本文へスキップ

富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

とんだばやし歴史散歩(祢酒太郎著)


大久保利通が杉山邸に来たこと
 
重要文化財・(旧)杉山家住宅
 
重要文化財・(旧)杉山家住宅

明治八年二月六日、維新政府の大立者、内務卿大久保利通が富田林に来た。前日、午後四時頃、帰宅した杉山団郎氏から六日に内務卿大久保利通が、大阪の商工業の発展のため活躍していた五代友厚や堺県令らと千早城跡に行くため、杉山邸で昼食をとることを聞いた戸長の杉本藤平氏は、早速、村中へ道路の清掃を申しつけた。六日の朝、十一時に大久保利通らの一行七名が杉山邸に着いた。一行の中の一人の男が鉄砲を持っていて、富田林に着くまでに小鳥十七羽を撃って持って来ていた。昼食をすませると、大久保利通以下三名だけが人力車に乗った。もっとも、富田林の村の中では、村民の歓迎にこたえるためか、歩いて通った。午後二時頃、今の河南町の中村に着き、長沢という大きな家で一泊した。

七日に水分村から金剛山、葛城山のふもとで猟をすることになっていた。早朝、寒風を突いて出発した一行は金剛山の峯づたいに千早に出たのであるが、雪が凍ってすべるため、一匹の獲物もなく、八日正午に富田林の杉山邸に帰ってきた。昼食をとり、囲碁などして、午後三時に古市に向かって発って行った。ところがそのあとへ千早村から雄鹿一匹が杉山邸に届けられて来た。それで人足を雇って古市まで運ばせたところ、大久保卿は東京へのみやげにするから大阪の宿まで届けてほしいと言ったので、富田林からの人足は雄鹿を大阪まで届けて帰ってきた。

千早村では大久保らがせっかく金剛山まで猟に来たのに、何もとれずに帰るのを気の毒に思ったのか、幸い村の人が撃った雄鹿をみやげに贈ることにしたのであろう。ところで、大久保利通が、その頃なぜ大阪に来ていたのであろう。

大阪市の市史編集室の藤本篤先生は、その著「大阪府の歴史」(山川出版社)の中でつぎのように書いておられる。

「明治七年(1874)十二月二十六日、内務卿大久保利通は東京から海路大阪に到着し、ただちに五代友厚の邸にはいった。“征韓論”の政変で、西郷隆盛・板垣退助が下野したのち、岩倉具視とともに新政府の中心となって、独裁体制をすすめてきた大久保であったが、”佐賀の乱“や”台湾征討“がおわったのちには、さすがに心身ともつかれ、有馬温泉で静養するといって来阪したのである。しかし静養は単なる口実であって、来阪のほんとうの目的は政府の補強工作にあった。そのころ征韓論にやぶれたり、台湾出兵に反対して下野した政界の実力者たちは、地方にあって、ことあるごとに反政府的な言動をとり、大久保の独裁政権にも、ようやくひびがはいりかけていた。そこで、大久保は政局安定をはかるため、木戸孝允や板垣退助を政府に呼びもどそうとしたが、これを知った井上馨や伊藤博文は、その調停をはかり大阪において大久保・木戸・板垣三者会談をあっせんしたのである」。いわゆる「大阪会議」で大久保は大阪に来ていたのである。「大久保につづいて、翌八年一月六日には木戸が、一月二十日には板垣が大阪にはいった」。「三者による“大阪会議”は井上・伊藤を加え、二月二十一日、北浜一丁目(東区)の料亭加賀伊で開かれた。」(前掲、藤本篤著「大阪府の歴史」より)

