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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

富田林寺内町の縁(へり)を時計回りに歩いて巡るコース

Tourist guide to Jinaimachi town, Tondabayashi, a historic district and heritage site of Japan - Walking course around the border of the historic district
歴史まち歩きツアー 約90分間(徒歩、高低差あり)

コース順路:
近鉄富田林駅じないまち交流館→①本町地蔵(旧富田林街道沿い)→②③北口地蔵→④念西口→⑤一里山口(高札場跡、東高野街道口)→⑥(北)越井家家住宅→⑦⑧越井家住宅→⑨⑩(旧)万里春酒造・酒蔵→⑪富栄戎神社・⑫山中田坂→⑬じないまち展望広場→⑭山家坂→⑮石川河川敷→⑯石上露子・小板橋跡→土塁・竹林→⑰⑱向田坂(東高野街道口)→⑲富田林郡役所跡(石垣)→⑳北野家住宅(堺筋)→㉑北野家住宅土蔵→㉒西口地蔵→㉓浄谷寺→㉔(旧)田中家住宅→㉕本町公園近鉄富田林駅
 
ダウンロード 富田林寺内町の縁(へり)を時計回りに巡る(ボランティアガイド・プレゼンテーション)
 
じないまち交流館
寺内町訪問の際は、先ずはじないまち交流館にお立ち寄りください。散策地図がもらえるほか、寺内町に関連する様々な情報を教えてもらえます。入場無料

1階はビジターセンター(訪問者用休憩施設)、2階は地元住民などが集える集会室(和室)と会議室(洋室)が完備しています。イベント展示コーナーや飲料自動販売機もあります。

本町地蔵尊(旧富田林街道沿いの地蔵尊) 
 

堺から平尾(旧南河内郡美原町)を経由して旧富田林村(寺内町)に通じる富田林街道の入り口(三昧口)に位置する。戦国時代に開発された富田林寺内町は周囲を土塁(竹林)や壕に囲まれており、12ヶ所の入り口が設けられていた。


北口地蔵尊 
富田林街道と西国三十三ヶ所観音霊場巡礼街道が交わる旧富田林村(寺内町)の北入り口に位置する。地蔵尊の右側には、「安永七年戊戌(つちのえいぬ)天四月二日, 俗名巳ノ喜兵衛」と刻まれており、1778年4月に巳ノ喜兵衛という人によって造られたことがわかります。(富田林市教育委員会)

室町時代ごろから庶民の西国三十三所霊場巡礼が盛んになると、東高野街道のバイパスにあたる道筋が巡礼道として人々に利用されるようになった。大阪府内にある4か所の番所のうち、5番の葛井寺(ふじいでら)から4番の和泉の施福寺(槙尾寺)までの道筋が巡礼街道として残っている。

富田林を通る巡礼街道は、羽曳野市に隣接する平野から美具久留御魂神社のある宮町をぬけ、たんぼ道のなかをくねりながら寺内町へとつながっている。寺内町の入口には、小さな道標と地蔵尊がまつられており、庶民の道としての名残を知ることができる。

元は道の南側に祀られていたが、車馬の通行が増えるにつれ、現在の位置に移された。東北隅にある道標に「左 ふじい寺 右 まきのお寺 」と書かれているのは、元々道の南側にあったものをそのままこちらに移し変えられたため、実際の方向とは向きが逆になっている(「左 ふじい寺(紫雲山葛井寺)」、「右 まきのお寺(槇尾山施福寺)」
 
③北口地蔵の脇に立つ道標(巡礼街道)

④念西口(城之門筋と寺内町の町並み) 
江戸時代の商家が軒を連ねる富田林市寺内町。その中心部を南北に結ぶ延長約400メートルの城之門筋は8月10日の「道の日」を記念した「日本の道百選」に選ばれました。(昭和61年、1986年)

城之門筋の名前の由来は、その通りに面する、寺内町の中心にある興正寺別院の山門が、豊臣秀吉が築城した京都・伏見城の門が移築されたと伝えられていることにちなみます。2012年に実施された学術調査により、安土桃山時代の城門遺構(伏見城の遺構である可能性が高い)であり、記録によると京都の興正寺本山から再移築されたものであることが確かめられています。
 
⑤(左手側奥)一里山口 (東高野街道口)
寺内町の入り口のひとつ。このうち一里山口(東高野街道)、山中田坂(千早街道)、向田坂(東高野街道)、西口(富田林街道)の4か所には木戸門を設け、朝夕に開閉したとの記録が残っている。一里山口門(木戸門)は、のちに富田林墓地に移築されたが、第一次室戸台風(昭和9年、1934年)のときに倒壊した。
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一里山口には高札場(こうさつば)が設けられていた。
高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所。

