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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

富田林寺内町の見どころガイド (モデルコース)part 2/2

Tourist guide to Jinaimachi town, Tondabayashi, a historic district and heritage site of Japan - tourists' attractions Part 2/2
 
富田林寺内町の散策では、じないまち交流館から(旧)杉山家住宅まで、城之門筋に沿って、モデルコースをゆっくりと歩いてみて下さい。(所要時間約90分) 

富田林寺内町の見どころをご紹介しています。
(制作協力:中井隆洋様)
 
じないまち交流館富山町
12.重要文化財・興正寺別院の山門前にて

・興正寺本山(京都市下京区堀川通七条上る花園町70。西本願寺の南東に隣接)の別院。浄土真宗。当時は一向宗といった。1560年に証秀上人が、一向宗を広めるために(伝道のために)ここに来られて、町を造り、このお寺を造られた。

・寺院の格式:
お寺の壁塀の白い線(定規筋)の本数で分かる。本山は五本。普通は末寺で三本。ここは別院で四本。

・本堂は1638年江戸時代に建てられた。

・城之門筋という名前の由来:
この門は豊臣秀吉が建てた伏見城の一部であったと言われている。伏見城は直ぐにとり壊されてしまったが、そのときこの門は伏見城から京都の興正寺本山に移築されて、その後江戸末期に本山から富田林の別院に移築された。この門は非常に背が高い。武士が馬に跨って駆け抜けられるだけの高さを持たせたため。

・御成門(勅使門):
門の扉の紋や丸瓦の紋は菊のご紋、つまり天皇家の紋。これは昭和天皇が皇太子の頃、南河内に行幸に来られるために急遽造られたときのもの。隣に大きな門があるが、これは秀吉(武士)が作った門なので天皇家は通るわけにはいかない。ところが予定が変わり、皇太子は来られなかった。そのためこの門は一度も使われておらず「開かずの門」となっている。
 
重要文化財・興正寺別院
 
山門(伏見城遺構と言われる)
 
御成門(勅使門)
 13.重要文化財・興正寺別院本堂の中で

・1561年に建立された後、1638年(江戸時代の初期)に再興された。それ以来、この建物は現存したままであり、浄土真宗の本堂や道場として現存する建物としては最も古い建物。ということで、本堂・対面所・御成門・鐘楼(しょうろう)・鼓楼(ころう)が、平成27年9月に国の重要文化財に指定された。富田林寺内町内では、旧杉山家住宅と並んで二つ目の重要文化財となった。

・皆さんが座っているところは、外陣(げじん)という。皆さんは西を向いて座っておられるが、西の方には一段高い段があってそこに仏様がお祀りされていて、そこを内陣と呼ぶ。仏教では、極楽浄土は西の方に在るとされており、西の方に極楽浄土=内陣がある。

・中央は、ご本尊の阿弥陀如来立像。これは鎌倉時代のものといわれている。このお寺は浄土真宗のお寺なので、浄土真宗の開祖の親鸞聖人の像が、皆さんから見て阿弥陀如来立像の右側の須弥壇(しゅみだん)に置かれている。

また阿弥陀如来像の左側の奥まったところに、赤い法衣をまとって、この興正寺別院を1560年に開かれた本山第16代の証秀上人像が見える。その左奥に、現在このお寺を守っておられる華園家、遠くは天皇家に繋がる家柄の方ですが、そちらから初めて興正寺別院に入られた本寂上人(ほんじゃくしょうにん)の像が安置されている。
 
 
 
ご本尊の阿弥陀如来立像

本山第16代の証秀上人像
・下に目を向けて、外陣には、左右に立派な金壁画、障壁画が描かれている。江戸時代の狩野派画家・狩野寿石秀信(じゅせきひでのぶ)筆の襖絵(ふすまえ)です。向かって右は「松図」、左は「竹梅図」。「忠臣蔵」でおなじみの元禄14年(1701年)、浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた場所が、俗称江戸城本丸”刃傷松の廊下”で、この廊下の”松”を描いたのが寿石秀信だった。現在、江戸城はないので、当時の松の廊下の松の絵を偲ぶことが出来る貴重な襖絵である。  
・江戸時代、(記録には残っていないものの)本堂は寺子屋として子供の教育の場でもあったと見られる。

