白い古書、ぞっき本も、時を経て読むと面白いものです。

今月の一冊は、これ!








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「兵隊画集」表紙カバー



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「兵隊画集」表紙



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「旅立」とびら



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「鼠穴陣地構築」とびら



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「迎撃」とびら




兵隊画集
     戎衣は破れたり

絵と詞:富田 晃弘
 番町書房(1972年発行)

 先日、岩波新書「教科書が危ない」(入江曜子著)を読んでいて、不意に思い出したのがこの本でした。いつか来た道への回帰、皇民化教育を目指すかのような新しい歴史教科書をつくる会の「新しい歴史教科書」「新しい公民教科書」、文部科学省が無料配布した補助教材「心のノート」など、未来を担う子どもたちをどこへ導こうとしているのか? 戦争を知らぬ世代に、戦争をさせようとしているのではないか? 読んでいて少なからぬ戦慄を覚え、ふと「皇軍兵士なんぞ、まっぴらご免だ」と思う間もなく「兵隊画集」に描かれた兵たちの表情が脳裏に蘇ったのでした。

 憲法の改正論議が巷間かまびすしい中、イラク復興人道支援を旗印に自衛隊を海外へ赴かせ、有事三法案、国民保護法制などきな臭さを払拭できぬ法律を制定しようとしている人たちは、五十余年前の戦争の悲惨を忘れてしまったのでしょうか。「戦場で死ぬのは兵で、我々ではないから」と考えているとしか思えません。世界に誇りうる「平和憲法」第九条は、憲法の根幹をなす改正埒外の条文です。「この画集に描かれた多くの兵のためにも第九条は守らねば」と、何十年かぶりに「兵隊画集」を紐解きつつ考えていました。

 「二等兵物語」「兵隊やくざ」「独立愚連隊」その他もろもろ――帝国陸軍はひどい所だけど結構面白かったかも、と映画を見ていた私がいました。「暁の脱走」「真空地帯」「野火」「人間の条件」その他もろもろ――戦争の悲惨、軍隊内部の残虐性に怒りつつ「二度と過ちを犯してはならない」と映画を見ていた私がいました。今、「兵隊画集」を繰りつつ「軍隊はいらない。戦争はいやだ」と確信して叫ぶ私がいます。

 今年も八月に、陸上自衛隊北部方面隊は道内の二十歳代の若者を対象に、体験入隊「青年サマーセッション」を開いて自衛隊の活動をPRするそうですが、まあ、体のいい入隊勧誘策。兵の日常はレジャー気分の体験入隊とは違います。軍隊がいかに過酷で非情を強いるものか、富田氏の時代も現在も変わらないでしょう。応募の前にこの画集を開いてほしいと思います。

          ☆          ☆          ☆

 「兵隊画集」に描かれた兵の表情・動き、時・情景は全て、富田氏が兵隊生活の中で体験し見聞したもので想像、恣意をもって描いたものではないことは、描かれた一枚一枚の画を見れば明らかです。自らも戦記文学を書き続けた伊藤桂一氏は序文の中で、次のように書いています。

 「この一巻は、富田氏の画集――ではあるけれども、同時に富田氏の文学でもある。画に書き添えられた剴切の文章もだが、画――そのものとからにじんでくる人間的滋味が、それをみる人の胸に浸透して、文学的に結晶する。戦後三十年の一念をこめた所業からくる成果――といえるものではないだろうか。/たとえば、どれか一枚の画を凝視していただくと、ひとりひとりの兵隊の表情動作にみる哀歓が、微妙にこちらに伝わってくる。これら兵隊たちへの筆者自身の愛とあわれみの深さは無限だ」
 「もしかすると、この画集は兵隊生活を知らない人たちにも、さまざまの関心をもって、親しんでもらえるかもしれない。なぜならこの画集は、兵隊の画集であるとともに、人間そのものの画集、だからである。解説なしにわかるはずなのだ」

