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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

「カラー 歴史の町並」(那谷敏郎氏著、淡交社刊、1975年)

既に絶版になっている書籍ですが、富田林市中央図書館の蔵書の中から見つけた1冊です。全国各地の歴史的町並みを著者が訪ねて書かれた紀行文で、富田林にも足を運んでおられます。富田林寺内町の歴史について、エッセー風にわかりやすい文章で記されており、小生のお気に入りです。出版社である淡交社編集部の事前許諾を頂戴しましたので、以下に抜粋・引用の上、紹介させて頂きました。 (2012年9月10日、管理人)
 
御坊町」(近藤好幸氏作品)
 
日本の道百選・城之門筋」(近藤好幸氏作品)

「富田林」

私は、この町を秋霖のなかに訪れることになった。
石川の河原に向かって、中世の土居(防町壁)が、あちこちに大樹をまじえた藪に蔽われて、はっきり痕跡をとどめていた。土居が作られた当時は、これらの大樹も、まだ若木か、あるいは芽をふき出したばかりで、竹のなかに埋もれていたことだろう。土居の高さは十メートル以上はある堅固さで、かつては町を完全にとりまいていた。いまはほとんどが新しい道や家の下になってしまい、この石川に面した一角だけが、実によく残っているのだ。川の向うには、金剛、葛城山系が雨雲に烟(けむ)っている。

中世、一向一揆を起こした本願寺の門徒たちが、畿内を中心に寺内町なる特別自治区を作っていったことは、前の今井の際に述べた。同じ大阪府下の八尾や貝塚にも残っているが、富田林もその一典型なのである。「永禄二年(1559年)、浄土真宗、興正寺第16世、証秀上人が、富田林の荒蕪地を、高屋城主の安井美作守から銭百貫文で買いとって開発した町」と伝えている。しかし、永禄初年は、四国、細川の家人から身を興した三好長慶が、最も頻繁に畿内で活躍した時期にあたり、永禄二年、高屋城主、安井直政は三好のために放逐され、かわりに畠山高政が城主として入っている。だから、永禄二年云々は、かならずしも正確ではないかもしれないが、とにかく、1560年代には、もう、寺内町集落としての原形は形成されていたようだ。なにぶん、当時は荒蕪地だったのだから、中心の真宗寺院興正寺はともかく、ほとんどが藁葺き屋根の小屋程度、開拓農村だったと思われる。

戦乱の時代相に即応して、土居を繞(めぐ)らし外郭濠も作って、町一体として防備体制を整えたのだが、外濠はなお灌漑用として重用されていただろう。町の発展とともに、町の出入り口に四門を設け、明け暮れに開閉して、胡乱な人間の出入りをチェックした。四門のなかの一門だけが明治以後まで生き長らえていたのだが、大正時代にとり除かれてしまった。
戦国期戦乱の終熄とともに町は安定成長に入る。大地主的富農の背骨を担って、富裕化した町民は、商業活動にも力を入れていった。その間に、富裕な町民八人による「八人衆」という自治組織も形成される。江戸時代には天領となり、一応、代官もやってきたが、既成の「八人衆」による自治機構は黙認した。「八人衆」の構成は、世の推移にしたがって変化する。時運に恵まれて富強になった者が、その時々の任にあたるのだ。それでも、最もはじめのころの「八人衆」の一人として名を連ねる一軒が、いまなお健在なのだから、あまり代替の多くない、息の長い町だといえよう。

現在残っている豪家群は、大体1700年代末から1800年代初期にかけて建てられた民家である。豪家群という言葉を使ったのは、同じ寺内町でも、今井と違って、全体の残存戸数は少ないが、より粒ぞろいの大家が多いからである。それだけに、個々の家屋の保存状況も手がよく行きとどいていて、今井のような面としての拡がりの点では劣るが、質の点ではむしろ今井を凌ぐものがある。家の石垣、土台に使う石は、古い家のものほど丸味を帯びた花崗岩が使われている。これは、金剛山が花崗岩の山で、そこから流れ出る石川が運んできた転石を使ったからである。後世になるにしたがい、石川の流量が落ち、転石では間に合わなくなったので、わざわざ山から切り出してきた。山から切り出された石は丸味がなく角ばっているので、このことは、現在、富田林に見る古い家々の年代基準ともいえる。

地主としての財力を商業に転用しはじめてから、富田林も、今井と同様、堺と親交を持つことになる。現在もある町内の「堺筋」は、町の成立のもととなった興正寺が面する「御坊筋」とともに、町の主要路である。各家の子弟は、堺に奉公に出て商売を見習い、町に帰って、身につけた商策を発揮するのが、この町の豪家の習いだった。堺で身につけたのは、商策だけでなく、勤倹節約「入るを計って出るを制す」ることで、冗費を省くことに専念したが、そこで浮いた余力を、家、道具、什器など、家財にかけることだけは惜しまなかった。そこで、先述の石垣から、大屋根上の煙出しの形に凝ったり、店前の木格子に贅をつくすなど、今に残って微動だにしない建築が生まれてくる。贅をつくすといっても、ただ豪奢を衒うというのではなく、抑制のある繊細さがうかがわれるのは、やはり畿内、先進文化地区の洗練さによるものだろう。