(北)越井家住宅 (富山町)
越井家の分家新宅である(北)越井家住宅は、富山町を挟んで北側に位置している。

⑦ 越井家住宅(北会所町)
当家は代々「平尾屋庄兵衛」を名乗り、その先祖が平尾村(堺市美原区)から当地に移住したと伝えられる。 材木商を営み安政年間(1854-60年)には庄屋を務めた家柄である。母屋は明治末期の建築で、当家の材木置場跡に建てられたものである。

越井家は地元の素封家で、材木商・越井林業をはじめ広く事業を営み、昭和初期に越井醇三氏が大阪鉄道(通称・大鉄)社長を務めた。昭和4年(1929年)古市-久米寺(現・橿原神宮前)間延長や20m級大型車増備など積極的に大阪鉄道の経営を推進した。

越井家住宅・土蔵 (富山町)
屋敷地は寺内町の北東部にあたり、1区画の大部分を占め、北側には長大な米蔵を配し、この地区の景観を引き立たせている。  
 
(旧)万里春酒造酒蔵(石田家住宅)
金剛山を水源にした豊富な伏流水(硬水)に恵まれた富田林寺内町では井戸水を利用した酒造業が江戸時代から発達し、明治初期には石田家をはじめ、杉山家(重要文化財・旧杉山家住宅)仲村家(大阪府有形文化財・仲村家住宅)、葛原家、橋本家など10軒の造り酒屋があった。

石田家は、杉山家や仲村家から酒造株を分与されて明治時代に近隣の東板持から富田林寺内町に移り住んだ造り酒屋です。杉山家から江戸時代の酒蔵が移築され、昭和51~52年頃まで残っていたものの建物の傷みが激しくなり取り壊された。

地元酒造業は、昭和初期の経済恐慌の前後に多くの蔵元が廃業していった中で、石田家は戦中・戦後も地元で唯一の造り酒屋でした。戦中期には軍需用貯蔵タンク工場として使用されたこともあった。当時の酒造では、「山田錦」など北陸産米や近江の「五百万石」をはじめとした全国の酒造米を原料として使用し、但馬地方出身の杜氏や蔵人が毎年11月から翌年4月始めまで冬場の期間に仕込みに携わったそうです。戦後の最盛期には年間生産量2千石(一升瓶換算で20万本相当)を数え、桶売りでは京・伏見の「月桂冠」などにタンクローリーで卸していた。

甘口の地元銘酒として「万里春」(バンリノハル)を製造し、南河内一円を中心に大阪市内でも販売を続けてこられた蔵元でしたが、昭和58年(1983年)に残念ながら廃業された。

 
(旧)万里春酒造酒蔵(石田家住宅)

冨栄戎神社 

江戸時代から明治初年にかけて富田林寺内町に酒屋の同業組合があり、それを「エビス講」と呼んでいた。戎神社はこの「エビス講」により祭られていた。明治23年に新道をつける時に今の場所に移し、御神体はながらく美具久留御魂神社に預けていたのが、戦後富栄戎講ができ、御神体をお迎えして盛大に祭られるようになった。

 

山中田坂 
 

寺内町の東南の入り口。石川の河岸段丘崖の端に位置し、石川河川敷(金剛大橋)へと続く急な坂道になっている。富田林街道は山中田から千早街道に分かれる。山中田坂口はそのうちの一つ。旧千早街道・旧観心寺道に通じる。


じないまち展望広場 
寺内町の歴史的町並み景観に溶け込んだ伝統的町家建築で、内部は休憩所、展示室になっています。来訪者用トイレ、飲料自動販売機や防火設備も設けられています。 入場無料

寺内町の位置する河岸段丘の高台の東縁に位置し、建物を通り抜けた庭先からは、遠く金剛・葛城連山、眼下には石川の川面を一望でき、四季折々の景色を楽しむことができます。

山家坂 (やまがさか)
富田林寺内町は石川の河岸段丘の上に建設されました。その河岸段丘は南と東に10メートル程の高低差のある崖があり、西側も3メートル程の落差がある羽曳野の台地が石川の流れによって造りだされた舌状の自然の要塞となった場所です。

山家坂(やまがさか)は河岸段丘が舌状にせり出した、寺内町南側の先端部に位置し、石川河川敷に下る坂道である。高低差は約10メートルで、土塁として築かれた周囲には竹林が広がっている。

