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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

とんだばやし歴史散歩(祢酒太郎著)


郡役所新築に対する葛原氏の意見書 明治十八年 

群役所跡の石垣
 
富田林保育園(富田林警察署跡)・西林町
明治十六年(1883)一月に、それまで現在の羽曳野市古市にあった郡役所が富田林に移転して来た。一月二十日から業務をはじめたが、まだ郡役所の建物はなく、興正寺別院(御坊)が仮の庁舎になっていた。明治十七年三月に現在富田林保育園になっているところに警察署の建物が落成し、これも古市から移ってきた警察が四月一日から業務を開始した。そこで明治十八年に郡役所を建てることになったが、戸長の仲村一郎氏は富田林村の有力な人びとに郡役所の位置をどこにすべきか意見を求めた。 

その一人であった葛原三郎氏が戸長に提出した意見書が葛原三千夫氏所蔵の文書の中に残っている。

「郡役所新築位置意見書

今般、郡役所当村二於テ新築相成ル二付、其新設場ヲ北方亦ハ南方二設置ノ如何ヲ我等ヘ意見ヲ申シ述ブル旨、回書ニテ御達二相成、依テ我意ヲ左二表ス」
と文語体の名文で書かれている。それを現代文に改めるとつぎのようなものである。

「このたび当郡役所が本村に於て新築になりますが、その設置場所のいかんによって、全体の面目が大いにあらたまるのであります。その理由は、従来から本村の南の方は、近郷の人びとが多数来られて、商工業者の繁栄している土地ではありますが、先年、郡役所と警察署が当地へ移転して以来、ますます繁栄の度を加えて来ております。しかるに、北の方は、これに反して従来から商工業が不振の土地でありますのに、目下ますます衰退の現象があらわれ、寂寞として貧民特に多く、それに悪漢風の者が常に徘徊するところとなっています。したがって家屋も街路もきわめて不潔であり、はやく挽回することをはからなければ、これからどんな状態に陥るともはかり知れません。まことになげかわしい次第であります。よって、この状態を挽回するには、丁度幸い、郡役所の新築が行われるという美挙に遭遇しました。 

それ故、郡役所が北方に建設されますと、自然と家屋も改良され、街路も清潔になり、商工業も振起することは期して待つべきものがあります。そうして全村が平均して総体の繁栄を得ることができ、将来、百般の事業が隆盛を来たすことは論をまたないところであります。以上述べましたとおり、今般の郡役所新築の地は、北の方において建設されんことを希望します。なお、尽力の凋衰している時機ではありますから、新築の費用は節減せられんこともまた希望します。 もとより本村は地所が僅少であるのに、人家稠密でありますから、北の方で新築の用に供すべき地所が乏しいので、毛人谷村の畑地へ新築されるのがよいと思います。その地は本村と地脈が接続しており、郡役所新築に適当の地位と信じます。 

最近、本村の吉野伊三平氏が地所を買い上げて頂くように御庁へ上願したと聞いております。その土地をお買い上げになって、新築されると、本村の南の方の地代よりよほど安価でありますし、新築費用もそれだけ節減することができ、全村の体面もあらためられて、一挙両得の策と考えます。文辞意を尽くさず、その詳細につきましては、親しくご下問を賜りましたら、くわしく申し上げますから、右のことご採用下さいますようお願い申し上げます。」

 
明治十八年五月七日に葛原三治郎氏から戸長仲村一郎氏へ提出されたこの意見書は、どうやらとりあげられなかったらしく、郡役所の庁舎の位置はやはり、警察署と同じように南の方に建てられた。幕末の庄屋、仲村長右衛門の旧宅跡が選ばれている。すなわち、今の富田林保育園の西、杉山邸の西の道路を隔てたところに建てられたのである。

まだ、富田林に鉄道もついていなかった明治十八年に書かれた葛原三治郎氏の卓見の通り、その後の富田林は南から北へ商工業の中心は移り、現在見られるような北の繁華街になったのである。
「とんだばやし歴史散歩」祢酒太郎著  (富田林市立中央図書館蔵書)
昭和51年(1976年)11月3日発行
昭和52年(1977年)11月10日第2版

