大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。
古家物語(杉山好彦著)を読む(「石上露子を語る集い」会員 萬谷順一氏寄稿) 「石上露子を語る集い」会報誌「小板橋」178号(平成28年(2016年)3月18日発行)に掲載されました寄稿文をそのまま全文を引用しています。(2016年4月8日掲載許諾済み) |
|
この書は、単なる家の説明書ではなく、三高・東大に学んだ杉山孝子さんの次男好彦氏(大正4年(1915年)3月30日生~昭和31年(1956年)3月4日死亡, 42才)が、昭和26年(1951年)に記した、先祖が残された大きな遺産としての杉山家についての随筆集である。それは先祖に感謝しつつ、建物や庭等の諸々の設備調度品を説明し乍ら、杉山家の生活にふれ詳細な説明を加えるという貴重な評論集になっている。順を追って要約し乍ら、進めたい。杉山好彦氏は冒頭にこうのべている。 真善美の一致 総合美探求の見地から祖先の残してくれた遺産を眺めてみるのも決して無意味ではなかろう と。 |
|
大和棟 |
煙出し |
大和棟 今日の家の屋根に比べ遥かにどっしりとした重量感がある。重なり合った棟も適度の比例を見せているがそれはその下で営まれている生活機能の平面図を見れば成程と肯ける事である。 煙出し |
|
上段 |
|
仏間 |
|
上段 店から上ると三段に順次上って行く。店八畳の間を通り、次の間四畳は一段高く、更に格子の間へと上るのに従い部屋の感じが変り何かしら次第に改まらせる。心理的な効果があるように思われる。これより奥は同一平面に発展しているが、特別の客間として使われた。重い板戸を開いて玄関に出ると三尺の濡縁と沓抜ぎがある。正式の客を迎える入口であるが一寸外からは気付かれない様に切ってある。 家の中心に佛間がある。“甘露城”の額の下に真正面に二尺余寸の狭い襖が四枚並んでいる。これを片寄せると普通には見られない大きな佛壇が現れる。冠婚葬祭全てを自家で行った時代は、この家でも四畳の佛間を中心にして正面十畳の玄関が表まで伸び向かって左が大床の十二畳の間から奥の客間へと続き、右手は家族や別家出入りの為の八畳が二間もとれる。即ち佛壇の線より前だけで縁側も入れば五十畳にもなり優に三百人が着座し得る。 手伝東林町西林町森井コスエ以下三七二人 明治四十四年五月十七日ヨリ二十一日迄 御会葬者 三八一名 表悔受 一○六名 他所休憩所仝(どう)賄所 中村氏宅借用 計 白米入用〆高 一五石五斗(二二五kg) 手伝町内三七三名寺院関係一六○名 家族別家召使二五名他所悔衆凡そ二六○名 葬儀仕揚(しあげ)料理献立数 九百個 三重折詰外に膳(飯汁酒当方賄) とあり盛儀の程が偲ばれる。尤もこの祖父は奇行も多く信望もあり未だに土地の語り草になっている。過去帳に記された母の筆を借りれば 安政四年十一月二十八日父教庸(長一郎正本)が長男と生る。母妙律(艶子家主)に幼くして別れて代々酒造るなりはひの家に祖母(悲境の中に生ひ立ちて家運の隆盛をはかりし女丈夫光峰本名ミネ)の手一つをちからと人となって後明治十年妻を河澄家より入れて波子(長一郎弟雄次郎長女)と呼ぶ。十四年二月二十五日家名相続して自来日清日露二回の戦後を彩りし文明の時流は流れながれて変転きわまりなき社会に交じりて磊落(らいらく)の性またよく自己を没せず後年次女清子早世の日より深く佛教に信心す。四十四年の暮春異の病を発して五月十七日午後十一時半永眠享年五十五才一男一女あり長男は十四年生当日死亡長女孝子配偶者を大和片山氏より迎ふ。二女清子三十七年大谷氏へ嫁ぎ二十一才にて死亡。 |
|
大床 |
大床 |
大床 |
|
浪に千鳥 |
浪に千鳥 |
襖絵 二間の大床に並んだ一間十二畳の板戸は丁度大床の裏に当る茶席への通路と半間の水屋になっているが、松にみみづくの板戸の絵は相当に薄れずっと年代も古いものらしい。南側障子を開けると廊下が玄関の切戸や手洗いへと続き、北側の四枚の襖の奥は更に書院へと拡がっている。この襖は梅に鴨、芦に雁の絵で大床の老松や仏間の鳳凰、更に奥の間の山水と共に全て狩野散人杏山子守明の落款がある。併し最も素晴らしいと思うのは大床に向する西面六枚の絵襖である。“浪に千鳥”のその一羽宛が実によく画けており岩から飛び立った一群の画く孤が今にも羽音高くふくれ上らんばかり実に動的な感銘を与える。母の筆名“石川の夕千鳥”も案外こんな幼い日の夢に通う何物かが無意識の中にあったのかも知れない。 |
|
床の間 八畳の床の間と、違い棚が巾、深さ共美しいプロポーションを以って作られ間に開けられた火燈窓も片寄せられて鮮やかである。床の間には掛物を掛け花を生ける可きものと決めている人が多い。床の間というものはその昔僧侶の壁に掛けた佛画を礼拝する為にその前に並べた香華等が次第に固定化し進化したものであるから祭壇的装飾が源流に違いないが一度 茶禅の洗礼を経てきた床の間は極度に純化された美の世界でありそこには完全な調和が要求される。 |