⑮石川河川敷
富田林は舟運の利便にも優れていた。大和川の支流である石川は金剛山を水源とする。金剛大橋辺りの石川左岸の船着場から小型の舟で喜志の川面まで、それより下流は「剣先船」が大坂京橋まで運航された。剣先船という舳先の細く尖った川船は、盛期には大坂全体で300隻を超えて運航されていたと言われる。

石上露子の小板橋跡 
明治36年(1903年)の秋に、与謝野鉄幹が主宰する『新詩社』の社友となり、「石上露子(いそのかみつゆこ)」のペンネームで『明星』にデビューしたのが、富田林寺内町の旧家である杉山家の長女タカでした。

端正な容姿から白菊の花にたとえられた露子は、与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子、玉野花子らと共に「新詩社の五才女」と称されました。
 
⑰向田坂にあったとされる木戸門
寺内町の入り口のひとつ。このうち一里山口(東高野街道)、山中田坂(千早街道)、向田坂(東高野街道)、西口(富田林街道)の4か所には木戸門を設け、朝夕に開閉したとの記録が残っている。

向田坂にあったとされる木戸門は南大伴の円照寺に移築されている。
 
向田坂(東高野街道口)
富田林寺内町の南端、東高野街道沿いに道標を兼ねた防火標識柱がある。

町中くわえきせる、ひなわ火無用」と記され、防火への注意が払われている。宝暦元年(1751年)に建てられた。茅葺き民家(当時)が密集する特別地域であるから火災には深い留意を払い、街路上にところどころ自由に汲上放水に便利な井戸を設けたのもそのためである。火の用心を厳にし、その夜番には米三石五斗給を給し、特に警戒を要する節季に鉄棒引(かなぼうひき)を巡らしめる時は一夜につき銀四分五厘を給したものである。

また、河岸段丘の高台ゆえに水の便が悪く、町全体が火事の予防に細心の注意を払っていました。この道標以外にも、北の壱里山町富山町には用心堀と呼ばれる防火用水の設備があり、町衆が共存共栄の精神で町を守ってきたことをうかがい知ることができます。大火がなく、古い町並みが残ったのもひとつにはこんな気遣いがあったからかもしれません。(出典 富田林市教育委員会) 

富田林郡役所跡の石垣 
富田林寺内町の西南角に位置する。石川の河岸段丘(高台)の傾斜地にあり、立派な石垣が築かれている。

1883年(明治16年)石川郡役所を興正寺別院に仮移転したのち、1885年(明治18年) 石川郡役所を仲村長右衛門の旧宅跡地に新築移転した。

北野家住宅(左)・堺筋 
西筋・堺町の北東角に位置する。屋号を「新堂屋」と言う。明治の初めに東隣の本家より分家した。本家・分家ともに木綿問屋を営んでいた。幕末頃の宅地図によると、堺町-南会所町と西筋-市場筋を囲む区画一帯を北野家が所有していて、現在当家が位置する場所は元は北野家の借家があった。

母屋は八棟造り。当家は明治初期の分家の時の建築というよりは、明治30年代に元の借家を建て替えたのではないかと見られる。明治最盛期の豪商の住まいとして貴重な遺構である。   
 
北野家住宅・土蔵

西口地蔵 
享保15年(1730年)11月、寺内町は壱里山町富山町の全域と、北会所町の西方が全焼する大火に見舞われています。享保15年の大火の際に火が止まったところに地蔵が埋まっており、それを祀ったのが西口地蔵であるという言い伝えがあります。 
 
浄谷寺(融通念仏宗、河内西国第19番霊場)
当寺は、正式には半偈山(はんけいさん)三仏院(さんぶついん)浄谷寺といい、寺内町の一画、南会所町にある。融通念仏宗を唱え大阪市平野区にある総本山大念仏寺の末寺となっている。

弘安9年(1286年)済戒真證上人によって毛人谷村に開かれ、天正2年(1574年)に当地に移転し、今日に至ったとされている。また、史料には慶長13年(1608年)に「大念仏道場」とあり、寛文6年(1666年)に総門徒の寄進により再興された記述が残っている。

(旧)田中家住宅(国の登録有形文化財)
江戸後期に当地に移ったと伝えられる田中家は、幕末、明治期には素封家(明治44年「大阪府河内和泉資産家一覧」)に数えられる名家でした。平成16年(2004年)に富田林市に寄贈され、改修を経て2012年5月より一般公開されています。