祢酒太郎氏略歴
1917年 富田林市富田林町に生まれる
1947年 京都帝国大学経済学部卒業
1970年 富田林市役所市史編集室長
1974年 河南町助役
1976年 河南町助役退職
研究発表
1975年 大阪歴史学会・地方史研究協議会編
    「地域概念の変遷」(雄山閣)
     第二部文化財保存
     「富田林・文化財保全の問題点」
寺内町の成立と歴史  歴史逸話
寺内町の成立と歴史 宗教自治都市
寺内町の成立と歴史 在郷町としての発展

寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退
寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退(昭和40・50年代の頃)
吉田松陰 仲村家に滞在 - 嘉永六年二月・三月
桜田門外の変と富田林の木綿問屋
大久保利通が杉山邸に来たこと
郡役所新築に対する葛原氏の意見書 明治十八年
富田林開発記念碑 興正寺別院
木沢与平氏の「年代記」
富田林駅前の「楠氏遺跡里程標」
浄谷寺の釣鐘
歴史的建造物(一覧)・建築様式 
歴史的建造物一覧(寺院・町家)
歴史的建造物一覧(寺院・町家)(続き)
歴史的建造物一覧表(寺院・町家)
寺内町の建築様式
寺内町の建築様式(続き)
寺内町の町割(都市計画)・交通 歴史的町並み景観の保存・地域コミュニティー活性化
寺内町の町割(都市計画
東高野街道と石川の舟運
寺内町の入口(街道口)
歴史的町並み景観の保存
歴史的町並み景観の保存(続き)
富田林寺内町をまもりそだてる会
地域活性化への取り組み
 「カラー 歴史の町並」(文・那谷敏郎 写真・橋本治朗、淡交社刊、1975年初版)
既に絶版になっている書籍ですが、富田林市中央図書館の蔵書の中から見つけた1冊です。全国各地の歴史的町並みを著者が訪ねて書かれた紀行文で、富田林にも足を運んでおられます。富田林寺内町の歴史について、エッセー風にわかりやすい文章で記されており、小生のお気に入りです。出版社である淡交社編集部の事前許諾を頂戴しましたので、抜粋・引用の上、紹介させて頂きました。 (2012年9月10日、管理人)


Information


(富田林市提供、禁無断転載)

富田林寺内町への道順
寺内町へは近鉄長野線富田林駅又は富田林西口駅下車徒歩10分です。先ずはじないまち交流館へお立ち寄りください。

散策地図がもらえます
富田林駅前の観光案内所又はじないまち交流館散策地図がもらえます。

立ち寄ってみたいお店

休憩所(トイレ)
じないまち交流館寺内町センターじないまち展望広場にあります。

車でお越しの方へ
寺内町は道幅が狭く、中には公共駐車場がありません。車でお越しの場合には、2014年2月に新しくオープンした富田林市営東駐車場(有料)をご利用ください。一般用の普通乗用車及び団体用のマイクロバス(1台分、市役所に要事前予約)を駐車できます。重要文化財・旧杉山家住宅まで徒歩5分、じないまち交流館まで徒歩15分。

尚、団体用の大型観光バスでお越しの場合は、富田林市役所にお問い合わせください。宜しくご協力をお願いします。


興正寺別院
真宗興正寺派に属し、富田林・寺内町の成立と発展の中心となった寺院です。地元の人からは御坊さん(富田林御坊)として親しまれています。応永年間(1394-1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。 永禄3年(1560年)に京都・興正寺第16世証秀上人が現在地に移建。

重要文化財・(旧)杉山家住宅
杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家でもあります。昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理しています。


(南)葛原家住宅・三階蔵
酒造業で栄えた商家。三階蔵は日本に少ない貴重なもので、寺内町のランドマーク的存在。各層に庇を廻し本瓦葺き。妻を表に向けて白壁を際立たせている。年貢米を入れる蔵であった。1854年建築

ボランティア・ガイド

団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)

ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。


じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館)

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