 誰の注釈も不要でしょう。不鮮明ですが次の三枚の画を見ていただければ、「兵隊画集」がどんな画集か分かっていただけると思います。

BMP9241.gif    検診と古年兵たちの見物(「46部隊」から)
 城内練兵場の広い草原の一角に紅白の幕が張ってあった。そこで性病と痔の検診をうけるのである。暇な古年兵たちが見物に集っていた。裸の新兵たちは「愛宕さま参り」をおもいだした。
 それは明治時代の博多風俗のひとつであった。屈強な若者が素裸で町中を走る異様なものである。口には榊の葉をくわえ、腰には幣(ぬさ)を結びつけ足ははだしであった。
 若者は「壮丁検査」ちかくなると、博多の西郊にある勝軍地蔵の愛宕神社に参るのがならわしであった。「兵隊のがれ」を祈願したものである。無事に「兵役をのがれた」若者はその御礼のため裸になって駈け参りをしたのである。
 ところが昭和19年も秋になると「兵隊のがれ」どころか、微兵くりあげで少年までが現役入隊をする時代であった。

BMP9022.gif   なぐられ下手(へた)(「古年兵と下士官と」から)
 「関東軍」と書いて「殺伐(はんごろし)部隊」と読んだのは昭和18年までであった。関特演(かんとくえん)のモサたちは太平洋戦争の各戦線へぞくぞくと派遣されていったからである。その証拠に一辺が八キロといわれた広大な四角形の老黒山部隊の基地には空舎が幾棟も並んでいた。
 昭和19年秋、この国境部隊にはいってきた初年兵……というよりも徴兵くりあげの少年兵たちには部隊長命令の庇護があった。「私的制裁」の厳禁が古年兵たちに厳達されていたのである。「こんどの兵隊は稚(おさ)ない」という理由がついていた。しかし此の暴力封鎖もはじめのうちだけである。オタオタするばかりで歯切れよくサバけぬ初年兵たちを古年兵はけっこうブンなぐった。当然制裁をうけるミスを初年兵は続発させるからである。

BMP41B2.gif   兵隊の資質と運命(「瘧」から)
A初年兵は生と死の疑問の壁がやぶれずに自殺した。B初年兵は死にも生にも中途半端のまま一等兵になった。C初年兵は「気力体力ともに戦斗に堪えがたし」という理由で転戦からはずされソ満国境に残留となった。D初年兵は同年兵を代表して隊長から「小銃受領」をしたトップであったが赤痢のために離隊した。教育班長から「下士候補」をすすめられていたE初年兵は発狂して最後は事故死した。時間がたっていくにつれて兵隊の資質と情勢とは必ずしも一致しなくなった。いかにも「軍隊むき」の剛毅な兵隊が無惨にくずれていった。だれが見ても兵隊としては使いものにならぬ軟弱な兵隊が実は貴重な役務を背負っていた。その価値と能力がいつどこでどんな風に発揮されるのか、まったくわからなかった。反対に軍人として期待されていた兵隊が何時瓦解するか、それもわからなかった。ひとくちで「軍隊適性」をいえなくなった。
 二中隊の高倉上等兵は体力も人なみすぐれ気合がはいっていた。強風と豪雨のなかで敢行された師団演習で、彼が逆まく濁流に呑まれて行方不明になろうとは誰も想像していなかった。数日後、高倉上等兵の屍が発見された。20キロも遠いかなたの甘蔗畑跡の丘であった。キズだらけの屍は裸同然でうつぶせになり膨張していた。

          ◇……………◇          ◇……………◇

 《 目次 》 46部隊/旅立/〔 満州篇 〕大城子/白刀山子/霏/森/露營/歌/老黒山/古年兵と下士官と/軍立/釜山/門司港/第十六多聞丸/〔 臺湾篇 〕基隆陸軍病院/部隊追及/幕舎/甘蔗葺兵舎/鼠穴陣地構築/材料収集/雨期/兵補/瘧/迎撃/積亂雲/C食/遐荒/轉屬/分遣/〔「跋」蟻にされた兵隊のなかの一匹 〕符牒/悪辣/詞集/哄笑/面接/紅顔/落日/焚火/慈悲

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