて。それからしばらく一緒に歩かせてもらったが、初日の宿は別だったので途中で別れた。

翌日10番切幡寺の下でまたばったり。こう何度も会っているとぐんと近親感がわいてくる。しばし立ち話して別れたがその後もどうしているかと気になった。しかしそれ以降一度もお会いすることがなかった。
そして結願した翌日、一番札所に戻る途中電話をした。電話がかかってきたこと自体びっくりしていたが結願した聞いてと二度びっくりの態。それでも結願したと聞いて「やったね、やったね」と我がことのように喜んでくれた。こんなに人のことを喜べる人がいるのかと恐縮しながらもすごく嬉しくなった。
8月にわが町に来るという。やっぱりこの近くを歩くんだそうな。「その日には必ずいるんだよ」と何度も念を押された。言われなくたって分かっていますよ。はいはい。

後藤さんは私より少し先輩、姉御肌の頼もしき女性です。

(後日のこと)
予定通り当地で再会した。四国でお会いしたときの印象そのまま。今回も大村さんとご一緒。2時間ほど話したがとても話しきれない。夜グループの方4名を含めて宴会。盛り上がりました。翌日から善光寺街道を歩くと言うことで半日ほど同行させてもらった。その日の夜もまたまた宴会。それにしても元気で気さくな方です。調子に乗ってずいぶん言いたい放題言わせてもらいましたが気に障ったことがあったらごめんなさいです。でも大村さんがオリーブなら後藤さんはやっぱりポパイですよ。(あらら!言ってしまった)
10月から区切り打ちの二回目で四国に行くという。 お気をつけて回ってください。また、お会いしましょう。


寿食堂のご主人

寿食堂は5番地蔵寺と6番安楽寺の途中にある民宿。遍路には名の知れた民宿だ。初日はここに泊まった。当日の宿泊は5名。夕食時民宿のご主人と奥さんがおられていろんな話をうかがった。ご主人は四国を10回近く回られたとか。仕事の関係もあって車で回られた様子だった。ここで聞いた遍路のイロハはそのあとの旅で役に立った。

投げ銭をしてはいけないこと。お賽銭は賽銭箱の斜めになっている板の上を滑らすようにして入れるのが礼儀。遠くから放り投げるのは禁物。
付け火をしてはいけない。他人がつけたろうそくにはつけた人のいろんな因縁がこもっている。他人の火をもらうことでその因縁をもらってしまうことがある。だから面倒でもろうそくの火は自分で点けること。
実は5番までは投げ銭、点け火を何気なくやっていた。この日以降はご指導の通りにやった。お寺で気を付けて見ているとなんと投げ銭や点け火の多いことか。

この方は結構霊感の強い人らしく、同宿したあるご婦人の肩こりを見抜いていた。ご婦人に付いている霊が飛んで来たらしい。そのご婦人の肩に手をやってなにやらやっていたが、その後肩が軽くなったとご婦人が言っていた。

四国遍路をすると病気にかかるという。なんじゃと聞いていたらそれを「お四国病」という。一度経験すると二度三度と四国に行きたくなる。癖になる病らしい。話を聞いたのは歩き出し初日であったのでそんなことがあるのか程度に聞いていたが、回り終えてみるとそういうことはあり得そうな気はする。歩きは辛くても、それ相応に得るものは多いから。でも私はまだそんな気持ちにはならないな。
大体徳島を出る頃になると、88カ所を回れるくらいの足は出来るとも言っていた。それは当たりだった。室戸岬に着く頃にはその気さえあればこのまま行けそうだという感触は芽生えていた。

ここでお接待ですと5円玉を頂いた。その5円はひもに通してザックにつるして歩き通した。22番平等寺で買い求めた足形のお守りとセットにしてつるしたが、歩くと二つがぶつかって適当にチリン、チリンと鳴る音は旅の友として疲れを癒してくれた。
結願して1番に戻る途中もう一度ここに立ち寄った。残念ながらご主人は見えなかった。代わりに娘さんらしき方が店に出ていた。結願の印ということで手ぬぐいを頂いた。いろんな民宿があるが、中でも気配りの行き届いている民宿だ。


内妻荘のご主人

23番薬王寺から室戸岬に向かう途中の民宿。この宿に日和佐から宿泊したいと電話を入れたら、日和佐からだと近すぎるからもっと先まで行った方がいいと言われた。確かに薬王寺から20km程だから近いと言えばその通りなのだが、まだ自分の足に自信が持てなかったし前日は30km以上歩いていたので疲れ休めの意味もあって泊めてもらうことにした。
早く着きそうだったので時間をつぶすため遠回りしたりした。それでも3時には宿の前に立っていた。声をかけても誰も出て来ない。民宿のすぐ前が海なので海の方に出てしばらく眺めていた。そのうち奥さんの姿が見えたので中に入れてもらった。