・正面上部に、蛙が両手を広げて万歳をして上部の棟木を支えているように見える部材が7つ見えるが、これを蟇股(かえるまた)という。その蟇股のところに彫刻が施されている。この彫刻は、中国の「二十四孝(にじゅうしこう)」という故事に因んだ彫刻。

・蟇股の彫刻について。中国の「二十四孝」:
元の時代に郭居敬(かくきょけい)が古来孝行の優れた24人を取り上げて編纂した。中国では孔子を始祖とする儒教の教えが歴代王朝で重んじられた。日本でも江戸時代には寺子屋でも教えられた。この彫刻は、二十四の話の中から7つを選んで彫刻にしている。以下に、3つだけ紹介します。
 
興正寺別院本堂(外陣)
① 真中:

夫婦と女性の木像が見えるが、お堂の中の女性は、夫の今は亡き母親の木像。夫婦は毎日この木像にお参りするのであるが、実は妻の方はこれが嫌だった。ある日のこと、夫の留守中に妻がこの木像に火をつけたところ、木像は燃え、妻の髪も焼けてチリヂリになった。妻は後悔し、夫に正直に告白したところ、一夜のうちに風雨の音がして木像も妻の髪も元通りになった。
 
② 左から2つ目:

若い女性が年寄りに自分の乳を吸わせている様子が描かれている。この老人は若い女性の義母であり、歯が抜けてしまって食べることが出来なくなった義母に栄養を摂らせるためにこのようにしているのである。
 
③ 左端:

親孝行の息子が筍(たけのこ)を掘っている様子が描かれている。病気の母が冬に筍を食べたいと言ったので、雪の竹林を歩き回ったところ、俄に大地が開け、筍が現れた。母に筍汁を作って与えると元気になり長生きした。この息子の名前は「孟宗」といった。

・戦時中、学童疎開で大阪市内平野の国民学校の小学生65名が集団疎開してここにやってきて何年間もこの本堂で過ごした。夜はまくら投げ等したかったはずであるが、ここの障壁画は全く痛んでないので、二十四孝や先生の教えを守って過ごしていたのであろうと推測される。
 
14.城之門筋御坊町の辻にて

・ここから北を見ると、景観がすっきりしている。何故か。電柱がないから。ここも電柱を少し引っ込めている。もう一つ、電気メーターを木箱で囲んでいる。これも景観に寄与している。   
 
15.御坊町東林町の境目の背割り水路

・ここの道の両脇に側溝が見える。これは「背割り水路」といって、下水を流す溝。富田林寺内町は、戦国時代にできた計画都市であるが、最初からこのような下水路が設けられた。雨水、家庭内の排水、煮炊きの水、お風呂の排水は、ここに流していた。この水路は、北側のお家と南側のお家の境界線にもなっていた。二軒のお家が背中合わせになってここで区切られていたので、「背割り水路」という。

・上水は、井戸水を使用。お酒の水も井戸水を使用していた。
 
背割り水路
 
16.橋本家住宅の角にて東林町)

・玄関先のこの石の穴は、「駒つなぎ」と言われる。商品運搬に使われた牛や馬を繋いでいた。  
 
17.大阪府有形文化財・仲村家住宅の前にて

・大阪府の登録有形文化財に指定されている。
・造り酒屋で栄えたお家で屋号を「佐渡屋」といった。
・当時は酒造りに事業免許(酒造株)が要った。お酒は江戸まで運ばれた。江戸市場に出荷する酒造業の組合長「河内一国江戸積大行司」をしていた。
・当時、いいものは近江商人によって、江戸に運ばれた(良いものは江戸に下った)。よくないものは江戸に下らないものということから、「くだらない・くだらん」といわれるようになった。
・仲村家住宅には、幕末期に長州藩士の吉田松陰が2回に分けて3週間逗留した。
 
