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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

とんだばやし歴史散歩(祢酒太郎著)


富田林駅前の「楠氏遺跡里程標」 

近鉄富田林駅(河陽鉄道 明治31年開業)

「楠氏遺跡里程標」(明治35年建立)

富田林駅前(旧国道170号線)
富田林駅に降りて来た乗客は、駅を一歩出たところで大きな石の標柱を見上げる。毎日通勤している人達も朝夕見て行くおなじみの「楠氏遺跡里程標」である。

近鉄が刊行した「五十年のあゆみ」によると、明治二十九年三月に設立された資本金三十万円の河陽鉄道が国鉄関西線の前進である大阪鉄道柏原駅から富田林を経て長野に至る十六・六キロの単線鉄道を計画し、明治三十一年四月、まず柏原・富田林間を開業した。その後、経営困難のため、別会社「河南鉄道」を創立し、これに開業線および未成線を譲渡して解散した。河南鉄道はこれを継承して三十二年五月から営業し、さらに富田林・長野間を建設して、明治三十五年十二月、全線の開通を見た。「楠氏遺跡里程標」には「明治三十四年十一月建 楠氏紀勝会」と刻まれている。つまり、富田林に鉄道が開通した頃に「楠氏紀勝会」が建てたことがわかる。 

では、「楠氏紀勝会」とは、どんな会であったのか。「河南町誌」には、つぎのように書かれている。

「同二十七年九月、千早村有志が中心となって『楠氏紀勝会』が発足し、遺跡顕彰事業をはじめる。はじめ寄付募集などで苦しんだが、明治三十二年大阪府知事菊池侃二、前知事西村捨三らの支援を得て全国に呼びかけることとなり、事業は進捗を見るに至った。多方面に大きな計画をたてたが、次のような事業を成就したのみで終わったことは残念であった。

▽富田林駅前に明治三十五年二月「楠氏遺跡里程標」(日下部鳴鶴書)を建設して、各史蹟地への里程を刻し、史跡探訪者の便をはかった。(以下略)」

この説明によると、里程標には「明治三十四年十一月建」と刻まれているが、駅前に建てられたのは明治三十五年二月であったことがわかる。この里程標のりっぱな字は明治時代の有名な書家である日下部鳴鶴であることも明らかになっている。 

さて、この標石の横に刻まれている「忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廃忠孝則乱賊相尋乾坤反覆」の読み方であるが、富田林の仲村誠一氏所蔵の明治時代の文書の中にその読み方を記した文書がある。

「忠孝天二著(アラハ)ル、日月天二麗(カカ)ル、天地日月無キトキハ即チ晦蒙否塞ス、人心忠孝ヲ廃スルトキハ則チ乱賊相尋(ツ)ギ乾坤反覆ス」 

これは明の儒者、朱瞬水が一六五九年(万治二年)、長崎に亡命し、徳川光圀に招かれて水戸藩の教学指導にあたっていたところ、光圀から楠木正成の碑文の撰定を命ぜられて作成した碑文の一部をとってきたものである。原文はこのあと、楠木正成を讃えた二百五十余の文字がつづいている。

 (注)晦蒙=暗いこと  否塞=ふさがること
「とんだばやし歴史散歩」祢酒太郎著  (富田林市立中央図書館蔵書)
昭和51年(1976年)11月3日発行
昭和52年(1977年)11月10日第2版

祢酒太郎氏略歴
1917年 富田林市富田林町に生まれる
1947年 京都帝国大学経済学部卒業
1970年 富田林市役所市史編集室長
1974年 河南町助役
1976年 河南町助役退職
研究発表
1975年 大阪歴史学会・地方史研究協議会編
    「地域概念の変遷」(雄山閣)
     第二部文化財保存
     「富田林・文化財保全の問題点」
寺内町の成立と歴史  歴史逸話
寺内町の成立と歴史 宗教自治都市
寺内町の成立と歴史 在郷町としての発展

寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退
寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退(昭和40・50年代の頃)
吉田松陰 仲村家に滞在 - 嘉永六年二月・三月
桜田門外の変と富田林の木綿問屋
大久保利通が杉山邸に来たこと
郡役所新築に対する葛原氏の意見書 明治十八年
富田林開発記念碑 興正寺別院
木沢与平氏の「年代記」
富田林駅前の「楠氏遺跡里程標」
浄谷寺の釣鐘
歴史的建造物(一覧)・建築様式 
歴史的建造物一覧(寺院・町家)
歴史的建造物一覧(寺院・町家)(続き)
歴史的建造物一覧表(寺院・町家)
寺内町の建築様式
寺内町の建築様式(続き)
寺内町の町割(都市計画)・交通 歴史的町並み景観の保存・地域コミュニティー活性化
寺内町の町割(都市計画
東高野街道と石川の舟運
寺内町の入口(街道口)
歴史的町並み景観の保存
歴史的町並み景観の保存(続き)
富田林寺内町をまもりそだてる会
地域活性化への取り組み
 「カラー 歴史の町並」(文・那谷敏郎 写真・橋本治朗、淡交社刊、1975年初版)
既に絶版になっている書籍ですが、富田林市中央図書館の蔵書の中から見つけた1冊です。全国各地の歴史的町並みを著者が訪ねて書かれた紀行文で、富田林にも足を運んでおられます。富田林寺内町の歴史について、エッセー風にわかりやすい文章で記されており、小生のお気に入りです。出版社である淡交社編集部の事前許諾を頂戴しましたので、抜粋・引用の上、紹介させて頂きました。 (2012年9月10日、管理人)

Information


(富田林市提供、禁無断転載)

富田林寺内町への道順
寺内町へは近鉄長野線富田林駅又は富田林西口駅下車徒歩10分です。先ずはじないまち交流館へお立ち寄りください。

散策地図がもらえます
富田林駅前の観光案内所又はじないまち交流館散策地図がもらえます。

立ち寄ってみたいお店

休憩所(トイレ)
じないまち交流館寺内町センターじないまち展望広場にあります。

車でお越しの方へ
寺内町は道幅が狭く、中には公共駐車場がありません。車でお越しの場合には、2014年2月に新しくオープンした富田林市営東駐車場(有料)をご利用ください。一般用の普通乗用車及び団体用のマイクロバス(1台分、市役所に要事前予約)を駐車できます。重要文化財・旧杉山家住宅まで徒歩5分、じないまち交流館まで徒歩15分。

尚、団体用の大型観光バスでお越しの場合は、富田林市役所にお問い合わせください。宜しくご協力をお願いします。


興正寺別院
真宗興正寺派に属し、富田林・寺内町の成立と発展の中心となった寺院です。地元の人からは御坊さん(富田林御坊)として親しまれています。応永年間(1394-1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。 永禄3年(1560年)に京都・興正寺第16世証秀上人が現在地に移建。

重要文化財・(旧)杉山家住宅
杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家でもあります。昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理しています。


(南)葛原家住宅・三階蔵
酒造業で栄えた商家。三階蔵は日本に少ない貴重なもので、寺内町のランドマーク的存在。各層に庇を廻し本瓦葺き。妻を表に向けて白壁を際立たせている。年貢米を入れる蔵であった。1854年建築

ボランティア・ガイド

団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)

ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。


じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館)

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