主屋、乾蔵、巽蔵等主要部分は。明治25年に建築されたもので、門戸を構え南北両側に前栽を整えるなど、邸宅風の近代和風住宅としての特色があります。
(富田林市教育委員会文化財課資料より引用)
 
本町公園(石上露子歌碑)
「みいくさにこよい誰か死ぬさびしみと髪ふく風の行方みまもる」

(日露の激しい戦いの報を聞くと私の胸は痛む。今宵は誰が戦死するのだろうと思うと、なんともいえず寂しいので、私の髪を乱して吹いて過ぎる風のかなたを、目を凝らして見ている。妻や母たちのかなしみを思いつつ。)

この歌は、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」より2ヶ月早く発表されました。
 富田林寺内町の見どころガイド(モデルコース)‐ Tourrists' attractions (Part 1/2)
 富田林寺内町の見どころガイド(モデルコース)‐ Tourrists' attractions (Part 2/2)

Information


(富田林市提供、禁無断転載)

重要伝統的建造物群保存地区
富田林市富田林町の一部にあたる寺内町は、1997年(平成9年)に国から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。大阪府下では唯一の指定となっています。 

寺内町にある約500棟の建物の内、江戸時代から昭和初期頃までに建てられた181棟の建造物が伝統的建造物に特定されています。保存地区内において通常道路から見える建物等の外観の現状を変更(増改築、改修、模様替え、色彩の変更、新築、除却など)する時には、予め市教育委員会・文化財保護課に申請して許可を得る必要があります。伝統的民家(町家)は白壁、板塀、格子戸など往時の姿のままに外観の保存・復元・修景作業を終えて、今も人々が生活の場として暮らしながら、素朴で静かな佇まいを今に伝えています。

寺内町の主だった商家には由緒・由来を記した案内板が設けられ、石畳の街路には路面灯を兼ねた道標や案内標識なども整備されています。電信柱の配置や各戸の電気メーターなどもできる限り目立たないような工夫が施されています。

また、寺内町では伝統的な町並み景観に配慮して、新しく建築される建物も周囲の景観に調和した外観となっています。

重要文化財・(旧)杉山家住宅

杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家でもあります。昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理しています。


(南)葛原家住宅・三階蔵

酒造業で栄えた商家。三階蔵は日本に少ない貴重なもので、寺内町のランドマーク的存在。各層に庇を廻し本瓦葺き。妻を表に向けて白壁を際立たせている。年貢米を入れる蔵であった。1854年建築

富田林寺内町への道順
寺内町へは近鉄長野線富田林駅又は富田林西口駅下車徒歩10分です。先ずはじないまち交流館へお立ち寄りください。

散策地図がもらえます
富田林駅前の観光案内所又は
じないまち交流館
散策地図がもらえます。

立ち寄ってみたいお店

休憩所(トイレ)
じないまち交流館寺内町センターじないまち展望広場にあります。

車でお越しの方へ
寺内町は道幅が狭く、中には公共駐車場がありません。車でお越しの場合には、2014年2月に新しくオープンした富田林市営東駐車場(有料)をご利用ください。一般用の普通乗用車及び団体用のマイクロバス(1台分、市役所に要事前予約)を駐車できます。西方寺の斜め向かいに位置し、重要文化財・旧杉山家住宅まで徒歩5分、じないまち交流館まで徒歩15分。

尚、団体用の大型観光バスでお越しの際は、富田林市役所にお問い合わせください。宜しくご協力お願いします。

ボランティア・ガイド



団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)

ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。

じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館, 12月28日~1月4日休館)

 立ち寄ってみたいお店
 寺内町の町割(都市計画)
 城之門筋(日本の道百選)
 壱里山町
 富山町(とみやまちょう)
 北会所町
 南会所町
 堺町(堺筋)
 御坊町
 林町
 寺内町の入り口
 東高野街道
 重要文化財・興正寺別院
 重要文化財・(旧)杉山家住宅
 寺内町の建築様式
 屋根・屋根瓦
 虫籠窓
 格子窓
 土蔵
 煙だしの越屋根
 鐘馗さん(魔除けの瓦人形)
 袖うだつ
 歴史的建造物一覧(寺院・町家)
 歴史的町並み保存の歩み
 歴史的町並み景観の整備・保全
 歴史逸話
 明星派女流歌人・石上露子
 寺内町せんべい
 Art Gallery
 Books(寺内町関連の書籍)
じないまち瓦版(富田林寺内町をまもりそだてる会会報)
 じないまちボランティアガイド
 地域活性化への取り組み
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 じないまち随想(管理人)
 参考資料一覧
 Link

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