この日の宿泊者は自分一人、前日の日和佐も一人だった。10畳のゆったりした部屋に案内された。たった一人のために大きなお風呂を沸かしてくれたりで申し訳ないと思いつつ風呂に入った。洗濯物は出してくれれば洗っておくとのこと。洗濯物を洗ってくれる民宿はその後幾つかあったが、ここが初めてだったのでいたく恐縮した。そうこうするうちに6時になりご主人が晩ご飯の知らせに部屋にやってきた。それから予想外の展開になった。ご主人がそこでちょこっと腰を下ろし、遍路のことについていろいろ話し始めたのである。ご自身遍路のボランティア的なことをやっておられるのでいろんな情報を持っている。
今、88カ所巡りをされる人は年間20万人にも及ぶという。そのうち5%、1万人が歩き遍路。これは自分が聞いていた数値よりかなり大きい。そのことを言うと、ご主人は遍路の接待をするためにこのあたりを通る一日前の地点(日和佐あたり)でどれくらいの遍路が通ったかという情報交換をしているという。これには恐れ入りました。そんな情報をもとに人数に見合った接待の準備をされるらしい。その数値をもとに計算すると先の数字になるという。
とまあこんな話をし始めたらあっという間に30分過ぎてしまった。そこで「食事に行きますから」と言って食堂に行った。食堂に用意された食事の前に座ると、ご主人が横に座られる。で、またさっきの話の続きが始まった。へんろ道の整備やお寺の話。納め札がどう扱われているか、真言宗の話などなど。話は尽きることはない。気が付いたら9時。ビールは頂いたがご飯はまだ箸をあまり付けていない。食べ終わったのはなんと9時半だった。ご主人はまだ話したそうだったが明日があるので引き上げ布団に入った。

話した内容をつぶさにメモしていないのでいい加減忘れたが、最近30代の男性へんろが増えているという。これは離婚した男達がへんろに来るケースが増えているのだそうだ。我々のような退職組やリストラされた人が増えているというのは聞いていたが離婚でというのは初耳。もっとも女性ははっきり理由を言わない人が多いので離婚した男だけが増えているのかどうかは定かではないとのこと。

トンネル整備の苦労話は聞いていてそこまでやってくれているのかと感謝せずにはいられない気持ちになった。だいたいがトンネルは自動車が通ることしか考えられていない。歩道部分が極めて狭いところが少なくない。従って歩行者には危険だ。歩きへんろの安全に配慮して歩道部分を広げる活動をしたという。車道を狭くしてその分歩道を広げるのである。お役所などの協力を得ながら試行錯誤し、ドライバーの意見も聞きながら車道を狭めても大丈夫という判断が出て歩道を広げたところが幾つかあるという。へんろは貴重な観光収入源とはいうものの歩きへんろはほんの一握り。そのためにここまでしてくれるのかと思うと頭が下がった。
その後トンネルを歩くとき、ここもそんな苦労をした場所かなと思いつつ歩いたものだった。歩道が1m以上あるトンネルが各所にあった。これだけの幅を確保してもらえるとトンネルもルンルン気分で歩ける。

四国には自動車用のトンネルと並行して歩行者専用のトンネルがあるということを知った。
ここもその一つ、直線で7〜800mもあるすばらしいトンネルでした。


それから興味深いのはへんろマークのこと。道々についている道案内のへんろシールは有料販売なんだそうです。1枚300円とか500円とか。このお金はへんろみち保存協会に入り遍路道の整備に使われるとのこと。それはともかくとして、国道にはなぜへんろシールが貼ってある所が少ないか、ご主人の説明で分かった。国道は国土交通省の管轄。シールをガードレールなどに貼ることすら許可がいるらしい。勝手に貼ると保守の人がはがしてしまう。「きれいにはがしますよ」と言っておられた。お役所仕事とはやっぱり凄い。もっともへんろマークだから貼ってもいいと許認可の基準をゆるめると歯止めが利かなくなってしまうかも知れないけれど。
だから、国道はシールを勝手に貼りったりはがされたりのイタチごっこになっているらしい。国道筋でへんろマークを見たら頑張っているなと思いつつ見るべしだ。

翌朝、洗濯物を持って部屋にご主人が見えた。洗濯物を入れた袋に「カンカンラリ−」と書いてある。これはなんですかと聞いたら道に落ちている空き缶を拾って入れる袋だという。お遍路さんでこの趣旨に賛同してくれる会員を募集しているとのこと。お遍路さんが拾っている姿を見たら四国の人の空き缶投げ捨て防止に効果があるのではないかと考えているとのこと。空き缶を1ケでも2ケでも気が付いたら拾ってもらえればいいですからと。会員にはなれないが、今日くらいはお世話になったお礼に空き缶拾いをしましょうと言うことでその袋を頂き空き缶回収を始めた。(カンカンラリーの詳細は別項をご覧下さい)


内妻荘はご主人が大変印象深い方だったが、
行き届いた気配りもまた印象的だった。備え付けのタオル一つにしても、新しくはないが清潔そうなものを風呂場はもちろん各洗面台に配置してある。旅館は別にしても民宿でここまで配慮してあったところはほかになかったと思う。部屋からは波の音が聞こえた。夜はこの音を聞きながら眠りについた。
早朝、浜辺ではサーフィンをしている若者が見えたので浜に出た。若者達は空が明けはじめた頃からもう海に出ている。すこし立ち話をした彼らの顔が若者らしく生き生きしているのにほっとした。好きなことをしている時ってあんな顔になるんだね。

