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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

とんだばやし歴史散歩(祢酒太郎著)


浄谷寺の釣鐘

浄谷寺鐘楼・梵鐘
 
浄谷寺

梵鐘

現在も大晦日に除夜の鐘としても使われています。 
 
「河内石川郡 富田林 浄谷寺什物 月山代
 宝暦五乙亥歳三月吉日」
 
「大塚屋弥兵衛 鋳工大坂住」 
生野高校の社会科の先生が生徒に寺内町を見学させたいと打ち合わせに来られたとき、先生と仲村誠一さん宅を訪ねた。打合せをすませたあと、仲村さんは、「最近、こんな文書が出てきましたが、浄谷寺にもあるでしょうな」と言って、細長い紙袋に入った文書を出して来られた。紙袋の表には、「浄谷寺鐘一件」と大きく書かれ、その右側に小さく「宝暦四甲戌三月、当村浄谷寺建立二付、釣鐘堂願之一件」と記されている。袋の中には一枚ものの文書が十四通入っていた。読んでみると、元禄九年(1696)に観音堂を建てるときや、享保十三年(1728)に地蔵堂を建てるとき、奉行へ出した願書の控えと、宝暦四年(1754)に釣鐘堂を建てたときの願書の控えである。

今の建築許可申請書に相当するものだ。

それまで浄谷寺には釣鐘がなかった。自力でつくることができず、年来の願望であったところ、施主の寄付でやっと差渡し二尺六寸の釣鐘が鋳物師のところでつくられたので、一間半四方の四本柱、瓦ぶきの釣鐘堂を建てたいのでお願いしますと、当時の住持であった月山和尚、庄屋の武助、年寄役の平兵衛、旦那総代の喜右衛門に新堂村の大工久右衛門の名を加えて、奉行や融通念仏宗の本山へ出されている。

そこで早速、浄谷寺を訪ね、住持の十石慈健さんに釣鐘堂の文書の話をしてみた。

十石さんの話では、浄谷寺にも長持一杯の文書があったそうだが、三、四代前の住持がすっかり処分してしまい、今では何も残っていないそうである。仲村さんにあった釣鐘堂建設願の文書もなかったので、そのコピーをさしあげると、とてもよろこんで下さった。

境内に出て、釣鐘堂に上らせてもらい、鐘銘を見ると、「河州石川郡富田林、浄谷寺什物、月山代宝暦五乙亥歳三月吉日」、「大塚屋弥兵衛、鋳工大坂住」の文字がはっきり見える。十石さんは、「この釣鐘は檀家の皆さんが、金・銀の鏡やかんざしや銅銭を寄附されて造られたものだと聞いています。」と言われる。なるほど釣鐘に彫られた文字の中に「金銀旧鏡、銅銭等喜捨」の字も見える。

梵鐘の研究をしている人に聞かなければならないが、「大塚屋弥兵衛」は鋳工の名でなければ、施主の名でなければならない。そのため、「大塚屋弥兵衛」はどんな人であったかも調べなければならない。十石さんは、「大塚屋」は、元禄の頃まで富田林で最も栄えていた富豪、河村家ではないかと言われる。 

浄谷寺は、天正二年(1574)に毛人谷村から富田林村に移転したと、昭和三十年刊行の「富田林市誌」に出ている。杉山家文書で富田林・寺内町を最初に研究調査された大阪大学文学部の脇田修先生は、「寺内町の構造と展開」という論文の中で、富田林では、通常「御坊一坊」と称する寺内町の中で、「早く寺内に二寺の創建を許すという特殊な様相を呈した」ことをとりあげられ、元和六年(1620)、浄谷寺が正式に寺院建立をおこなった際、御坊(興正寺別院)の権威を傷つけることはしない旨の一札を入れてはいるが、御坊の地位は次第に低下し、貞享三年(1686)の宗門帳から作成された富田林村の檀家と檀徒数の表によると、興正寺別院の檀家が六十二軒であるのに対し、浄谷寺は九十六軒、妙慶寺、西方寺(毛人谷村)がそれぞれ六十四軒で、御坊、興正寺別院の檀家が意外に少ないことを指摘して、真宗寺院を中心とする寺内町で、富田林のように、大念仏宗や浄土宗の信者の一団が存在し、却って、御坊の檀家が少数であるという例は珍しいのではないかと言われている。 

きれいに保存されている浄谷寺の釣鐘堂を見上げながら、「今から二百二十年前の釣鐘と釣鐘堂が無事にのこっていることはよろこばしいことですなあ」と話しかけると、十石さんは、「釣鐘が戦時中供出させられ、戦後、いくつも穴をあけられてやっとかえって来ました。穴をすっかり埋めたので今はいい音が出ます。釣鐘堂もジェーン台風で倒れたとき、柱を一本いれかえただけです。」と言われた。 