 大久保利通が富田林の杉山邸で休憩し、金剛山に狩猟に出かけたのは、二月十一日に木戸孝允。板垣退助と会議をもつ前のレクリエーションであったのではあるまいか。
 
「とんだばやし歴史散歩」祢酒太郎著  (富田林市立中央図書館蔵書)
昭和51年(1976年)11月3日発行
昭和52年(1977年)11月10日第2版

祢酒太郎氏略歴
1917年 富田林市富田林町に生まれる
1947年 京都帝国大学経済学部卒業
1970年 富田林市役所市史編集室長
1974年 河南町助役
1976年 河南町助役退職
研究発表
1975年 大阪歴史学会・地方史研究協議会編
    「地域概念の変遷」(雄山閣)
     第二部文化財保存
     「富田林・文化財保全の問題点」
寺内町の成立と歴史  歴史逸話
寺内町の成立と歴史 宗教自治都市
寺内町の成立と歴史 在郷町としての発展

寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退
寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退(昭和40・50年代の頃)
吉田松陰 仲村家に滞在 - 嘉永六年二月・三月
桜田門外の変と富田林の木綿問屋
大久保利通が杉山邸に来たこと
郡役所新築に対する葛原氏の意見書 明治十八年
富田林開発記念碑 興正寺別院
木沢与平氏の「年代記」
富田林駅前の「楠氏遺跡里程標」
浄谷寺の釣鐘
歴史的建造物(一覧)・建築様式 
歴史的建造物一覧(寺院・町家)
歴史的建造物一覧(寺院・町家)(続き)
歴史的建造物一覧表(寺院・町家)
寺内町の建築様式
寺内町の建築様式(続き)
寺内町の町割(都市計画)・交通 歴史的町並み景観の保存・地域コミュニティー活性化
寺内町の町割(都市計画
東高野街道と石川の舟運
寺内町の入口(街道口)
歴史的町並み景観の保存
歴史的町並み景観の保存(続き)
富田林寺内町をまもりそだてる会
地域活性化への取り組み
 「カラー 歴史の町並」(文・那谷敏郎 写真・橋本治朗、淡交社刊、1975年初版)
既に絶版になっている書籍ですが、富田林市中央図書館の蔵書の中から見つけた1冊です。全国各地の歴史的町並みを著者が訪ねて書かれた紀行文で、富田林にも足を運んでおられます。富田林寺内町の歴史について、エッセー風にわかりやすい文章で記されており、小生のお気に入りです。出版社である淡交社編集部の事前許諾を頂戴しましたので、抜粋・引用の上、紹介させて頂きました。 (2012年9月10日、管理人)


Information


(富田林市提供、禁無断転載)

富田林寺内町への道順
寺内町へは近鉄長野線富田林駅又は富田林西口駅下車徒歩10分です。先ずはじないまち交流館へお立ち寄りください。

散策地図がもらえます
富田林駅前の観光案内所又はじないまち交流館散策地図がもらえます。

立ち寄ってみたいお店

休憩所(トイレ)
じないまち交流館寺内町センターじないまち展望広場にあります。

車でお越しの方へ
寺内町は道幅が狭く、中には公共駐車場がありません。車でお越しの場合には、2014年2月に新しくオープンした富田林市営東駐車場(有料)をご利用ください。一般用の普通乗用車及び団体用のマイクロバス(1台分、市役所に要事前予約)を駐車できます。重要文化財・旧杉山家住宅まで徒歩5分、じないまち交流館まで徒歩15分。

尚、団体用の大型観光バスでお越しの場合は、富田林市役所にお問い合わせください。宜しくご協力をお願いします。


興正寺別院
真宗興正寺派に属し、富田林・寺内町の成立と発展の中心となった寺院です。地元の人からは御坊さん(富田林御坊)として親しまれています。応永年間(1394-1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。 永禄3年(1560年)に京都・興正寺第16世証秀上人が現在地に移建。

重要文化財・(旧)杉山家住宅
杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家でもあります。昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理しています。


(南)葛原家住宅・三階蔵
酒造業で栄えた商家。三階蔵は日本に少ない貴重なもので、寺内町のランドマーク的存在。各層に庇を廻し本瓦葺き。妻を表に向けて白壁を際立たせている。年貢米を入れる蔵であった。1854年建築

ボランティア・ガイド


団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)

ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。


じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館)

ナビゲーション