仲村家住宅
18. 重要文化財・(旧)杉山家住宅の前にて

・富田林随一の豪商。富田林創生時以来、杉山家は庄屋としての家柄にあった。この建物は、1644年江戸時代初期の建物で現在まで残っている。1560年に証秀上人が、周辺の有力者に声をかけて、この町を開発したが、その創生時から携わっている格式の高い家柄。

・杉山家最後のご当主が看板の写真の方。石上露子というペンネーム、本名は杉山タカ。明治時代の女流歌人。このお家が生家であり、昭和34年まで生存。堺の与謝野晶子らの明星派のグループに歌や小説や詩を投稿されていた。非常に才能に恵まれた、しかも美貌の女性だった。この方の人生は非常に波乱万丈の人生で、山崎豊子さんの小説「花紋(かもん)」(新潮文庫)に描かれている。

・この建物は主人を失って、昭和50年代に不動産屋に売りに出された。それを聞きつけた富田林市が昭和58年166百万円で買い取り、その後工費230百万円、工期2年半をかけて解体修理を行なった。現在、市が所有・管理を行い、昭和62年から一般公開されている。入館料400円で一見の価値あり。昭和58年に国の重要文化財に指定。
 
 
明治時代の女流歌人 石上露子
 
 富田林寺内町の見どころガイド(モデルコース)‐ Tourrists' attractions (Part 1/2)

Information


(富田林市提供、禁無断転載)

重要伝統的建造物群保存地区
富田林市富田林町の一部にあたる寺内町は、1997年(平成9年)に国から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。大阪府下では唯一の指定となっています。 

寺内町にある約500棟の建物の内、江戸時代から昭和初期頃までに建てられた181棟の建造物が伝統的建造物に特定されています。保存地区内において通常道路から見える建物等の外観の現状を変更(増改築、改修、模様替え、色彩の変更、新築、除却など)する時には、予め市教育委員会・文化財保護課に申請して許可を得る必要があります。伝統的民家(町家)は白壁、板塀、格子戸など往時の姿のままに外観の保存・復元・修景作業を終えて、今も人々が生活の場として暮らしながら、素朴で静かな佇まいを今に伝えています。

寺内町の主だった商家には由緒・由来を記した案内板が設けられ、石畳の街路には路面灯を兼ねた道標や案内標識なども整備されています。電信柱の配置や各戸の電気メーターなどもできる限り目立たないような工夫が施されています。

また、寺内町では伝統的な町並み景観に配慮して、新しく建築される建物も周囲の景観に調和した外観となっています。

重要文化財・(旧)杉山家住宅

杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家でもあります。昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理しています。


(南)葛原家住宅・三階蔵

酒造業で栄えた商家。三階蔵は日本に少ない貴重なもので、寺内町のランドマーク的存在。各層に庇を廻し本瓦葺き。妻を表に向けて白壁を際立たせている。年貢米を入れる蔵であった。1854年建築

富田林寺内町への道順
寺内町へは近鉄長野線富田林駅又は富田林西口駅下車徒歩10分です。先ずはじないまち交流館へお立ち寄りください。

散策地図がもらえます
富田林駅前の観光案内所又は
じないまち交流館
散策地図がもらえます。

立ち寄ってみたいお店

休憩所(トイレ)
じないまち交流館寺内町センターじないまち展望広場にあります。

車でお越しの方へ
寺内町は道幅が狭く、中には公共駐車場がありません。車でお越しの場合には、2014年2月に新しくオープンした富田林市営東駐車場(有料)をご利用ください。一般用の普通乗用車及び団体用のマイクロバス(1台分、市役所に要事前予約)を駐車できます。西方寺の斜め向かいに位置し、重要文化財・旧杉山家住宅まで徒歩5分、じないまち交流館まで徒歩15分。

尚、団体用の大型観光バスでお越しの際は、富田林市役所にお問い合わせください。宜しくご協力お願いします。

ボランティア・ガイド



団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)

ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。

じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館, 12月28日~1月4日休館)

 立ち寄ってみたいお店
 寺内町の町割(都市計画)
 城之門筋(日本の道百選)
 壱里山町
 富山町(とみやまちょう)
 北会所町
 南会所町
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 Link

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