他の願書に出ている元禄九年(1696)の観音堂と享保十三年(1728)の地蔵堂はすでになくなっており、観音像と地蔵像は大正四年(1915)に建てられた二尊堂に安置されている。二尊堂の厨子に入っている石造地蔵菩薩は応長元年(1311)作の美しい立像で大阪府の重要美術品に指定されている。

「とんだばやし歴史散歩」祢酒太郎著  (富田林市立中央図書館蔵書)
昭和51年(1976年)11月3日発行
昭和52年(1977年)11月10日第2版

祢酒太郎氏略歴
1917年 富田林市富田林町に生まれる
1947年 京都帝国大学経済学部卒業
1970年 富田林市役所市史編集室長
1974年 河南町助役
1976年 河南町助役退職
研究発表
1975年 大阪歴史学会・地方史研究協議会編
    「地域概念の変遷」(雄山閣)
     第二部文化財保存
     「富田林・文化財保全の問題点」
寺内町の成立と歴史  歴史逸話
寺内町の成立と歴史 宗教自治都市
寺内町の成立と歴史 在郷町としての発展

寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退
寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退(昭和40・50年代の頃)
吉田松陰 仲村家に滞在 - 嘉永六年二月・三月
桜田門外の変と富田林の木綿問屋
大久保利通が杉山邸に来たこと
郡役所新築に対する葛原氏の意見書 明治十八年
富田林開発記念碑 興正寺別院
木沢与平氏の「年代記」
富田林駅前の「楠氏遺跡里程標」
浄谷寺の釣鐘
歴史的建造物(一覧)・建築様式 
歴史的建造物一覧(寺院・町家)
歴史的建造物一覧(寺院・町家)(続き)
歴史的建造物一覧表(寺院・町家)
寺内町の建築様式
寺内町の建築様式(続き)
寺内町の町割(都市計画)・交通 歴史的町並み景観の保存・地域コミュニティー活性化
寺内町の町割(都市計画
東高野街道と石川の舟運
寺内町の入口(街道口)
歴史的町並み景観の保存
歴史的町並み景観の保存(続き)
富田林寺内町をまもりそだてる会
地域活性化への取り組み
 「カラー 歴史の町並」(文・那谷敏郎 写真・橋本治朗、淡交社刊、1975年初版)
既に絶版になっている書籍ですが、富田林市中央図書館の蔵書の中から見つけた1冊です。全国各地の歴史的町並みを著者が訪ねて書かれた紀行文で、富田林にも足を運んでおられます。富田林寺内町の歴史について、エッセー風にわかりやすい文章で記されており、小生のお気に入りです。出版社である淡交社編集部の事前許諾を頂戴しましたので、抜粋・引用の上、紹介させて頂きました。 (2012年9月10日、管理人)


Information


(富田林市提供、禁無断転載)

富田林寺内町への道順
寺内町へは近鉄長野線富田林駅又は富田林西口駅下車徒歩10分です。先ずはじないまち交流館へお立ち寄りください。

散策地図がもらえます
富田林駅前の観光案内所又はじないまち交流館散策地図がもらえます。

立ち寄ってみたいお店

休憩所(トイレ)
じないまち交流館寺内町センターじないまち展望広場にあります。

車でお越しの方へ
寺内町は道幅が狭く、中には公共駐車場がありません。車でお越しの場合には、2014年2月に新しくオープンした富田林市営東駐車場(有料)をご利用ください。一般用の普通乗用車及び団体用のマイクロバス(1台分、市役所に要事前予約)を駐車できます。重要文化財・旧杉山家住宅まで徒歩5分、じないまち交流館まで徒歩15分。

尚、団体用の大型観光バスでお越しの場合は、富田林市役所にお問い合わせください。宜しくご協力をお願いします。


興正寺別院
真宗興正寺派に属し、富田林・寺内町の成立と発展の中心となった寺院です。地元の人からは御坊さん(富田林御坊)として親しまれています。応永年間(1394-1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。 永禄3年(1560年)に京都・興正寺第16世証秀上人が現在地に移建。

重要文化財・(旧)杉山家住宅
杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家でもあります。昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理しています。


(南)葛原家住宅・三階蔵
酒造業で栄えた商家。三階蔵は日本に少ない貴重なもので、寺内町のランドマーク的存在。各層に庇を廻し本瓦葺き。妻を表に向けて白壁を際立たせている。年貢米を入れる蔵であった。1854年建築

ボランティア・ガイド

団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)

ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。


じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館)

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