経済的な地位が堺から浪華に移ると、この町も大阪に顔を向ける。こんどは、子弟の修業の場は船場になる。いまでも、町の旧家では、堺、船場との姻戚、親戚関係を持つものが多い。本来の地主から発展したとはいえ、商業としても富田林は成功した。石川の清流を利用した酒屋河内特産の棉を使うもめん屋金剛山系にある自家の持山から木を切り出しての材木屋や、薬種問屋で成功した。むろん、小売りだけでなく、周辺集落への卸しもやって、小売りと卸しの二つの帳面を、いまなお所持する旧家は多い。この町の蓄積は、「南河内全部を合わせても富田林一町にはかなわない」と称された。町の性格、したがって町家の形態も、明治以後もあまり変化がなかった。

大変動となったのは、第二次大戦後の農地解放である。商売を裏付ける最も安定した財産であった広大な田畑が消失したからである。基盤を失った旧家群は、それぞれ善後策に苦しみ、この間に、町家の形も、転売や一部売りなどによって、櫛の歯を欠くように崩れはじめた。が、現在、その趨勢は、幸いにも停止したかに見える。外部からの関心、刺激も強まって、各旧豪家の住人自身の家に対する評価も違ってきた。一度は、町、家を離れた人も古家に戻ってきつつある。「寺内町を守る会」も生れた。見越しの松を見上げる時、秋雨はやんでいた。(了)

「カラー 歴史の町並」(那谷敏郎著、淡交社刊、昭和50年10月23日初版発行)より抜粋・引用させて頂きました。(2012年9月10日、淡交社編集部から転載許諾を頂戴しています。)
寺内町の成立と歴史  歴史逸話
寺内町の成立と歴史 宗教自治都市
寺内町の成立と歴史 在郷町としての発展

寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退
寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退(昭和40・50年代の頃)
吉田松陰 仲村家に滞在 - 嘉永六年二月・三月
桜田門外の変と富田林の木綿問屋
大久保利通が杉山邸に来たこと
郡役所新築に対する葛原氏の意見書 明治十八年
富田林開発記念碑 興正寺別院
木沢与平氏の「年代記」
富田林駅前の「楠氏遺跡里程標」
浄谷寺の釣鐘
歴史的建造物(一覧)・建築様式 
歴史的建造物一覧(寺院・町家)
歴史的建造物一覧(寺院・町家)(続き)
歴史的建造物一覧表(寺院・町家)
寺内町の建築様式
寺内町の建築様式(続き)
寺内町の町割(都市計画)・交通 歴史的町並み景観の保存・地域コミュニティー活性化
寺内町の町割(都市計画
東高野街道と石川の舟運
寺内町の入口(街道口)
歴史的町並み景観の保存
歴史的町並み景観の保存(続き)
富田林寺内町をまもりそだてる会
地域活性化への取り組み

Information


(富田林市提供、禁無断転載)

歴史(略年譜)
1561年 富田林寺内町の誕生
    (興正寺別院開基) 
1574年 浄谷寺、富田林移転
1582年 本能寺の変
1580年 豊臣秀吉 天下統一
1600年 関ヶ原の戦い

1608年 妙慶寺開基
1615年 江戸幕府の天領
1638年 興正寺別院本堂再建
1644年 杉山家住宅建造
1688年 51業種149店舗が商売

1720年頃 妙慶寺本堂再建
1751年 防火用心石碑
1753年 木口家住宅建造
1775年 町割が六筋八町に
1782年 仲村家住宅建造

1830年 浄谷寺本堂再建
1853年 吉田松陰仲村家に逗留
1854年 (南)葛原家三階蔵建築
1868年 明治元年
1875年 大久保利通 杉山家訪問
1883年 警察署、郡役所富田林へ
1898年 河陽鉄道富田林開通

1923年 大阪鉄道があべの橋開通
1926年 金剛自動車運行

1947年 農地改革
1957年 府教育委員会 町家調査
1983年 旧杉山家住宅 重文指定
1986年 城之門筋 日本の道百選
1990年 仲村家住宅 府文化財
1997年 重要伝統的建造物群保存地区選定

2007年 美しい日本の歴史的風土     百選
2009年 都市景観大賞「美しいま     ちなみ優秀賞」受賞
2014年 興正寺別院 重文指定

歴史逸話
Art Gallery
Books
明治の明星派女流歌人・石上露子
東高野街道

ボランティア・ガイド



団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)

ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。


じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館)

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