朝、宿を出てふっと見ると、ご主人が用意した無人の接待コーナーが国道の出口にあった。コーヒーやお茶がセルフで飲めるようにセットしてある。
あ、忘れていました。内妻荘の飼い猫がものすごく人なつっこいんです。部屋の中に入ってきてごろごろ転げ回っておりました。



お接待コーナー


こんな感じでした

いろいろとありがとうございました。


民宿みやこのご主人

前日41番龍光寺まで来てこの日は42番(佛木寺)を打ち43番(明石寺)に向かう途中だった。
高知を過ぎたあたりから、歩いていても当初のような緊張感が薄れていたし、お寺に行ってもだらっとしたお寺の雰囲気にかなり嫌気がさしていた。歩けばまだ歩ける。通し打ちは出来そうだとは思いながら歩いていたが、こんな調子で歩いていてもはたして意味があるだろうか、そんなことを考えながらの毎日だった。

この日は雨が降ったりやんだり、薄日が差したりのはっきりしない天気で、昼どきになったのでどこか食堂はないかと探していたときに目に入ったのが「みやこ」だった。前日出来ればここまで来たいと漠然と考えていたがとても時間的に無理で手前で宿泊することにした。で、食堂がその民宿「みやこ」だと気づいたのは中に入ろうとしたときで、それまではただ食堂があったという意識しかなかった。

先客が1名いて厨房の方にご主人と奥さんがおられた。食事を頼んでご主人と少し話をした。その時自分の充実感が欠如しつつある心の内を少し話したような気がする。「どこからですか」と聞かれ「長野県から」と答えると、宇和町に松本にある開智学校と姉妹関係にある開明学校というのがあると教えてくれた。開智と同じく明治初年に開校した学校であるという。

今日は宇和町に泊まるかさもなくば20km程先まで行かないと宿がないでしょ。でも20km先まで行くのはこの時間だとかなりしんどい。たまには肩の力を抜いて名所を歩くのもいいんじゃないですか。せっかく四国まで来たのだから。とご主人はおっしゃる。そうかも知れない。時間に追われるように、脇見もせずに歩いていたってしゃあない。一日何キロ歩いたなんてことはそうたいしたことではない。今日はそうするか、と決めた。
明石寺の近くに愛媛県の歴史博物館があるのでそこにも寄ればいい。ざっと見るだけでも2時間近くかかるという。それから開明学校に行ってから宇和町のどこか宿に入れば時間的には程々の所になるだろうと教えてくれた。

頼んだ食事を食べながらへんろ宿の話になった。いま民宿をやっている人はかなり高齢の人が多いから、これらの人が引退したらそのうちに歩きへんろなんて出来なくなるのではと、あるへんろさんが心配していたということが話題になった。確かにその通りで年老いたおばあさんが切り盛りしているところがかなり多い。昨日泊まったところも、おばあさんが不自由そうな体で二階まで食事を持ってきてくれた。思わず自分で持って上がりますと言ってしまった程だった。あんな人たちに支えられながら歩きへんろは成り立っていることは薄々感じ始めていた。
話は脇道にそれるが、民宿の善し悪しがへんろの間で必ず話題になる。確かに良いところ、そうでないところがある。しかしじっと見ていると悪いと言われるところでもそれなりに頑張っているという実感は相当ある。ただ、宿のご主人や奥さんの体がついていかないとか、経済的に改築したり設備を充実させたりするだけの余裕がないとかの理由からやもおえずそうなっているのではないのかと気の毒に思える。
態度の悪いお寺とは事情が違うので同一にはとても考えられない。

救われるのはここのご主人はまだ若いこと。話していてとても暖かいものを感じた。
店を出るときにお接待といって蜜柑を頂戴した。あとで頂いたが甘すぎず適度の酸っぱさがあって疲れた、乾いた体には最適な蜜柑だった。心配りに頭が下がった。

それから明石寺に行き、その後聞いたとおり歴史博物館に行ったら生憎休館日。仕方がないので開明学校に向かった。
(開明学校の詳細は「宇和町寄り道」をご覧下さい) ここではいろいろおもしろいことがあった。
あのご主人に寄り道することを教えられ、そうしてみてようやく心のゆとりを取り戻した思いがした。あの一言がなければ通し打ちが出来ていたかどうか怪しい。緊張感も心のゆとりもどちらも無くして歩くのを止めていたかも知れない。

この後、大洲、内子町の昔ながらの町並み、金比羅さん、栗林公園など適当に寄り道をしながらの旅を続けた。今から思うともっと寄っておけばというところもある。

今度また来ることがあったらここにぜひ泊まりたいと思っている。

      愛媛県宇和町 開明学校

       長野県松本市 開智学校

分け入っても分け入っても   重い荷物を背負って   雨に濡れても   いい顔とは
接待する人   鈴の音  内子町寄り道  宇和町寄り道  団体巡礼と野宿遍路   ポケットティッシュの接待