|
書院 |
|
奥八畳と大奥との間の欄間は又気の利いた構図を見せている。古図によれば元明(一七八○)以前に増築したものではないかとも思われる。その二部屋の上部が即ちこの筧に菊の彫刻である。思い切って開けた空間等実にすかっとしていてこれだけを示して現代の作品だと称しても誰も怪しまない位の近代的な感覚を備えている。“美しきもの常に新し”という言葉があるが美の本質はいつの時代にも変らないらしい。 以上 |
|
石上露子を語る集い 寺内町の代表的旧家である杉山家に生まれた明治の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山孝)の研究サークル「石上露子を語る集い」が結成されています。同サークルは、石上露子の没後40周年を機に、平成11年(1999年)10月に発足し、大学の研究者などもメンバーに加わる本格的な「石上露子」研究の会員サークルとして、毎月1回、例会を開催され、会員には月刊会報「小板橋」も発行されています。会員数は50余名で、日本各地にお住まいです。平成15年(2003年)に生誕120周年を迎えた「石上露子」の歌人業績は年を追うごとに高く評価されるようになってきています。 お問い合わせは、石上露子を語る集い事務局 大石照子様まで。0721-29-1576 携帯090-2281-9217 |
|
重要文化財・(旧)杉山家住宅 | |
重要文化財・(旧)杉山家住宅 建物内部・障壁画・欄間彫刻 | |
重要文化財・(旧)杉山家住宅 庭園・展示室 | |
重要文化財・(旧)杉山家住宅 近藤好幸氏きり絵作品 | |
重要文化財・(旧)杉山家住宅 古家物語(杉山好彦氏)を読む |
国の重要文化財
1983年(昭和58年)指定
一般公開(有料)
建築年代
1644年(寛永21年)
所在地
富筋・西林町
近鉄長野線 富田林駅又は富田林西口駅からいずれも徒歩約10分。
開館時間
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町14-31
TEL.0721-23-6117
(午前10時~午後5時、月曜休館,12月28日から1月6日休館)
お問い合わせ先
富田林市役所 文化財課
TEL.0721-25-1000(内線508)
車でお越しの方へ
寺内町は道幅が狭く、中には公共駐車場がありません。車でお越しの場合には、2014年2月に新しくオープンした富田林市営東駐車場(有料)をご利用ください。一般用の普通乗用車及び団体用のマイクロバス(1台分、市役所に要事前予約)を駐車できます。西方寺の斜め向かいに位置し、重要文化財・旧杉山家住宅まで徒歩5分、じないまち交流館まで徒歩15分。
尚、団体用の大型観光バスでお越しの場合は、富田林市役所にお問い合わせください。宜しくご協力をお願いします。
見どころ
杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。当時の流行り歌にも、「一に杉山、二に佐渡屋、三に黒さぶ 金が鳴る」と唄われたと伝わります。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。
(旧)杉山家住宅には年間で約9千人が訪れています。寺内町発展の歴史と女流歌人・石上露子に関するビデオ上映がされています。また二階では寺内町きり絵風景画(近藤好幸氏作品)等が展示されています。係員の方に内部をご案内頂くこともできます
建物の特徴
寺内町町家で最古・最大の、17世紀中期の南河内地方農家風建築様式。屋敷地は一区画(約千坪、現在は430坪)を占める。母屋と東に延びる3室の別座敷、2棟の土蔵(酒蔵と米蔵)と庭園を残す。母屋は4層の大屋根が特徴。母屋は数奇屋風書院造りの大床の間、座敷、奥座敷、茶室と農家風建築の土間から構成される。狩野派絵師の障壁画、山水画、および欄間彫刻、さらには明治時代に改築されたモダンなや螺旋階段、土間には竈(かまど)が復元されています。屋根瓦の枚数は約4万枚に上り、解体修理によりその半数は再生利用されて現在も屋根瓦として利用されています。
団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)
ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。
じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館)